(閑話)読むことを、あまり重くとらえないために。

 なかなか小説を読めない時期というのがある。


 体力的なものなのか。精神的なものなのか。単純に気が乗らんだけなのか。


 祖父江の場合は、生来のビビり気質である。


 紙の本でいうと、まずその分厚さと開いたときにギッチリと詰まった文字数に気後れする。カクヨムでいえば、読もうとした作品、もしくは読んでいた作品が「残り137話」などと書いてあるとなかなか読む気が起きないのである。


 何故か。というと、こちらもまた生来の強迫観念が原因だ。


 やや強い言葉を使ってしまったが、別に病気ではない。ただ、「読み始めた物語は、最後まで読まなければいけない」などと思ってしまう。


 別に感性の肌に合わなければ途中で打ち切ってしまってもよいではないか、と思われるだろうが、それはそれで、自分に課した命を完遂できなかったと気分が落ち込み、また読書から遠ざかってしまう。


 どうかこの男を笑っていただきたい。すっかり呆れているかもしれんが。


 要するに、「物を読む」という行為を、重くとらえ過ぎているわけだな。


 こういうときは、小説を読み始めたきっかけを思い出すことにしている。


 小学生の頃だったか、おのれの粗忽さ、端的に頭の悪さにほとほと嫌気が差していた時期というのがあって(今は嫌気は無い。賢くもなっていないが)、そんなときに、友人が面白そうに読んでいたほどほどに分厚い本を自分も手に取ってみて、なんとかかんとか読了したのである。


 白状するなら、内容はよく分からなかった。面白いと思う箇所はいくつかあったが、どんな話だったのかを言語化する頭は当時持ち合わせていなかった。


 ただ、分からんなりに読み切ったぞというところが、大いに自分を満足させてくれた。


 頭にはほとんど入っていない、心にはまったく残っていないが、「俺はこれを読んだぞ」という成功体験が、読書の原体験なのである。


 世の読書家からは大顰蹙ひんしゅくだろうが、頭の出来がよろしくない人種にとっては、読んで何かを得るのではなく「読んだ」という事実こそが肝要だ。


 頭を良くするために読むのではなく、頭が良くなったような気になるために読んでいた。


 やがて多少なりとも国語が分かるようになってからは物語を楽しむ余裕も出てきたが、今もそういうところはあるかもしれない。


 サリンジャーやフィッツジェラルドやヘッセなど、何を何度読んでもまったく面白さが分からないが「何はどうあれ、俺は大家たいかの作品を読んだ。ヨシ!」と読書現場猫になるために読んでいた。


 そういう人間であることを思い出せば、幾分か気が楽になる。


 ともかく読もうという気になってくるのである。

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