5

「ただいま」


 娘の声に、ニナは目を開けた。白みがかったような景色がゆっくりと色彩を帯びていく。

 顔を傾けると、夫のティムも同じく目が覚めたようだった。しょぼしょぼと目を数度瞬きながら、娘の顔を見て困ったように笑う。おかえり、リリー。


 リリーは木の器を持って、二人のベッドまで近づいてくる。今日は葡萄を煮詰めたジャムと、パン。塩漬けした肉と、サティア芋が乗っていた。


「どれなら食べられる? お肉はちょっときついかな。ジャム、塗るね」

「リリー……来ちゃだめと、言っているでしょう」


 娘は無言で支度をする。一度寝室を出ると、台所から食器を三枚、水が入った木筒を二本、パンを切ったりジャムを塗ったりする為のナイフを持って来た。

 娘に聞こえるようについたため息。夫は悲しそうに首を横に振った。


「パパはいらないよ。リリー、パパの分はお前が食べなさい」

「駄目。食べないと良くならないよ」


 頑固な声だ。一体誰に似たのかと以前ぼやいた時、夫は「間違いなく、君だね」と朗らかに笑っていた。


「言う事を聞きなさいリリー。帰らないと、ジーク先生が困るでしょう」

「いい。誰に怒られたって、家に帰ってくるもん」


 満足に動かない体では、口で注意する事しか出来ない。静かに夫に目配せすると、またもや首を振る。今日も諦めるしかないね、という瞳だった。 


「リリー、水筒はどうしたの? 一本足りないけれど」

「……アリエラにあげた。綺麗だから欲しいって」


 リリーは視線を合わせないまま、皿をずいっと差し出してきた。ニナはすぐにピンときた。何か嘘を言うとき、娘は絶対に目を合わせない。


「嘘でしょう。まさかどこかに置いてきた、とかじゃないでしょうね」

「……」


 無言は肯定。隣のティムの気配が変わった。


「リリー、この家が村の人達にバレたらいかんと、散々言ってきただろう。どこに置いてきたんだ」

「……泉」


 小さな声でぼそっと言うと、くるりと背中を向ける。拗ねたのが背中ごしに伝わるが、リリーは引き続き食事の用意をしていた。

 ティムの盛大なため息が聞こえる。少しでも自分達が生きている事を悟られてはいけないのに、どうして我が家の痕跡を残してくるのか。動けないからこそ、本当に歯痒い。


「すぐに、取りに帰ったの。でも、もう無くて」

「盗られただけならそれでいい。まさか後をつけられたりしてないだろうね」

「それは、大丈夫。ジーク先生だってすぐに撒いたから」


 その言い方にニナは少し笑った。十歳そこらの女の子が、撒いただなんて表現。自分たちのせいとは言え、もうそんな言葉を使うようになったのか。


「パパ。少しでいいから食べて」


 ごめんなさいと小さな声で言いながら、ティムに皿を手渡す。上目遣いの顔にティムの怒気はみるみる下がっているのが分かる。しぶしぶといった感じで受け取りながらも、娘が可愛くて仕方がないのだろう。もう笑顔になっていた。


「じゃあ、少しだけ。ありがとう、リリー」

「リリー、お肉は貴女が全部食べなさい。大きくなれないからね」

「うん、分かった」


 親子は揃っていただきます、と唱えた。正直なところ、病気が進行するにつれて空腹感よりも喉の渇きのほうが顕著になっていた為、パンを見たところで食欲は湧かない。それは夫のティムも同じはずだ。


 だが、娘に二人の存在がバレてからというものの、とれる時はこうして家族の時間を積極的に取るようにしていた。

 あと何回、こんな時間を過ごせるか分からないから。


「そういえば今ね、村に薬師様が来ているんだって」

「へえ、そうなの。この村に来るなんて、いつ以来かしら」

「そうだな。多分前来たのは、僕らが引っ越ししてくる前のはずだ。そりゃあ、皆喜んでるだろうね」


 ベッドの上で過ごす二人には、外界の話が伝わらない。リリーに来られて困るのは山々だが、死を待つだけの時間はあまりにも長く苦痛で、どんな話でも興味をそそられる。


「リリーは何を診てもらうの?」


 薬師の滞在中はどんなに些細な事でも相談する、というのは常識だった。純粋な病気や怪我から、日常の相談まで。ただの愚痴みたいな相談でも、大抵の薬師は快く引き受けてくれるのだ。


「えっと、私は――」


 リリーが言いかけたその時だった。コンコン、と玄関の戸が叩かれたのは。

 夫婦の空気は一瞬で凍った。息を潜めて、目配せし合う。


「そんな……どうしてここが」

「リリーの後をつけられたのか」


 絶望の色に染まる。これまで隠してきた努力が、水の泡になってしまうではないか。


「ママ、パパ。私が呼んだの」


 申し訳なさそうな娘の声に、思わず小さな顔を凝視する。両親の視線を受けたからだろう、リリーは忍び足で玄関まで向かって、そっとドアスコープを覗いた。再び寝室まで戻ってきた娘の顔は、輝いていた。


「ごめんください。薬師です」

「えっと、リリーのお宅でしょうか? 夜分にすみません、水筒を返しに来ました」


 聞きなれない男の声に続いて、少年と思しき声が聞こえる。どうやら、二人いるようだ。


「開けてくる!」

「リリー! やめろ!」


 ティムの悲痛な声は、娘に届かない。一目散に走る姿のすぐ後に、施錠が開く音が聞こえた。 


 ニナとティムは目を合わせた。ティムは苦渋の表情で、ニナは泣き出しそうな顔で、首を振る。しかしこちらの事などお構いなしに、足音は近づいてくるのだ。自分達を見た薬師にかけられる言葉が想像もつかなくて、ニナはぎゅっと目を瞑った。

 木が軋む音とともに、寝室のドアが開く。もうどうする事も出来ない。


「こんばんは。薬師のクレイと申します。こっちは、助手のエド」


 存外、柔らかい声音。ゆっくりと目を開けると、いかつい顔の中隠れた優し気な瞳が、二人に笑いかけた。隣に佇む少年も、リリーを見てにこにこと笑っている。


「娘さんに呼ばれて来ました。二人が緑化病患者という事は決して口外しませんから、少し診察を受けられませんか」


 夫婦は再び、顔を見合わせた。自分たちの姿を見ても、薬師達が全く動じないから。

 ドアの外にちらりと見える真っ黒な空。時刻はだいぶ遅い時間だという事に、二人は今更ながら気が付いた。


「……」


 静かに閉まる家の戸。ティム一家は初めて、家族以外の人間を家に招きいれる事となったのであった。

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