子育て支援課〈後編〉
ミーティングテーブルの空気は緊迫していた。険しい顔をした地域保健福祉課の木村係長と、梅原さん。急遽の呼び出しに困惑顔の保護課の矢野さん。いつもと変わらないのは土屋係長だけだ。
「最近体重の伸びが緩やかだったんですけど。今日の訪問では体重が減ってたんです。ちょうどミルクをあげてたんですが、いつもと違うというか……粉ミルクの量を減らして薄めている気がしました。どうしたのか聞いても、雨沢さんは何も言わなくて」
いつもは明るい梅原さんの、強張った顔。矢野さんが口を挟む。
「生活費が足りないって言ってたのと関係あるのかな。ミルクは買えてました?」
「ミルク缶、一つはありました。買い置きがあるかまでは……」
「花岡さんは何か聞いてます?」
矢野さんに聞かれ、私は首を振る。
「先週の訪問では何も……。あ、でも」
謎の男性が頭を過ぎり、恐る恐る報告する。
「先週ヘルパーさんが来た時に、男性の出入りがあるって言ってて。私が訪問した時もいました。雨沢さんは、誰なのか答えてくれませんでしたが」
木村係長の眉間の皺が深くなる。
「彼女、風俗で働いてたかもしれないんでしょう? 彼氏と遊んで散財してるんじゃないでしょうね」
「今までは、そんな様子ありませんでした」
梅原さんが小さな声で言う。
スパークしそうな頭は、うまく回らない。疲れた様子だった雨沢さん。子育てを頑張っているからだと思っていたけれど、本当は違ったんだろうか。
私が見てきた雨沢さんと、私が知らない雨沢さん。
私は本当に、雨沢さんのことを分かっているんだろうか。
「まぁ、次回訪問の結果によりますね。まずいと思ってきちんとミルクあげてるかもしれないし。また体重が減るなら、尚更どうしたのか聞きたいし」
沈黙を破ったのは土屋係長だった。のんびりした口調に、木村係長が噛みつく。
「悠長じゃないですか? 普通、この時期に体重減少なんてあり得ません。彼女はもともと支援にも拒否的でしたし、うちだっていつまで訪問できるかわかりませんよ。まだ1か月の乳児です、何かあってからでは遅い。児童相談所への通告も検討していいのでは」
児童相談所。心臓が悲鳴を上げる。もう、私の手に負えない事態だ。
「通告はまだ早いでしょう。まずは話を聞いて、事情があるなら一緒に考える。それでも体重が減って、訪問も拒否するなら話は変わりますけどね」
「ですが」
「まだ、私達にできることがあります。ここからですよ」
木村係長は不服そうに押し黙る。私も、土屋係長の言葉に頷けなかった。暗闇に放り込まれたみたいで、先が見えない。
「確か、明後日が花岡の訪問予定日だよな」
突然係長に言われ、慌てて頷く。
「明後日、梅原さんも同行して体重測ってもらえますか。その結果を受けて、対応を検討しましょう」
「分かりました。雨沢さんには、『心配だから近いうちに来る』と言っておいたので大丈夫だと思います」
「このままの状況なら、保護課から金銭面の指導として事情を聞く方法もあると思います」
「まぁ何にせよ、明後日話を聞いてみてからだな」
土屋係長が立ち上がり、他のメンバーも立ち上がる。会議は終わった。私だけ、暗闇に立ち尽くしたまま。
翌日も慌ただしさに紛れるように、雨沢さんのことは蓋をしていた。ようやく一段落した夕方、土屋係長がおもむろに言った。
「さて、明日の作戦会議するか」
「は?」
やっと取りかかった書類から目を上げる。土屋係長は仏頂面で私を見ていた。
「明日、雨沢さんの訪問だろ。どんな風に話を聴くか考えてるか?」
考えても分からない、と言う訳にもいかず押し黙る。土屋係長が頭を搔いた。
「まぁ思惑通りには進まないし、出たとこ勝負だけどさ。それでもシミュレーションしとけばマシだろ。俺を雨沢さんだと思って、言ってみろ」
「できません」
「いきなりロールプレイとは言わないけど、何かあるだろ。花岡が雨沢さんに聴きたいこと。伝えたいこと」
「……分かりません」
沈黙が流れる。土屋係長がいつになく黙っている。でもどうせ「お前もケースワーカーだろ」が始まるんだろう。そんなんじゃないのに。そう思ったら、急に焼けるような怒りが込み上げてきた。じわりと視界が歪む。
「花岡」
「もう、無理です。私が何を言っても無駄です。なぜ乃ノ花ちゃんの体重が減るのか、お金が無いのか、聞いても雨沢さんは答えない。男の人絡みなら尚更です。もう来るなって言われるだけ。私は雨沢さんのこと、全然分かってなかったんだ。こんなことになるなんて」
声が震え、息が詰まった。顔が歪んでいくのが自分で分かる。向かいの丸山さん達が心配そうにこちらを見ている。情けなくて、涙が零れた。
「雨沢さんは、全て見せてはいないのかもしれない。でも、お前が分かってくれたと思ったから、繋がってくれたんじゃないのか」
「……本当は、彼氏と遊び回っているのかもしれない」
「本当にそう思うのか」
言葉に詰まる。毎日のように電話を架けてきた雨沢さん。内容は全て、乃ノ花ちゃんのことだった。
「あのな、雨沢さんのことを1番分かっているのは課長でも係長でもない。直接関わってきた、担当のお前だよ。ケースワーカーとしての自分をもっと信じろ」
係長の一言に、私の中でプツンと糸が切れる。
「そんなの信じられる訳ない! 私は皆みたいに専門職じゃない。知識も経験も無くて、何の助言もできなくて、全然ダメなんです。いきなり相談対応しろって言われても、基盤が無いのに。どうせ無理だったんです!」
閉じ込めてきた気持ちが溢れて崩壊しそうになった時、冷え冷えとした声がした。
「……だったら公務員辞めろ」
「な、なんでそうなるんですか。ケースワーカーが無理だって話で、仕事を辞めたいわけじゃ」
「俺たちはspecialist《スペシャリスト》じゃない。generalist《ジェネラリスト》だ。自分はこれしかやらない、なんて言ってたら働けない。公務員なんて皆そうだろ。異動の度に全く知らない仕事を1から覚えて、プロとしてやっていくんだ。納税課で働いてた人間が、突然児童相談所のケースワーカーになることもある。児童心理司だった人間が、高齢者関係の事務職として働くこともある。どんな状況でも皆、目の前の人のために自分ができることを考えていくんだ。職種は関係ない、やるかやらないかだ!」
「は~い、そこまで!」
場違いに明るい声がして、突然課長が私たちの間に割って入った。腰に手を当て、にっこり微笑む。
「面白そうな話じゃない、続きは私に聞かせて。花岡さん、ちょっといいかしら?」
今更ながら自分の発言を振り返り、背筋が寒くなる。私の返事も聞かず、課長は歩き出した。係長が大きく溜息をつく。背中に皆の視線を感じながら、私は課長の後を追った。
課長は相談用のブースに入っていった。狭い空間はさながら説教部屋だ。私はごくりと唾をのむ。
「やめたかったら、ケースワーカーやめてもいいわよ」
課長はいきなり爆弾を放った。私は呆気にとられる。
「そんな簡単に!」
「勿論、明日からすぐって訳にはいかない。引継ぎもあるからね。でも、花岡さんがもう無理だって言うなら強制できないわ」
こんな仕事止めたい。ずっと願っていたことだった。それなのに、胸にぽっかり穴が空いた気がした。
「じゃあ、今までは一体……。なんで私にケースワーカーやれなんて……」
「私も福祉畑が長かったからね、一人でも多くのケースワーカーを育てたかったの。去年から業務分担の変更を考えてて、係長にも相談してた。係長は『花岡ならできるでしょ』って言ってたわ」
私は目を見張った。土屋係長が、そんなことを言ったなんて。
「お前もケースワーカーだ」と言われる度、苦しかった。とてもそうは思えなかった。でも土屋係長は私のことを、本当にケースワーカーだと認めていたんだろうか。
課長はふわりと笑う。
「知識も経験も、あるにこしたことはないわ。でも一番大事なのは、一人の人間として相手に向き合うことなんじゃないかしら。どうしたらいいかなんて、分からなくて当然よ。相手の人生だからね、最後に決めるのは相手。私たちにできるのは、一緒に考えること。勿論花岡さんも一人じゃないのよ。私も係長も相談にのるし、責任は私がとるから。……まぁ、問題は明日の訪問ねぇ」
課長は首を傾げて私を見る。
「確かに難しい局面よね。いきなり担当交代は無理だけど、係長に同行してもらう? 私から係長に言ってあげるわよ」
「えっ……」
明日、係長が同行してくれれば前面に立たずに済む。そのままフェードアウトして相談対応から手を引けば、胃が痛む日々から解放される。
雨沢さんの顔が浮かんだ。
張り詰めた横顔、泣き顔、晴れやかな笑顔。
もう、会えない。
「……明日、いきなり知らない人が家に来たら、余計に警戒されそうです。私と梅原さんで行きます。その後のことは……また考えます」
つっかえながら言った私に、課長は「そう」と微笑んだ。
暗闇は続く。先は見えない。
それでも、一人で歩いていた訳ではなかったのだと気付いた。
翌朝は私の心を映したような曇天だった。出勤前に自動販売機に寄る。昨夜は眠れなかった。眠気覚ましのブラックコーヒーは、ケースワーカーになって覚えた味だ。どこまでも、苦い。
「訪問前に自分が感じる気持ちは、相手も感じている気持ちだ」と、前に土屋係長が言っていた。雨沢さんは、今朝をどんな気持ちで迎えたのだろう。
「おはよう~」
子育て支援課に出勤すると、丸山さんと香月さんが声を掛けてくれた。いつもと変わらぬ笑顔に救われた気持ちになる。パソコンの電源を入れようとして、デスクに置かれたお菓子に気付いた。高級そうなチョコレートの包み。
「何ですか、これ?」
「何だろうねぇ。皆の机に置いてあるんだけど、カモフラージュだよねぇ。置いた人はいなくなってるしねぇ」
丸山さんがニヤニヤして答える。香月さんがくすりと笑う。私は隣の席を見る。まだ出勤時間前のはずだけど、既に鞄が置かれている。
「係長も素直じゃないよね。言い過ぎたと思ってるなら、ちゃんと謝ればいいのにね」
「はぁ……」
まるで聞き耳でも立てていたかのようなタイミングで、係長がやって来た。仏頂面で席に座る。向かいで丸山さん達が笑いをかみ殺している。
「あの、チョコありがとうございます」
「あぁ、うん」
「あの……昨日、すみませんでした」
「……まぁ、俺も悪かったな」
係長はパソコンから顔を上げずに呟く。包みを開けると、花を形どった可愛いチョコ。頬張るとじんわり甘く、心がふわりと軽くなる。
「……また相談にのってください」
「おぅ」
そういえばこの人達は「頑張れ」って言わないなと、ふと思った。
みんな、たくさんのものを背負って頑張っているから。口には出さず、その背中を見守っているのだ。
「じゃあ、体重測りますね」
梅原さんが裸ん坊の乃ノ花ちゃんを抱き上げる。私も雨沢さんも、固唾を飲んで体重計を見つめた。
今日は、チャイムを押すとすぐ雨沢さんが出た。室内には男性の靴も灰皿も無い。雨沢さんは、今日をどんな思いで迎えたんだろう。隣の彼女の、強張った横顔。
体重計の数字が動き出す。梅原さんが声を上げた。
「増えてる!」
「えぇ!?」
思わず膝立ちになると、驚いた乃ノ花ちゃんが顔を歪める。梅原さんがすかさず抱き上げ、笑いかけた。
「やったねぇ」
まさかの展開に拍子抜けしてしまう。今まで悩んできたのは何だったんだろう。隣を見ると、雨沢さんも呆けたような表情をしていた。
「よかったですね」
雨沢さんは頷いて立ち上がろうとしたが、よろけて座り込んだ。
「大丈夫ですか?」
「うん……ちょっと、立ちくらみ」
答えて、そのまま動かない。緊張が解けた今も、雨沢さんの顔色が悪いのに気づく。梅原さんがキョトンとして尋ねる。
「どうしたの? 体調悪い?」
「……ご飯、食べてなくて。お金、無くて」
沈黙が降りた。固まった私達を、雨沢さんが青い顔で見上げる。
「体重増やさなきゃって、乃ノ花に飲ませてたけど……。どうしよう。もう、ミルク無い」
「はぁ!?」
梅原さんがキッチンに駆け出し、ミルク缶を抱えて戻ってきた。開けると既に底が見えている。顔から血の気が引いていくのが分かった。見れば隅に置かれた紙オムツの袋もペチャンコで、厚みの無いおしりふきが転がっている。
保護費が支給されるまで、あと一週間はある。梅原さんが上ずった声で尋ねた。
「今、いくらあるの?」
雨沢さんがバックを引き寄せ、財布を出す。札入れは空っぽで、小銭の中に僅かな百円玉が光っていた。現実に直面し、硬直していた私の頭が回転し始める。
雨沢さんが最近利用した貸付は、まだ返せていないから利用できない。どうしたらいい?
「家にある食べ物は?」
「お米は無い。お菓子があとちょっと」
「水道代や電気代は?」
「もう払ってたから大丈夫」
「うーん……支給日まで乃ノ花ちゃんを乳児院に預けては? 雨沢さん一人だけならまだ……」
がばりと雨沢さんが顔を上げた。ギラギラした瞳が私を射抜く。
「絶対イヤ!! 体重減ったら乃々花が連れていかれちゃうかもって思ったから、お米買わずに頑張ってきたんだよ!」
「でもこのままじゃ……保護費が入れば、乃ノ花ちゃん引き取れますから」
「やだっっ!!」
「……そもそも、なんでこんなことになったんですか?」
雨沢さんは首を振り、声を上げて泣き出した。つられたように乃ノ花ちゃんも泣き出す。私と梅原さんは、青い顔を見合わせた。
突然、バッグの中で振動音がした。公用携帯だ。ボタンを押すと、のんびりした声がした。
「長引いてるな。どんな具合だ?」
背後の泣き声も聞こえるはずだけど、土屋係長はいつも通りだ。不意に泣きそうになり、慌ててドアの向こうに走る。
「体重は増えてたけど、お金無くて、雨沢さん食べてなくて、ミルクとかも無くて。支給日まで乃ノ花ちゃん預けるのは拒否で。お金無い理由も分からないし、どうしたらいいか……」
「分かった、何とかする。もう少し粘れ、世間話でもして時間稼いどけ」
「何とかなるんですか!?」
「世の中、大概何とかできるんだよ。でも簡単にどうにかしてもらえると思われちゃ困るからな、迂闊なこと言うなよ。また連絡する」
プツンと切れた電話を見つめる。係長は一体、どうするつもりなんだろう。
まだ泣き声は続いている。ギュッっと胃が締めつけられる。でも。
……無理じゃない。まだ、終わりじゃない。
ドアを開け、雨沢さんの隣に座る。蹲って泣く背中に声を掛けた。
「預けたくないって知ってるのに、預ける話をしてすみません。どうすれば二人でやっていけるか、考えましょう。誰か助けてくれそうな人はいます?」
雨沢さんは首を振る。乃ノ花ちゃんを抱いてあやしながら、梅原さんも話しかける。
「生活保護だからお金は貸し借りできないけど、ミルクや食べ物を差し入れしてもらうのは大丈夫だよ。そういうこと頼めそうな人は?」
雨沢さんは黙ったまま。迷ったけど、一か八かで言ってみる。
「前に来てた男の人は?」
「……絶対ダメ。もう連絡つかない」
答える声は低く、空気が一段と重くなる。「粘れ」という係長の声が甦り、私はじわりともう一歩を踏み出す。
「別れたってこと、ですか?」
「……ヒロは、私と同じだったから……」
「私と同じ?」
雨沢さんは再びしゃくり上げる。
雨沢さんが「ヒロ」と出会ったのは、祖母が亡くなった後だったらしい。職場でもうまくいかず、グループホームには馴染めない。そんな中、ネットで繋がったヒロは優しく話を聞いてくれた。
「こっちに来たら。知り合いが仕事紹介してくれるよ」
雨沢さんは迷い無く仕事を辞め、ヒロの元へ行った。顔も本名も知らない彼を信じて。
「ヒロは、私と同じなんだ。お父さんもお母さんも、誰もいない。そういう中で生きてきた人だから」
妊娠に気付いた頃からヒロとは疎遠になった。ふらりと連絡がきたのは、出産後のこと。家に招き、金欠だという彼に度々食事を振る舞った。財布のお金の減りが早いのに気付いたが、うっかり使いすぎたのだろうと思っていた。足りない生活費は、保護課に相談して貸付で補った。
最近、ヒロからお金を貸してほしいと言われた。悩んだが、断った。彼はそれ以上何も言わなかった。けれど、彼が帰った後で財布からお札が消えたのに気付いた。連絡しても、返事は無いままだった。
「警察に相談したら……?」
恐る恐る言った梅原さんに、雨沢さんは首を振る。
「ヒロが盗ったって証拠無いし、今どこにいるかもわかんないし。あいつ、フラフラしてるから」
沈黙の中で、乃ノ花ちゃんの寝息だけが聞こえる。安らかな寝顔を見つめ、雨沢さんが寂しそうに笑う。
「ヒロは、本当に優しかったんだ。私のこと分かってくれる人だと思ってた。連絡こなくなって寂しくて。……産んでから連絡がきた時、やっぱり私や乃ノ花に会いたいんだと思った。でも、ヒロは乃ノ花に興味ない。乃ノ花を見もしない。ヒロは優しいけど、時々すごく冷たい。用があれば家に来るけど、家を出たら私のこと、忘れちゃうんだ……」
雨沢さんはスマートフォンを取り出した。LINEの画面をしばらく見つめ、震える指でタップする。「ブロックしました」の通知を、私たちは声も無く見つめた。
「もう、会わない」
「……いいの?」
会ってほしくないくせに思わず言ったのは、雨沢さんがあまりにも辛そうだったからだ。刹那的な優しさでも、雨沢さんには救いだったのだろう。その瞳から涙が零れる。
「私は、乃ノ花と生きていきたい。だから……」
雨沢さんは嗚咽を押し殺した。いつものこどもみたいな泣き方じゃなく、悲しみを噛みしめるように静かに泣いた。
私たちは黙って、雨沢さんの悲しみと共に居た。
静かな部屋に、玄関のチャイムが響いた。私たちはビクリとして顔を見合わせる。
「まさか、またヒロがお金借りに来たんじゃ……」
「えぇっ」
再びチャイムが鳴る。動けずにいると、男の人の声がした。
「雨沢さん、います? 子育て支援課ですけど」
「土屋係長!」
皆でバタバタと玄関に向かう。雨沢さんが鍵を開けると、両手に紙袋を下げた土屋係長が立っていた。私を見てにやりと笑う。
「早めに準備できたんで、直接持ってきた」
ぽかんとした雨沢さんに袋を差し出す。スティックミルクや紙オムツの束が見えた。
「赤ちゃん関係は、健康課から乳幼児健診で配ってる試供品をもらってきた。食品は企画課と総務課から。『さわらの春』スタンプラリー景品の米の小袋と、災害用備蓄品のロングライフパン」
「ありがとうございます! よかったですね、雨沢さん」
「課長自ら各課に電話したからな、相手も拒めんだろうよ。でも、あくまでフィクションだからな。区役所が実際にこんなことしてるとは限りませんからね、そこ注意してくださいよ」
「係長、誰に言ってるんですか?」
「いろいろあるんだよ。……さて、雨沢さん」
係長はまっすぐ雨沢さんを見た。低い声で言う。
「今回だけですよ、二度目は無い。そういう約束で、区役所からかき集めてきたんでね」
「……はい」
俯いた雨沢さんに、「だから」と付け加える。
「困った時は相談して下さい。役所の人間だからってすぐには信用できないかもしれない。でも、少なくとも敵じゃない。三人寄れば何とやら、だ。一人で考えるより、もうちょっといい方法が浮かぶかもしれませんよ。花岡だって、いれば役に立つでしょう?」
「その言い方ひどくないですか?」
「花岡、お前にも言ってんだよ。もっと早く連絡して来い、裏方がいるのを忘れるな」
「はぁ……」
くすりと笑った雨沢さんが、紙袋から米袋を取り出し吹き出した。
「何これ、キモい!」
見ると「さわらの春」の文字と共に、足が突き出たリアルな魚が描かれている。
「『さわらくん』ですよ。鰆区のマスコットキャラクター」
「こんなのが? 信じらんない」
「全くだな」
「係長、それ言っちゃいます? まぁ梅原も同感ですけど」
「じゃ、俺は戻るわ」
背を向けた係長に、もう一度頭を下げた。紙袋に混じったスーパーの袋。おしりふきやレトルト食品は、区役所から持ってきたとは思えない。
「ありがとーございましたっ!」
赤い瞳のまま、雨沢さんがくしゃっと笑う。気付けば辺りはもう夕暮れ。長かった一日が、終わろうとしていた。
「今週木曜、10時にお家に行きますね。出かける支度して待っててください。大丈夫ですよ、早めに行くから荷物一緒にチェックします。何かあれば連絡くださいね。はい、失礼します」
電話を切り、小さく「よしっ!」と呟く。向かいの席で香月さんが微笑む。
「雨沢さん?」
「はい、一緒に保育園の見学に行くんです。渋ってましたけど、実際の様子を見てみようって言ったら何とか同意してくれて。申し込む気になってくれたらいいんですけど。保育園にもサポートしてもらえたら、心強いですから」
「一つずつ、一つずつだね」
雨沢さんは相変わらず頻繁に電話してくる。けれどあれから男性の影は無いし、お金が無くなることも無い。ヘルパーさんや私達に不満をぶつけることもあるけれど、どうにか関係が切れずにやっていっている。
「まだ、どうなるかわかんないですけどね」
「そうなのか?」
隣からぶっきらぼうな声がした。少し迷って、言葉を紡ぐ。
「前、言われたことがあるんです。雨沢さんが育てるのは、もう無理なんじゃないかって。その時思ったんです。どうせ終わりがくるのなら、何のために関わってるんだろうって」
「終わり、か……。まぁ子育てはハプニングの連続だし、その可能性が無いとは言えない。里親や施設に長期間預けて、こどもと別々に暮らすこともあるかもな」
ずきんと胸が痛んだ。絶対に離れないと泣いた、雨沢さんの姿が浮かぶ。係長は淡々と続ける。
「でも、預けたら終わりって訳じゃない。里親や施設に手伝ってもらって子育てしてもいいんだよ。いろんな家族があっていい。大事なのは、親子の絆が失われないことだ。雨沢さんは、今こどもを可愛がって育ててるだろう? それは皆が雨沢さんをサポートすることで、親子の絆が育まれる環境があるからだ。その絆があれば、預けた後もこどもを忘れない。母親として繋がっていける。だから、今の支援は無駄じゃない」
「はい……」
「まぁ、願わくば一緒に育てていきたいよな。乃ノ花ちゃんが育っていくのを、ずっと見守っていけたらいいよな」
涙が零れそうになり、瞬きを繰り返す。無駄じゃない、終わりじゃない。自分に言い聞かせるように呟く。
ピンポン、と窓口のチャイムが鳴った。見ると相談者らしい女性が不安気な顔で立っている。立ち上がろうとする香月さんに、声を掛けた。
「香月さん、事業で忙しい時でしょ。私が行きます」
「大丈夫?」
「とりあえずお聞きしてみます。でも手に負えなかったら、相談に戻ってきてもいいですか?」
「もちろん」
深呼吸して立ち上がる。係長が口の端を上げる。微笑む香月さんに見送られ、どきどきしながら窓口へ向かう。
この仕事に適性があるなんて、絶対言えない。いつまで経っても自信は持てないままかもしれない。それでも。
神様。もう少しだけ、ここで頑張ってみてもいいですか。
子育て支援課の在課年数は、長い。もうごめんだたくさんだと言いながら、在課を希望する人が多いのは何故なのか。
その秘密を、いつか私も知ることができたらいいなと思う。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます