子育て支援課〈中編〉

 

 私は目の前の光景に息を呑んだ。

 すやすやと眠る赤ちゃん。力一杯泣き出す赤ちゃん。ちっちゃな手、細い足首。ガラス越しの新生児室は別世界みたいだ。

 「可愛いですねぇ」

 瞳を輝かせる梅原さんの横で、赤ちゃん達から目を逸らす。背後で足音がして、振り向くと白衣の看護師が立っていた。

 「おまたせしました、看護主任の後藤です。こちらへどうぞ」

 キビキビした後藤主任の後に続きながら、私は暗澹とした気持ちになった。


 ……産まれたばかりの赤ちゃんって、こんなに小さいんだ。


 可愛さよりも危うさが先に立って、自分の顔が強張るのを感じていた。



 雨沢さんは私達と妊婦健診に通い、無事病院で出産した。面会に来た私達は、まず出産後の母子の様子を聞くことになっていた。

 面会室に入るなり、後藤主任が入院経過を説明し始めた。専門用語についていけない私と違い、梅原さんは熱心にメモをとっている。事前に母子共に元気とは聞いていたので、一段落したところで質問する。

 「雨沢さん、赤ちゃんのお世話はどんな感じでしょうか」

 途端、後藤主任の眉間の皺が深くなった。ドキンと心臓が跳ねる。

 「率直に申し上げて、心配です」

 固い声が心臓を貫く。私はごくりと唾を飲んだ。

 「母乳で頑張るよう指導しましたが、すぐ諦めてしまって。ミルクを作る練習をさせていますが、なかなか理解できません。オムツ交換もタイミングが掴めずにいます。指導しても、スタッフを選り好みして人によっては聞き入れません。こんな状態で一人で育てられるのでしょうか」

 後藤主任の厳しい眼差しに、返す言葉が出てこない。自分の不安がそのまま現実になった気がした。退院は明日。明日からは、彼女一人でやるしかないのに。握りしめた手が強張る。

 「勿論、私たちがフォローします」

 朗らかな声。梅原さんだった。梅原さんはまっすぐ後藤主任を見ていた。

 「ヘルパーの手続きは済んでいますし、私達も妊娠中から関わっています。赤ちゃんのお世話がどうすれば出来るようになるか、一緒に考えたいと思います。彼女が育てられないと思っているのなら、別の方法もありますが……。難しさを抱えた方ではありますが、それを補うための支援を受け入れてもいます。私達も密に訪問して、支援していきます」

 ドアがノックされた。看護師が顔を出し、「雨沢さん来られます」と告げる。後藤主任は固い表情のまま席を立った。ドアの所で振り向き、私達を厳しく見据える。

 「行政として、責任をもって関わって下さい。一か月健診は必ず受けさせて下さいね」

 ドアが閉まると溜息が漏れた。梅原さんが肩をすくめる。

 「電話で聞いた話と違うなぁ。体重増加も順調だって言ってたのに」

 「すみません、何も言えなくて」

 「私もうまいこと返せなかったですよ。まぁ墜落分娩寸前だった人ですし、心配されて当然ですよね」

 再び溜息が漏れた時、ドアの向こうで話し声がした。「失礼します」と入ってきたのは若い看護師で、その後ろに赤ちゃんを抱いた雨沢さんがいた。

 看護師が椅子を引き、雨沢さんの背中に手を添えて支える。雨沢さんは視線を腕の赤ちゃんに向けたまま、慎重に腰を下ろした。赤ちゃんが眠ったままなのを確認し、微笑む。

 動作はぎこちなかったけれど、雨沢さんはすっかりお母さんになっていた。

 「女の子だった。もう名前決めたよ。明日、区役所で届出すもんね」

 「どんな名前?」

 「乃ノののか

 「可愛い名前! ね、花岡さん」

 梅原さんの声に私も頷いた。雨沢さんに話しかける。

 「明日、私が病院まで迎えに来ます。区役所で、一緒に赤ちゃんの手続きをしましょう」

 「やっと家帰れる~。ココご飯不味いし看護師さん怖いし、早く出たい」

 堂々と言った雨沢さんに、隣の看護師が苦笑する。雨沢さんは看護師に笑いかけた。

 「前田さんは優しいよ。前田さんが教えてくれたおかげで、いろいろ出来るようになったもん」

 「雨沢さんが一生懸命だからですよ」

 梅原さんがすかさず二人に話しかける。

 「赤ちゃんのお世話はどう?」

 「できてるよ、ねぇ前田さん」

 前田さんは私たちの前にノートを開いた。育児日誌らしく、1日毎に授乳時間やオムツ交換の時間が書き込まれている。

 「雨沢さん最初は慣れなくて、パニックになったりしましたけどね。赤ちゃんが泣きだしたらノートを見て、3時間経っていたらミルクをあげる。ミルク後にオムツ交換してノートに書く。そうやって練習してきたんです。昨夜は頑張って、一晩赤ちゃんと同室でお世話できたんですよ」

 「ミルクうまく作れなくて、看護師さんに超怒られてさ。私もキレちゃった。そしたら前田さんが、哺乳瓶に印つけてくれたんだ。ここまでお湯入れるんだよって。何さじ計るかも缶に書いてくれてさ」

 「これからも、ミルクの量が変わるときは書いてもらったらいいですよ。保健師さんに教えてもらって下さいね」

 「おぅ、任せて!」

 雨沢さんが笑い声を上げた時、腕の中の赤ちゃんが身動きした。ゆっくりと開いた瞳に、私は思わず見入った。澄みきった湖のような、美しい瞳だった。

 雨沢さんが私を見る。

 「抱っこしてみる?」

 「えぇっ……私、産まれたばかりの赤ちゃんって、初めて……」

 「抱き方教えてあげる」

 雨沢さんに言われるがまま腕を差し出すと、右腕に小さな頭が載った。熱いくらいの赤ちゃんの体温。思ったよりずっしりと重い。この子が、ずっと雨沢さんのお腹にいたんだ。なんだか不思議で、じんわり嬉しさがこみ上げてきた。

 「花岡さん、力入れすぎ。キンチョーしすぎ」

 吹き出した雨沢さんに向き直る。

 後藤主任の危惧は正しいだろう。きっと、これからも心配は続くだろう。

 一方で、前田さんが語った雨沢さんの姿も事実だ。危うくても、雨沢さんは乃ノ花ちゃんの母親になろうと頑張っている。

 腕に感じる命の温もり。

 「雨沢さん、出産おめでとうございます。一緒に、育てていきましょうね」

 雨沢さんは晴れやかに笑った。数え上げたらキリが無い心配を、吹き飛ばしてしまうような笑顔だった。


 翌日、約束通り雨沢さんは区役所にやって来た。まず子育て支援課に行く。手続きの間、保育士の丸山さんが赤ちゃんをみると言ってくれたからだ。退院の大荷物もついでに預け、二人で市民課に向かう。

 「おめでとうございます」

 出生届を出すと、窓口の女性が微笑んだ。母子手帳に記載された名前を、雨沢さんは嬉しそうに撫でる。

 「これでもう、一人じゃない」

 「え?」

 「前に、ここで家族の書類? とった時、一人ぼっちだと思ったんだ。お母さんのこと覚えてないし、もう誰かと結婚したみたいだし。ばあちゃんも死んじゃったし。あぁ、私には家族がいないんだなぁって」

 戸籍のことを言っているのだと分かった。言葉が出ない私に、雨沢さんはさらりと言った。

 「私は絶対お母さんみたいにならない。乃ノ花を一人にしたりしない」

 やっぱり、言葉は出なかった。雨沢さんの想いが私の中で溢れ出し、黙って頷くことしかできなかった。 


 手続きを終えて戻った私達を出迎えたのは、なぜか課長だった。乃ノ花ちゃんを嬉しそうに抱いている。

 「赤ちゃん可愛いかったわ〜。また連れてきて!」

 凍りつく私をよそに、雨沢さんはすんなり課長から乃ノ花ちゃんを受けとる。後ろから丸山さんの顔が覗いた。

 「お疲れ様。お母さんも大変だろうけど、無理しないでね」

 「はーい、ありがとうございま〜す」

 気付けば係全員集合して、乃ノ花ちゃんを覗き込んでいる。係長まで目を細めているのを見て、思わず吹き出した。隣の雨沢さんも、大きな口を開けて笑っていた。



 雨沢さんが退院して一ヶ月が経った。

 「戻りました……」

 疲れ果てた私は、デスクに積まれた書類の山に溜息をついた。土屋係長がにやりと笑う。

 「おぅ、早かったな」

 「着いてすぐ追い返されましたからね。毎回、何なんですかね」

 「最初は連絡つかないって泣いてただろ。頼りにしてもらって、ありがたいじゃねぇか」 

 泣いてないし。言い返す気力も無く座り込む。パソコンの画面を開けば、至急のメール。もう溜息も出なかった。


 雨沢さんは何かにつけて電話してきた。赤ちゃんに何を着せたらいいかわからない、湿疹が出た、泣き止まない。話して落ち着くこともあれば、パニックになり泣き続けることもある。今日も赤ちゃんが泣き止まないと言うので訪問したが、「もう寝たからいい」と追い返された。もともとは、ヘルパーさんが入らない火曜と木曜に私と梅原さんが訪問する予定だった。その定期の訪問以外にも電話や訪問が続き、私のスケジュールは破裂しそうだ。

 ……これ、いつまで続くんだろう。

 「花ちゃん、電話。保護課の矢野さんから」

 暗澹とした気分に拍車がかかる。断る訳にもいかず受話器をとると、案の定雨沢さんの件だった。

 「ちょっと気になることがあって。先週、生活費が足りないって相談されたんだ。赤ちゃん関係で遣いすぎたらしい。今回は福祉資金の貸付案内したけどね」

 「そうだったんですか」

 これだけ電話してくる割に、そんなこと言わなかったな。違和感が過ったけれど、疲れた頭は働かない。

 「もともと金銭管理は心配してたんだ。保護受給前は国民健康保険だったけど、滞納もあったみたいだし。訪問の度に保護費の遣い方はチェックしてたんだけどね。もし気になることがあったら教えてもらえないかな。雨沢さんにも、お金のことで困ったら僕や花岡さん達に相談してほしいって伝えてるから」

 「分かりました」

 電話を切り、書類の続きに取りかかったところでまた声が掛かる。

 「花ちゃんにお客さんだよ」

 次は来客。胃がぎゅうっと絞られる。渡された名刺の事業所名を見て、嫌な予感は倍増した。雨沢さんの支援に入っているヘルパー事業所だ。

 窓口にいたのは年配の女性で、石井と名乗った。ヘルパーさんたちのまとめ役らしく、きりっとした眉はいかにも有能そうだ。

 「雨沢さんから子育て支援課の方が関わっていると聞いたので、ご相談に来たのですが」

 身構えた私に、石井さんはきっぱり言った。

 「雨沢さんはヘルパーの利用を止めたいと言っています。花岡さんがいつでも止めていいと言った、と」

 「えぇっ」

 冗談ではなく冷や汗が出た。福祉・介護保険課でのやりとりが過る。大後悔の渦に巻き込まれるけれど、今は思考停止してる場合じゃない。

 「雨沢さんはヘルパーの申請に、その、乗り気ではなくて……。初めての子育てだし手伝ってもらう方がいいんじゃないか、自分でできるようになればやめてもいいのではないかと、そんな話はした、と思います」

 石井さんは溜息をついた。胃が石を詰め込まれたように重くなる。

 「雨沢さんは『自分でできる』と仰いますけどね、全然ですよ。使った哺乳瓶は放置されてるし、シンクは洗い物だらけ。そりゃお一人だから、手が回らないところはあるでしょうけど。買い物だって私たちが手伝っているから何とかなってるんです。お一人では抱っこ紐の使い方も覚束なくて、赤ちゃんを連れて外出なんてまだまだなんですよ」

 「はい……」

 私は首をすくめる。雨沢さんの部屋が荒れてきたのは気になっていた。けれど目の下に隈を作って「疲れた」「眠い」を連呼する彼女に何も言えず、ヘルパーさんに手伝ってもらえるところはお願いするよう言っていたのだ。

 「もともと日によっては不機嫌で口も利かなかったりしましたけどね。最近はチャイムを鳴らしても電話してもドアを開けなくて。延々待たされた挙句に『そんなにチャイムを押すから乃ノ花が起きた』って怒ったりするんです。これでも、私達も配慮してきたんですよ。早く慣れてもらえるようにって、入るスタッフをなるべく固定して。本人が止めたいって言うなら無理強いはできませんけど、今の状況で私達が抜けるのは心配です」

 「はい、お手伝いして下さること、すごくありがたいので……。あの、明日訪問予定なので、私からも利用を止めないよう話をしても、いいでしょうか……」

 私にはどうしようもないと思ったけれど、そう言うしかなかった。胃がきりきりと締め上げられる。雨沢さんが初日に見せた凄い形相が甦る。彼女は、たぶん意見を変えない。でもヘルパーさん無しでは立ち行かない。どうしたらいいんだろう。

 「ぜひお願いします。花岡さんに相談することはウチからも伝えたので。……それから、他にも心配があって」

 私は逃げ出したくなった。とっくに容量超過キャパオーバーだ、勘弁してほしい。けれど逃げ場があるはずもない。石井さんの眉がぐっとせり上がる。

 「実は、男性の出入りがあるようなんです。ウチが訪問するのは午前11時ですけど、その時間帯に若い男性が寝てたんですよ。茶髪にピアスで……なんだかあまり柄がよくないというか。雨沢さんは何も説明しないし、スタッフも聞けなかったんですけど。父親かしらと思ったけど、乃ノ花ちゃんには無関心でスマホいじってたっていうし。泊ってたのかしらねぇ。まぁ雨沢さんも若いしとは思うけど、なんだかこのまま……赤ちゃん置いて男性とどこか行っちゃったらって、心配なんですよ」

 そんなことは無い、と言いかけて、言えなかった。乃ノ花を一人にしない。雨沢さんが本気でそう思ったのを知っている。でもいっぱいいっぱいになった時、彼女がどう出るかは分からないんじゃないか。自分を置いて去った母親のことが、ブレーキになるか、アクセルになるか。

 「私達も心配だから支援を続けたいんですけど、迷いもあるんですよ。本当に育てられるのか……。支援があるからなんとかなっているけど、どこかで無理がくるんしゃないか。徒にその時期を遅らせてるだけなんじゃないかって……」

 石井さんは視線を落とした。それまでの強い口調ではないことが、かえって私を打ちのめした。私は黙って、石井さんに頭を下げた。握りしめた拳に、汗が滲んでいた。


 席に戻り、パソコンに向き合ったが手は止まったままだ。石井さんの言葉がぐるぐる回る。


 どこかで無理がくるんじゃないか……。


 どうせ終わりがくるのなら、私達が関わっている意味は?


 こんなことを言ってはいけないと分かっている。けれど、穴の開いた桶で水を汲み続けるような徒労感があった。

 「どうした」

 隣で声がしたけれど、口を開いたら泣いてしまいそうな気がした。視線に気付かなかった振りをして、書類の山に顔を隠した。


 誰のために、何をやっているんだろう。


 

 翌日、チャイムを鳴らしても雨沢さんは出てこなかった。室内に灯りはついているが、ノックしても電話しても出る気配が無い。躊躇いながらノックを続けると、怒鳴り声が返ってきた。

 「うるさいなぁ、分かってるよ!」

 ドアが開いたが、出てきたのは男性だった。息が止まりそうになる。金に近い茶色の髪、耳に光るピアス。雨沢さんと同い齢くらいだろうか。奇妙に明るい表情は、不穏な感じがした。雨沢さんが相手に不満を爆発させる人だとすれば、彼は突然全てを投げ出し消えてしまう人に見えた。男性はスマホをいじり、私を見もせず去っていく。玄関に立つ雨沢さんは固い表情だった。私をちらりと見たが、無言のままリビングに戻っていく。あの男性と、何かあったんだろうか。迷いながら、私も後に続いた。

 リビングでは乃ノ花ちゃんがオムツ一枚で泣いていた。傍らには汚れたらしいベビー服。雨沢さんは干された洗濯物をバタバタ取り入れ、乃ノ花ちゃんを着替えさせている。

 「あの……」

 話しかけようとするが、返事はせず汚れ物を持って部屋を出てしまう。洗濯する水音がした。乃ノ花ちゃんは泣き続けている。そっと抱き上げ、歩きながらあやす。

 不意につまずきそうになり、床に置かれた灰皿に気付いた。放置されたままの吸殻。雨沢さんは煙草を吸わない。さっきの男性だと思った。

 バタンとドアの音がして雨沢さんが入ってきた。私の視線に気付いたのか、灰皿を机の上に押しやる。

 「私じゃないからね、吸ったの」

 「あ、はい……さっきの方、どなたですか?」

 「関係ないでしょ」

 つっけんどな物言いに、何も言えなくなる。雨沢さんは私の腕の中の乃ノ花ちゃんに視線を向けたけれど、座って机に突っ伏した。いつもより、さらに元気が無い。

 「……お疲れ、ですよね」

 こくりと頭が動く。言うかどうか迷いながら、そろそろと口を開く。

 「あの……あんまりしんどいなら、休むために乃ノ花ちゃんを預けるのはどうでしょう。短期間乳児院でお預かりするサービスがありますよ。1日でもぐっすり眠れたら、疲れもとれて……」

 「絶対イヤ!!」

 言葉を遮り、雨沢さんが私を睨みつけた。

 「預けたりなんかしない。そんなこと言うなら、花岡さんももう来ないで!」

 眠りかけていた乃ノ花ちゃんがびくりと体を震わせ、泣き出す。再び歩きながらあやすと、そろそろと瞼が閉じてきた。小さな体を、ぎゅっと抱きしめる。

 雨沢さんが呟く。

 「ヘルパーさんが来なくなれば休めるもん。やっと眠れたって時に来て起こされるし。バタバタしてる時に、チャイム何度も鳴らされてさ。イライラする」

 「……そうなんですね」

 「すぐドア開けないって怒られてもさ。夜も眠れないし、やることはいっぱいあるし、乃ノ花は泣くし。私だって、頑張ってるのに」

 「ヘルパーさんは、その……怒ったというより、心配したんだと思いますよ。雨沢さんや乃ノ花ちゃんに何かあったんじゃないかって。さっき、私も心配で……何度もノックしたり、してしまったので」

 雨沢さんはふて腐れたように黙り込む。乃ノ花ちゃんは腕の中で寝息を立て始めた。そっと布団に降ろすと、ぴくりと体を震わせ顔が歪んだ。しまったと思った瞬間、雨沢さんが腕を伸ばして布団の上からポンポンとあやした。乃ノ花ちゃんの顔が次第に和らぎ、寝息が聞こえだす。

 「さすがお母さん、ですね……」

 二人で顔を見合わせる。雨沢さんが少しだけ微笑んでくれて、強張っていた私の心がほんのちょっと解ける。

 「乃ノ花ちゃん、まだ生まれたばかりだし。ヘルパーさん来なくなったら、大変になりませんか? あの、雨沢さん一人じゃ無理だ、という訳じゃないですよ」

 「わかってるよ。まぁ、買い物してくれるのは助かるし」

 「助かることもあるけど、バタバタな時に来られて困ることもあるんですね」

 ヘルパーさんの支援自体が嫌な訳じゃないんだ。そう思ったら、ふと考えが浮かんだ。

 「あの、例えばですけど。鍵の隠し場所を決めておいて、チャイム押しても出なかったら鍵を開けて入ってもらう、とかは? そしたらドア開けに行かずに済みますよ」

 雨沢さんは考え込んだ。ダメかと思った瞬間、小さな呟きがした。

 「……いいかも」

 「ホントですか!?」

 思わず声が大きくなり、乃ノ花ちゃんを見た。小さな眉がぎゅっと寄っている。慌てて伸ばした手が、雨沢さんと重なった。二人で布団の上から優しく叩く。寝息を確認し、小声でささやいた。

 「鍵の隠し場所、考えましょう。ヘルパーさんには私から伝えます」

 雨沢さんは疲れた顔で、それでもにっこり微笑んでくれた。



 ちょっとだけ、前進したような気がしていたけれど。

 翌週、梅原さんとその係長が突然子育て支援課にやって来た。


 「乃ノ花ちゃんの体重が減っています。今後の対応について協議させて下さい」


 私は息を呑んだ。


 「どこかで無理がくるんじゃないか……」


 いつかの石井さんの言葉が過ぎり、握りしめた手が震えた。

 

 

 

 

 

 


 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

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