2020年夏

 寝すぎたせいか頭が痛いし体全体が何やら重い。ここ数か月の間、家を一歩も出ず過ごしたので徐々に心身が衰えるのを感じている。食材も宅配サービスを利用し、ゴミ出しも最近は玄関先に出しておくと回収してくれる。外に出て、太陽にあたり風を吸いたい。私は思い切って玄関のドアを開け、外に出る。そしてマンションのエレベーターを久しぶりに下りて、1階のホールを抜けて外に出る。

「わあ、眩しい、暑い!」

 灼熱の夏の太陽が頭上から容赦なく照り付け、セミがそこら中で鳴いている。首元に汗がにじみ出る。しかし、夏を感じることがうれしくて一歩踏み出す。

 街を歩いて、異変に気が付いた。

 買い物姿の近所の人々、トラックを止めて配達物を抱えてマンションに入る宅配業者、時に営業職風のビジネススーツを着た人々が額の汗をぬぐいながら、速足で駅の方に向かっている。近くの幼稚園児たちが母親に連れられて帰宅している。大通りには車、トラックやバスが普通に走っており、ときおり、信号からは歩行者横断用の音楽が流れる。

 そう、日常という異変である。街は普通に戻っている。もしかして、私の会社のみがWFHを解除できていないのか?いや、そんなはずはない、妻も娘もまだ実家にいるままである。

 うまいと評判のラーメン屋に入ってみる。作業着を着た人々や半袖のワイシャツを着た中年男がカウンターでラーメンを啜っている。

 カウンターの隅の席に腰を下ろし、棚の上のテレビを観る。正午のニュースだ。

「さて、次はいよいよ開会式を明日7月24日に控えた東京オリンピックについてのニュースです。」

 おいおい、今年は新型コロナウイルス感染拡大で東京オリンピックは来年に延びたのではないのか?新聞を手に取って見る。一面に東京オリンピック開催の記事が華々しく出ている。

 

 新型コロナウイルス感染拡大の影響を受け、一時は来年への開催延期が発表された東京オリンピック2020は、奇跡的とも言える感染終息宣言の後に予定通りに開催されることとなりました。開会組織委員長のーーー


「何だか変だぞ。毎日、ネットやテレビでニュースを観ていたがそんなこと見たことも聞いたこともないぞ。---待てよ。」

 携帯を取り出し、妻の実家に掛けてみる。

「----何言ってんのよ!おかしんじゃないの?コロナはとっくに終息したじゃないの。しっかりしてよ、え?もしかして会社にも行ってないの?浦島太郎みたいね。」

 妻の話によると新型コロナウイルス感染は奇跡的な終息を迎え、5月のGW明けには社会は通常に戻ったとのことである。一時は来年に延期が発表されたオリンピックもとりあえず開会式は予定通りの日程で開催されることになったという。妻の父親の病状が悪化したため、妻は今でも実家から車で会社に通い娘も実家での生活に慣れてきたので妻が毎朝、小学校まで送っていたという。

「まさか今週末から家に戻るってのも知らないなんて言わせないわよ。もしかしてからかってるの?変な人ね。」

 WFH(在宅勤務)で家に閉じこもっている間に外界と家の中での時空の乖離が進んだようだ。異なる並行世界が流れていて、今日、外出したとたんそちらの世界にワープしたのだ。

「まあ、良い。こちらの世界では社会は通常に戻り、妻も娘にももうすぐ会える。」

 あまりにも嬉しくなり、出てきたラーメンを大急ぎで食べてスープを半分ほど啜ってから、勘定を支払って店の外に出る。そう、海に向かう道を今から全力で走るのだ!

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