第五話
「茂さん大丈夫がすらね」
実家の居間で、会食用のお弁当を皆で食べている中、母が心配そうに一人呟く。あれから茂伯父さんは救急車で病院に運ばれ、付き添って行った悦っちゃんからの連絡を皆でおとなしく待っているのだ。とその時、家の電話が鳴り響き、母が即座に受話器を取る。
「はい、ああ悦っちゃん!茂さんどうだった?うん、うん、えー!そうだったの!うん、それは気にすねで大丈夫だがら。とにがぐ命に別状なぐで良いっけわ。悦っぢゃんも気持ぢ
母は受話器を置くと、再び座卓の前に座り、勢いよく話し出した。
「茂さん、こご最近急さ切れだり、言ってだごと忘れてたがと思えば固執すたり、どうも様子が
茂伯父さんの病状を聞き、俺達は神妙に頷く。これから悦っちゃん達家族は、親の認知症と介護に向きあっていくことになるだろう。
「慎司にほんてん申す訳ねことすた、許すて欲すいって、悦っぢゃんすこだま謝ってだわ」
俺は勿論頷いたが、兄は不満げに反論する。
「病気だからって何やっても許されるわけでね。慎司殴ったごと絶対謝ってもらわねど」
「おめだって茂さんに生意気なごど言ったんだべ。全ぐおめは、昔がら頭さ血昇るど抑えがぎがねんだがら」
「そうだっけ?」
母の話す兄と、俺の記憶の中の優しい兄のイメージが一致しなくて、俺は思わず母に尋ねる。
「そうだったわよ、勝君覚えでる?おめ殴って怪我さしぇで」
「あれは慎司いずめでだんだがら相手が悪い」
勝君は兄と同学年のガキ大将で、その弟の裕二君が、特に中心になって俺をいじめていた。さすがに兄も、1年生の裕二君を殴ったりはしなかったが、『慎司いずめだらおらがやり返すでける!』と脅してくれたのだ。
それを裕二君が勝君に言いつけ二人が取っ組み合いの喧嘩になり、勝君が肘を骨折してしまった。
『おがま兄弟!きもいんだよ!』
『なんだど!ふざげんな!』
兄の怒りの沸点はいつもそこだ。兄にとって、家族を馬鹿にされるのは一番許せないことなのだろう。
「それだけでねわよ、全ぐ、慎司は穏やかな子だったんだげんど、誠は小せえ頃がらやんちゃで大変だったんだがら。そうだみんな、あったげえお茶飲むわよね」
そう言って母が台所へと向かっていくと、まだ食べ終わっていない真由ちゃんが口を開く。
「意外だなあ、まこっちゃんて全然
「真由!そういう話すはいいがら!」
「でも仕方ねよね、まこっちゃん好ぎなの慎司さんだす」
さらっと飛び出した真由ちゃんの発言に、俺は飲んでいた水を吹き出しそうになる。
「何何?なんの話すてだの?」
そこへ母が、お盆にお茶を乗せて戻ってきた。
「そっ!そういえば今日、茂おずさんがあんにゃは松原家の者でねって言ってだんだげど嘘だよね」
焦って咄嗟に発した俺の言葉に、皆の空気が固まる。茂伯父さんの認知症がわかり、あれも妄言だったのかなと思ったのだが、頭の中に残っていたので、つい口から出てしまった。
「あーなんか、おずさんが変なごど言ってだがらつい」
場の雰囲気を和ませようと、なるべく明るい口調でそう言うと、母はお茶を置きながらそうだったのねと応える。母の流すような返事に、やっぱり認知症だったからかと、少しがっかりしながらも納得した。
(でも、それでも俺は、覚悟するって決めたから…)
「おがぢゃん、慎司は家族なんだぞ?おらは大学卒業すて就職する時親父がら聞いだげど、慎司だって知る権利があんべ」
だが、母を咎めるような兄の言葉に、俺は驚愕する。
「あんにゃ知ってたの?」
「ああ」
平然と頷く兄に、俺はまたもや体の力が抜けた。男同士なのは今更ともかく、俺の罪悪感の大半は、血の繋がった兄弟だということだったから。
「あーでも今は真由ぢゃんいるす…」
「おらもまこっちゃんが何で松原家に来たのか知りでえ!」
「おらだって詳しく知りでえよ、茂おずさんが親父インチキ霊能者信ずっからって言ってたぞ」
「それは違うわ!」
真由ちゃんと兄に迫られ困惑していた母が、茂伯父さんの発言を聞いた途端、ムキになって反論する。
「だいたいあの霊能者は元はといえば茂さんがね…」
しかしそこまで言って、母はしまったというように口を閉じた。
「おがぢゃん、もう全部言った方がいいぞ、おらもう大人だす、どだな理由でも大丈夫だがら」
「おらも知りでえ!」
「…おらも」
母は明らかに言いたくなさそうだったが、俺達3人の圧に観念したのか、ため息をつきながら語り始める。
「わがったわよ、おらもおっちゃんがインチキ霊能者ば信ずて誠養子にすたなんて思われたぐねからね」
母と父はお見合い結婚だった。結婚は親同士で決めるのが常識だったこの地域でも、少しずつ恋愛結婚が主流になっていたが、無口で人付き合いが苦手な父と、引っ込み思案の母にとってはお見合いが最善だったらしい。
だが父と結婚してから、母はとてつもない苦しみを味わうことになる。子供が中々できなかったのだ。
「おらだの時代は、特にこだな田舎さ不妊治療なんてねえっけす、
今でこそ、不妊の原因は男性の場合もあるとわかってきたが、昔は当然女性のせいにされ、子供を産めない女は半人前のように見下されていた。自分は男だが、女性になりたいと望んだこともあったから、母の辛さがわかるような気がして胸が痛くなる。
「でもおっちゃんは、ずっとおらば庇ってくれでだのよ。ばさまもずさまも、もっと昔なら
拝み屋やら占い師やら色々などごろに出向いで。ほだな時茂さんが霊能者を紹介すてぐれて、茂さん、今でごそインチキ言ってるげんど、当時は誰よりも信ずてだのよ」
父は乗り気ではなかったが、やれることは全部やりたいという母の訴えに折れ、二人は霊能者の元へ行ったのだ。
「そごで言われたの。おらが子供でぎねのは、昔松原家さ嫁いだが子供ができず、
「ちょっと待って!」
そこまで聞いて、俺は黙っていられず口を挟む。
「おがぢゃんほだな言葉信じたの?不妊呪いのしぇいだなんて!ほだなこど言う人は霊能者以前に人として信じられないし最低だよ!」
俺も茂伯父さんに、自分がゲイであることを呪いのように言われ傷ついた。しかもそれじゃあ、兄は呪いを解くために引き取られたとでもいうのだろうか?
「おっちゃんもおめと同ずこと言ってだわ。でもねおらは
母の言葉に、俺は押し黙ってしまった。
呪いなんて絶対信じないけれど、小さな頃から兄がいない人生なんて、想像しただけでゾッとする。
「ただおらもね、子育て甘ぐ見でだなって反省もすてるの。児童養護施設がら誠引き取っだのは、誠が2歳になっばかりの時で、そりゃもうめんごいぐて、
でも同時さ不安になったの、おらはこのお腹の子生まれでも、今までみでえに誠愛しぇるのがって。ほだな不安、誠も敏感さ感ずどったんだべね。
おらが妊娠すてがら、誠癇癪起ごすようになってすまって。ある日家で癇癪起こす誠さ、いい加減にすなさいって怒ったら、誠がおらのお腹思い切り蹴飛ばすでぎたの。おらその時思ったっけのよね。なんで血の繋がらね子さ、自分の子危険に
母の正直な告白に、俺と真由ちゃんは息を飲み、重い沈黙が広がった。
「おら、そだな酷いごどすてだんだな、でも慎司無事さ生まれてぎでぐれで
だけど、兄のいつも通りの口調に、張り詰めた空気がほんの少し緩む。
「おがちゃん、おらは知りでえんだよ。おがぢゃんとおっちゃんがどだな気持ちでおらだ
当時の感情と今の自分を切り離せたのか、母は頷き、先程よりも幾分穏やかな表情で話しだした。
「その日の夜、家族会議になったの。家族全員、誠がおらのお腹蹴ったの見でたがら、皆深刻になってすまって
養子縁組すた以上、簡単さ施設返すこどはでぎねが相談だけでもすてみだらどが、相続の問題もあるす、養子縁組の解消だけは今後のだめにすておいだ方がいいんでねがどがね」
当時の母は、それだけ追いつめられていたのだろう。けど、幼い兄のことを思うとやるせない。
「
さっきから聞いでれば!一度家族どすて迎えだ子さ何言てんだ!うちの長男は誠だ!産まれでくる子は次男!養子縁組の解消なんてすね!成人するまで
父の言動に俺は感動する。家族の中に、一人でも自分の存在を認めてくれる人がいるだけでどれだけ救いになるか、俺は知っているから。だけど母は違ったらしい。
「でもね、その時おら言ってけだのよ。おめは農作業すた後家で新聞読んでるだげでねの!子育てに大すて関わってもいねぐしぇに偉そうに言わねで!って」
「あー、それうぢのおがぢゃんも言ってだ。
おらの父親、おらが働いでんだがらおめは子育ても家事も完璧にやるのが当前みでな人で、こうすべきああすべきうるせえがら離婚すたって」
「そうだったのね、んだげんど、うぢのおっちゃんは違うわよ」
真由ちゃんに対し、母は心持ち自慢げに言葉を続ける。
「その日がらおっちゃん、積極的さ誠ど関わるようになったの。
昔はやっぱり、家事や子育ては女の仕事って当たり前だったす、
すると兄が、ああと頷き話し出す。
「正直、癇癪おごすてだ事は全然覚えてねんだげんど、小せえ頃、おっちゃんと一緒さ軽トラでお米出荷さ行ったり、色々な農作業手伝わしぇでぐれでだのはすこだま覚えでるよ、懐かすいな」
父との思い出を語る兄の顔には喜びと信頼が溢れていて、それが少し羨ましくもあったけど、父が兄を、この家に留めてくれたのだと思うと、心から感謝せずにはいられない。
「それがら慎司産まれで、後はまあこの通りよ」
全て話し終えてホッとしたのか、母は今までよりずっと晴れやかな顔をしていた。
「聞げて良かったよ」
俺がそう言うと、母は突然、申し訳なさそうに表情を曇らせ謝ってきた。
「あどねおら、慎司さ謝らんなと思って、茂さんと悦っぢゃんに、キャラ作ってだだけだなんて嘘づいですまってごめんね」
「いいよ、そんなこと」
知った時はショックだったけどしょうがない。だって親なら、男には男らしくいてほしいと思うのは、自然な感情だと思うから。
「でもね、おめのこと大事さ思ってるのは嘘じゃなぐで、それは信ずてほすいの」
「うん、わがってる」
強がりではなく、今の俺は本当に、それだけで十分だった。
「それがら、慎司がうぢの借金助けでくれだのに、おっちゃんが酷い事言ってごめんね。 慎司がら見だら、おっちゃんはひどい父親だったど思うんだげんと、おらにどってはすこだま優すくて男気のある人だったの。
多分おっちゃんは、息子にお金借りんないげねほど弱ってる事情げなぐであだなこと
母の言葉に、俺は深く頷く。確かに俺は、父が最後まで俺を認めてくれなかったことが辛くて苦しかった。でも人間には、どうしても受け入れ難い事というのがきっとあるのだ。それが父にとって、男として生まれてきた息子が女っぽくあることだったのだろう。
時に人は、血の繋がった家族に対する甘えから、他人には見せない負の感情をぶつけてしまうことがある。だから父は、心の葛藤を俺にぶつけたのだ。家族だから、家族だと思ってくれていたから…。
「それにすてもまこっちゃんも色々なごどがあったんだね。どだな家庭で
「まあ産みの親より育ての親っていうもんね、色々あったんだげんと、二人ども親思いのいい子達に育って良いっけわよ」
「おらも、まこっちゃんがおっちゃんになってぐれで良いっけ」
先程までとは打って変わった朗らかな空気に頬が緩んだが、兄の胸に飛び込もうという決意は消えてしまった。血は繋がっていなくても、それ以上に父の、家族というものに対する強い思いを知ってしまったから…
兄の家族への深い愛情と責任感は、父から受け継いだもので、父と兄の間には、血よりも濃い絆がある。揺るぎない信念を持って、自分達を育ててきてくれた父が、俺と兄が一線を越えることを望むはずがない。
(予約した夕方の新幹線には多分間に合う。俺とあんにゃは、これからも兄弟でいた方がいい。時々こんな風に訪れて、みんなの近況を聞けるだけで十分幸せだ)
そう決意し顔を上げると、兄がじっと俺を見つめていることに気がついた。俺はつい不自然に兄から目をそらし、そろそろ荷造りしなきゃと言って立ち上がる。
「えー!慎司さん今日帰ってすまうの?もっといればいいげんど!」
「そうよね、15年ぶりに来てだった2日って短がすぎるわよ、しぇめで一週間はいればいいげんど」
「仕事あっからさ、まだ遊びにぐっず」
「絶対約束だがらね!」
「わがってる」
決意が揺らぐことを怖れた俺は、兄の視線から逃げるように客間へ向かった。
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