第18話 自己受容
アレッツオの街全体が見渡せる丘。レンガ造りの建物や、広場、教会の尖塔が朱に染まっていた。
日本ではけっして拝むことができない、風景美に息を呑む。
この世界に転生して、15年。いまだに慣れないでいる。
が、今日に限っては、よりいっそう心が動かされていた。
隅のベンチに座る少女が原因だ。白銀の髪が茜色の光を浴び、はかなさを放っていた。まるで、ヒビが入ったガラスのように、いつ壊れてもおかしくなさそう。深い哀愁が漂っていた。
僕は彼女に近づいていく。やがて、表情が見えてくる。
赤ワインに近い色の虹彩。普段は白目とのギャップが彼女を引き立てている。しかし、今は白目が血の色で、虹彩との境界線が曖昧だ。
きっと泣きはらしたのだろう。彼女の痛みが、僕の胸を抉ってくる。
僕は
心が落ち着かせようと、草が吐き出す新鮮な空気を肺に取り込む。
エーヴァさんの前に立ち、声をかけようとしたら。
「あっ」
彼女が顔を上げる。僕に気づくと、がっくりと肩を落とし。
「あたし、大変なことを……仲間を死なせてしまうところでした」
自分の罪を告白した。
「絶対にしてはいけないって、学校でも教わっていたのに」
「……」
「なんで、あのとき、中級魔法を撃ってしまったんでしょうね?」
人によっては、他人事のような彼女の態度に怒り出すだろう。
でも、僕は黙って、エーヴァさんの横に腰を下ろす。
彼女なりに理由があるのだ。そう考える。
それに、彼女の言葉を聴いていて、少しだけ安心したのだ。冷静に自分の行いを振り返っているから。
これなら対話できる。僕は彼女に尋ねた。
「魔法を撃ったときのことを話してみてもらえます?」
「……はい。ラファエロさんに、あたしが感じている怖さを聞いてほしいです」
「怖さ?」
会話の流れ的に、罪悪感に支配されていると思っていた。が、怖さとは。
「最近、あたしがあたしでなくなりそうな感じがするんです」
「エーヴァさんがエーヴァさんでなくなりそう?」
「あのとき、訳がわからなくなってしまって」
エーヴァさんは頭を抱える。
「森の入り口にオークキングが出るなんてありえない。あたしたち、すぐに逃げようとしました。でも、囲まれてしまって。みなさんが必死に戦って。なのに、ブルーノさんがあたしに出した命令は待機。合図があったら、ファイラーを使えということでした」
「……」
「命令には納得できました。あたしは魔術士。魔法で貢献するのが仕事ですから」
「ええ」
「回復魔法を使いながら、みなさんを援護していたのですが……徐々に劣勢になっていって。戦えない自分が情けなくて」
空が光って、遠くで音が鳴る。
「なんとかしなきゃっ。そう思ったら、頭が真っ白になって……気づいたら魔法を撃っていたんです。命令違反どころか、仲間を直撃するコースでした」
エーヴァさんがほぞを噛む。
僕は前のめりになる。ハの字になっていた互いの膝が触れ合う。すると、エーヴァさんは横から僕の手を握ってきた。
冒険者とは思えないほど柔らかくて、温かい指だった。彼女が寂しさを訴える。僕は少女の指を包み込む。
何度か雷が音を鳴らす間、僕たちは無言だった。
6回目の直後。エーヴァさんが弱々しい声で、つぶやいた。
「あのときのこと全然わからなくて、あたし本当に自分のことが理解できなくて」
「……」
「自分が自分でなくなっていくような怖さといいますか」
「自分が自分でなくなる怖さ?」
「ええ」
口をつぐむ。さらに、何度か雷雲が鳴いたあと、彼女の頬は少しだけ生気を取り戻していた。
「ラファエロさんの温かい手を握っていたら、落ち着いてきました」
僕はにっこりと微笑んだ。
「あたし、平和が理想なのに、現実の自分は平和とは真逆で……」
「そんな自分が許せない?」
「はい。あたしなんかが冒険者を続けていいのか悩んでます」
声の弱さに戸惑いがうかがえる。
「ラファエロさん。あたし、どうしたらいいんでしょう?」
エーヴァさんは頭をかきむしる。銀色の髪がなびく。流れてきて、僕の肩をくすぐった。
「エーヴァさん。あなたは理想を重視しつつも、現実の自分を許せない。理想と現実のギャップに戸惑い、冒険者を続けていいか悩んでいる」
僕は彼女が置かれた状況を要約する。その間、エーヴァさんは何度もうなずく。僕の発言を通して、自分の発言を振り返ったらしい。
なら、僕は賭けに出ることにした。
「理想の自分と異なってもいいんですよ。暴走してしまったエーヴァさんもあなたなんです。自分を否定しなくて大丈夫ですから」
「ラフェエロさん」
僕の指を握る手に力を込めてくる。
本来、アドバイス的な発言は避けるのが好ましい。上から目線と思われるからだ。「あたしの何を知って言ってるの? こっちの気持ちもわからないくせに」と、反発されるリスクもある。
賭けに勝った。信頼関係は壊れていない。
エーヴァさんは僕の口に期待のまなざしを向けている。
今度こそ、僕は僕の役割を果たそう。
「現実の自分を受け入れつつ、少しずつ理想に近づいていけばいいのですよ」
「……」
再び、沈黙が訪れる。エーヴァさんの顔はこわばっていた。
数秒間、おどおどと彼女は口を開いた。
「お言葉ですが……ありのままの自分を受け入れたら、人は成長しないんじゃないんですか?」
「……そう言われる方もいますね」
21世紀の日本にも、そういう人はいる。
僕が働いていた会社の経営者が、そういう思想の持ち主である。『現実を受け入れるのは甘えだ。人は常に成長を続けないといけない』が口癖だ。
僕は成長できない自分が情けなくて、死にたかった。落ち込んだまま勉強しても、結果が出ない。つらくて、勉強する気になれず……。その繰り返し。
いつしか底辺プログラマーとして、劣悪な状況で働く道だけが残された。足掻いて、もがいて。必死に働いて。なのに、経済的に厳しい。
こんな自分はウソだ。
ありのままの自分を僕は受け入れられなかった。
ダメダメなのに心の底では成長したいと思っていて。
深い沼にはまり込んで。
死んで、やっと解放されて。
今のエーヴァさんに当時の自分を重ねてしまい、胸が締めつけられそうになる。
だから、僕は自分の経験を通しての、自分だけの言葉を紡ぎ出す。
「たしかに、理想に向かって頑張ることは必要です」
いったんは彼女の言葉を肯定してから。
「でも、理想と現実のギャップが大きくて、そんな自分が許せない。そう思うことで、人の心は壊れてしまうこともあるんですよ」
かつての僕のように。
エーヴァさんの指がピクリと震える。心なしか、彼女の体温は上がっていた。
「自分を潰さないための方法があります」
「なんですか?」
「ありのままの自分をいったん受け入れることです」
「えっ?」
「理想に向かって努力するのは、心が元気なときにやればいいんです。辛いときは、まずは自分を受け入れましょう。心を楽にする方が大事です」
僕はできるだけ穏やかな口調を心がけて言う。
「でも、あたし……」
「エーヴァさんが現実の自分を受け入れないなら」
「なら?」
「ありのままのエーヴァさんを、僕は大事にします」
「……」
「今のエーヴァさんが好きってことです」
彼女は呆けた顔をする。なのに、クライエントは僕の言葉を明らかに待っていた。
僕は彼女に想いを届ける。
「パーティーから追放されたとしても、僕だけはエーヴァさんを見放しませんから!」
すると、エーヴァさんは僕から指を離し、自分の胸元へ手を添える。
何度か深呼吸したあと、彼女は微笑を浮かべる。
いつのまにか、雷雲はどこかに消えていた。茜色の空のもと、美少女が自然な笑みをこぼす。
「ダメなあたしもいていいんですね」
「ええ」
「落ち着いて、少しずつ理想に向かってもいいんですね」
「ええ」
僕はうなずくと同時に、先日のことを謝った。パーティーのリーダーになりきったことで、エーヴァさんが自分を追い込む原因になったかもしれないからだ。
「お気になさらないでください。いずれは自分で気づいて、同じことになったと思いますから」
「……」
「それに今となっては、すっきりしてるんですよ」
「すっきり?」
「ええ。ラファエロさんの言葉に救われましたので。夕方の公園デートもできましたし」
「公園デート?」
「ふふふ」
頬を赤らめたエーヴァさんがクスリと微笑む。
「でも、別のところが痛くなっちゃいました」
「痛い? まさか、戦闘で怪我でも?」
時間差で痛みがやってくることもある。心配していたら、彼女は自分の心臓に手を当てた。
「ここです。といいますか、気づいてほしいんですけど」
「えっ?」
「ラファエロさん。鋭いのに、鈍感なんですね」
ため息を吐かれる。
女の子ってよくわからない。
「まあ、いいです。気づいてもらえるように頑張りますから」
彼女は微笑ましい目で僕を見る。事情は知らないが、許してくれるらしい。原因は後で考えることとして、まずは胸をなで下ろす。
ふたりで丘を降りる。登り始めた満月が少女に月光を注ぐ。満月でいっそう映える銀髪に、僕は見とれた。
自分の不注意を反省していたら、エーヴァさんは満更でもなさそうに微笑む。
帰宅したあと、ラウラにことの次第を報告したら、機嫌が悪くなった。
女の子の心理は難しい。なんで女神様は女心を教えてくれなかったのだろう。
○
数日後。ギルドにいると、エーヴァさんがやってきた。『パーティーを辞めてきました』と、彼女は言う。
僕は軽く驚きつつも、彼女の決意を受け入れる。
「……そうなんですね。僕でよければ、これからもお手伝いしますので」
「言いましたね。押しかけちゃいますから」
清楚な笑顔は晴れやかだった。
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