望郷【改訂版】

第6話

　客間に入るとすぐに、俺は昨日来た時と同じ男バージョンの格好に着替える。脱いだ喪服を丁寧に収納カバーで包み、東京土産を渡して空になったリュックと一緒にキャリーバックに入れた。ベルトポーチには財布と携帯、PASMOに、新幹線の切符。帰りの用意はあっという間に終わってしまった。　

　ふと感じる、昔と変わらない畳の香り。幼い頃兄と遊んだ、縁側から見える庭の景色。この家には、家族のあらゆる思念が残っていて、１５年間一度も帰っていなかったとは思えない程、俺は、この家族の一員として生きてきたのだと痛感する。その感覚は、時に温かく、時に疎ましく、たまらなく愛しいのに、振り払いたくなるほど煩わしい。

　ただ俺は、一度家を捨てた人間ではあるけれど、家族と完全にかけ離れた存在になりたくはない。俺と兄の互いに対する感情は、父と母が作ってきた家族の形を壊してしまうだろう。父の期待を裏切ってきた俺は、せめてそれだけはしたくなかった。

（東京帰ったら、思い切り女装楽しもう）

　兄への想いを断ち切るため、俺は一人帰るのだ。普通とかけ離れていても許される場所へ。かろうじて繋がっている、家族の絆が切れないように…

　新幹線の時間は山形１７時５分発。まだまだ時間はあるけれど、一秒でも早くこの家から出ていかなくてはという衝動に駆られた。携帯で調べたら、すぐ乗れそうなバスがあり、それに乗ってしまおうと決心する。

「おがぢゃん、おらもう出るわ」

「え？急さ何言ってんのよ、誠さ車で送ってもらえばいいべ、今浸種すてる種もみの様子見さ行ってっから…」

「いい！ちょっと店でトラブルあって、わらわら（早く）帰らんなになったがら！」

「え？慎司さん？」

「ごめん！まだね！」

　居間にいた母と真由ちゃんに別れを告げ、俺は急いで家を出る。

　見渡す限り田んぼが広がる道を、バス停目指して一心不乱に歩き、ようやくバス停が見えてきてホッとしたその時、見覚えのある軽自動車がバス停のすぐ近くに止まり、運転席から兄が出てきた。

「荷物貸しぇ」

　兄は有無を言わせずキャリーバックを掴み、後部座席に手早く乗せる。

「わらわら乗れ！店で何かあったんだべ？高速で山形まで送ってける（送ってやる）」

　咄嗟についた嘘が自分の首を絞めることになり後悔したが、この状況で断れるはずもなく、俺は助手席に乗りシートベルトを締めた。車が発進し、兄が心配そうに尋ねてくる。

「おがぢゃんと真由が、種籾はおらだが見どぐがら慎司のこと送ってけでって言いに来たんだ。店で何があったんだ？おらも夕方だと思ってだがら慌てて出でぎだんだげんど、バス来ですまう前におめに会えで良いっけ」

　罪悪感でいっぱいになった俺は、これ以上嘘を重ねられず、小さな声で謝罪する。

「ごめん、トラブルがあったって嘘なんだ」

「え？何だ、良いっけあ（よかったあ）」

　だけど兄は全く俺を責めなかった。それどころか、心底安堵した様子の兄に、たまらない気持ちになる。

「そすたら５時の新幹線で大丈夫が？」

　黙りこくったまま頷くことしかできない俺に、兄は言った。

「よす、新幹線の時間までまだあるす、山形駅までドライブすて二人でデートすねが？」

「え？」

「あれがら全然慎司の返事聞げでねがら、ずっと二人ぎりになりでえって思ってだんだ」

「あんにゃ、おらだは…」

「待って！まだ言わねで！返事はデート終わってがらにすて！」

　自らの決意を口にしようとする俺の言葉を、兄は前を向いたまま強く遮る。

「大声出してごめん、でも今は、少すだげおらの我が儘聞いでほしい」

　丁度信号待ちにさしかかり、俺を真っ直ぐ見つめる兄の懇願を、断ることなどできるはずもなかった。

「綺麗だなあ」

「だべ」

　高速にのって兄の車で連れてこられたのは、山形の市街地にある霞城公園だった。桜の名所で有名らしく、まだ満開ではないものの、慎ましく咲き始めた桜の花が、美しく公園内を彩っている。桜には、田んぼの神様が宿ると言われていて、稲作と縁の深い花だ。だけど俺達は、日中からゆっくり家族で花見なんてしたことなかったから、兄と二人で来れたことに幸せを感じる。

「慎司はさ、農家嫌いだったが？」

「え？なんで？」

「だって、おめが家出すた時の置き手紙さ、そう書いてあったがら」

　兄に尋ねられ、俺は手紙の内容を思い出す。親父に愛想を尽かされるため、俺はわざと、農家や田舎はもううんざりだとか、東京で成功するとか、痛いことを沢山書いていた。

「ごめん、あれは方便でいうが、ほんてん（本当に）農業嫌だったわげでねんだ」

「ほんじゃやっぱり、家出の原因んはおら？」

「違うよ。おら、昔がら女の格好するの好きだったべ。でもこごさいだらでぎねす、んだがら、テレビに出てるオネエタレント達さ憧れで東京にでだんだ」

　これは決して嘘じゃない。確かに、家出するきっかけは兄への想いだったけど、今更兄に責任を感じて欲しくはなかった。

「んだげんと、高校卒業すてがらでも良いっけげんど（良かったんじゃないかな）。多分おっちゃん、おめが東京の大学行ぎでえって言っても反対すねがったど思うよ。おがぢゃんがさ、予備校はじぇじぇこがかって（お金かかって）大変だってごぼすた時、おっちゃん、金はかがるがもすれねげんと、慎司には自分の行ぎでえ大学さ挑戦すてほすいって言ってだんだ」

　初めて知る父の思いに、俺は言葉を失った。

『学生の本分は勉強だべ？農家やるにすたって学があるにごすたごどはね、気にすねでけるごどやれ』

　故郷に帰ってきてから俺は、父の不器用な優しさや愛情を、まるでボディブローでも浴びるように聞いてしまっている。あの頃の俺は、自分のことしか考えられなかったけど、父は、自分の見栄や願望を押し付けることはせず、ただ、親としてできることを精一杯してくれていたのだ。

「ごめん、責めでるわげじゃねえっけんだ」

「え？」

　突然兄の指先が俺の目元に触れてきて、自分が涙ぐんでいることに気がついた俺は、逃れるように後退り、意識した明るい子で応える。

「おらの方こそごめん！おら若えっけがら突っ走ったっけんだよね（若かったから突っ走ってしまったんだよね）」

　触れられた目尻に残る兄の指の感触にドキドキする自分が疎ましい。心配そうに俺を見つめていた兄は、そっかと納得したように頷いてくれた。

「そうだ慎司、霞城シェントラルって行ったごどあるが？あそごはごごより駅さ近えす、展望台もあって山形市一体見渡しぇるぞ」

「行ぎでえ！おら山形県民なのに、この霞城公園も有名観光地も行ったごどねえっけ」

　俺がそう言うと、兄は心底嬉しそうに目を細め笑う。

（ああ、やっぱりこの人が大好きだ…）

　兄の笑顔を見つめ、あとほんのわずかでも、二人で過ごせる幸せをかみしめて、俺達は再び元来た駐車場へと向かった。

　楽しい時間はあっという間に過ぎていく。二人でドライブして、霞城公園で一緒に桜を見て、展望台で山形の景色を一望して、まるで本当に兄とデートしているような気分を味わえてすごく嬉しかった。

「やっぱり慎司は元芸能人だず、グリーン車の指定席どが乗ったりするの？」

「普通の指定席だよ」

「そっか、おらはでっきりグリーン車乗りまぐって、東京では高級マンションで運転手づきの車乗ってどが思ってだ」

「んなわげねえべ、店もアパートも管理費やら維持費やら税金やら沢山ががるんだがら、ほだな贅沢すてられねよ」

「でも凄いよな、おめはちゃんと夢叶えたんだがら」

「まあ、色々大変だったげどね、いい経験でぎだって思ってっず（思ってるよ）」

　駅近くのカフェでとりとめのない会話をしながら、俺達は互いに、もうすぐこの時が終わることを意識していた。

「そろそろ行った方がいいね」

　頃合いを見計らい、時計を見ながら言うと、兄はそうだなと頷く。

「ただその前に、車の中でおらが止めだっけ返事、今聞がしぇでくれるが？」

　俺は、緊張する心を鎮め、あらかじめ用意しておいた答えを口にする。

「あんにゃ、おらだは兄弟のままでいだ方がいいど思う。おがぢゃんや、おらだば本当の兄弟どすておがれでぎでぐれだ（育ててきてくれた）おっちゃんのだめにも」

「おめは？」

「え？」

「おめはおらのこどどう思ってるの？おがぢゃんやおっちゃんのだめどが、ほだなこどじゃなぐで、慎司自身の気持ぢ聞がしぇでほすい」

　それは昨日の夜、真理さんのことで俺が兄にした質問と本質的に全く一緒。けど俺は、その答えもちゃんと準備していた。

「あんにゃは小せえ頃がらおらがいじめられてると助げでくれで、んだがらすこだま感謝すてで、大好きで。でもそれは恋愛感情じゃねっけんだ。おらば守ってくれるあんにゃが好ぎだっただげで、要するにブラコンだったんだ」

　こう言えば、きっと兄は納得してくれる。

「家出する時あだなごどすてごめん、若気の至りでいうが…」

「…わがった」　

　本音を隠した俺の言葉に、兄は静かに頷き、それ以上何も言ってはこなかった。気まずい空気のまま二人で席を立つと、兄は俺のキャリーバックを引いて行こうとする。

「あんにゃいいよもう、あどは一人で行げっから」

「違う、慎司のだめじゃない！おらが最後まで見送りでえんだ、いいべ？」　

　何も応えられない俺を促し、兄は再び歩き始めた。

　駅に着くと、プラットホームで映画みたいに俺を見送りたいと言いだし、入場券を買いに行く兄を待っていたら、出発の時間スレスレになってしまった。俺達は急いで走り、新幹線のホームにたどり着く。

「ごめん、入場券どが買ったごどねがら戸惑ってすまって」

「ううん、間さあったがら大丈夫。こだなとごろまで見送りに来でぐれでどうも。おがぢゃんや真由ぢゃんにもよろすぐ伝えどいで、それがら、おらが嘘づいでだごどは…」

「大丈夫、内緒にすといでげる」

「ありがとう」

　返事の後も、兄がずっと明るく話してかけてくれたから、俺の中の気まずさはいつの間にか消えていた。でもすぐに出発のアナウンスが流れてきて、俺は慌てて新幹線に乗り込む。まだ開いている乗車口から兄と向かいあった途端、まだ近くにいるのに、兄と自分の距離が遥か遠く離れたように感じた。

　このまますぐ扉が閉まり、あんにゃと別れてしまうのだという絶望感が胸に押し寄せてきて、俺は、小さな子供のように、声をあげて泣きだしたい衝動にかられる。

「あんにゃありがとう！バイバイ！」

　精一杯声を出して、笑って、俺は最後に大きく手を振った。だが、兄は突然、振っていた俺の手を掴み抱きしめてくる。

「慎司！」

　名前を呼ばれ、え？と思った次の瞬間ドアが閉まり、新幹線が動き出した。なのに俺の身体は、兄の腕に抱きしめられたままで…

「あんにゃなんで新幹線乗ってるの？！」

「こうでもすねど、おめの本音聞げねがら！おめが、自分の気持ぢおし殺して、無理すて、突然耐えられねぐなっていなぐなってすまうの知ってっから！」

　その、温かい掌とは裏腹な兄の切羽詰まった声に、堪えていた涙が零れ落ちる。

「おらは慎司のこと好ぎだ！こだな気持ち、家族なんだがら感ずちゃいげねってずっと思ってだ。でも、ダメだったんだ。あの日がら、毎日おめのごどばがり考えでだ。なんでもっと強引さ止めねがったんだって…おめは家族だがら、ずっと一緒にいられるって安心すきってだのに、おめがいね現実辛すぎでたまらねがった。なあ慎司、おらはもう二度ど後悔すたぐねんだ！お願いだがら、おめの本当の気持ぢ聞かしぇで？」

　兄の溢れる感情が、激流のように俺の中に流れ込んできて、理性も倫理観も、すべて渦巻き消し去ってしまう。本当に好きな人の温もりが、どれだけ強烈で生々しく抗い難いか、昨夜のキスで嫌というほどわかっていた。だから早く離れようとしたのに、逃げるように家を出たのに…

「おらのごど、好ぎが？」

　俺を真っ直ぐ見つめ問いかけてくる兄に、もう、嘘をつくことはできなかった。

「好きだよあんにゃ。家族や兄弟どすてでね、男どすて、ずっとずっと好きだった」

　俺は兄の背中に腕を回し、本当の想いを伝える。兄は嬉しそうに目を細め満面の笑みを浮かべると、俺の頬を両手で包み込んだ。自然と惹き寄せ合うように互いの唇を深く口づけたその時、通路にあるトイレのドアがバタンと閉まる音がして、俺は慌てて兄から顔を離す。

「あんにゃこご新幹線の中！」

「ああそっか、しぇっかぐ今も両思いってわがったんだがら、触れるだげでねキス、沢山すたがったげんど」　

　兄の心底残念そうな声が可笑しくて、二人で顔を見合わせて笑い合う。俺達は抱き合ったまま、乗車口の窓から見える景色を夢見心地に眺めていた。