地域保健福祉課
「梅原さん、見立てが甘いと思います」
淡々とした課長の声が課内に響いた。折り目正しい白シャツ、固く結い上げられた髪。痩せた小柄な体が発するオーラは半端なく、私はひたすら身を縮める。皆は粛々と仕事をする振りで、そっと様子を窺っている。
課長は、さっき私が供覧した訪問記録をめくった。
「訪問したばかりなのに長時間の電話をしてきて、最後は切電だったんでしょう。母親からのSOSではないでしょうか。来月の母子巡回でフォローだと、遅いように思います」
「……校区を回るついでに寄ったことにして、今日訪問してきます」
「お願いします」
課長はそのまま立ち上がった。「少し外に出ます、急ぎがあれば呼んで下さい」という声に全員が頷く。伸びた背筋が視界の外に消えると、誰ともなく溜息をついた。先輩が私に笑いかける。
「お疲れさん。今週は係長が出張でいないから、課長と直接対決だもんね~」
「お花タイムが待ち遠しかったわ」
すっかり和んだ課内は、お喋りモード。「お花タイム」というのは、課長が区役所の花壇を回る時間だ。区民の憩いのために四季の花が咲く花壇。花の世話役はボランティアの職員で、課長は率先してお世話しているらしい。課長が花壇へ去ると、課にも憩いの時間が訪れる。
「今の話、この前の電話のこと? 1時間半続いて、『もう結構です』って切られたっていう」
「そうですよ~。未だに言われますよ、『小池さんなら分かってくれたのに』って。前任が大ベテランって、辛いですよ~」
「まぁまぁ」
ぱたりとデスクに倒れ伏し、そんな自分に嫌気が差した。4月に異動してきて、何度こんな会話を繰り返しただろう。自分の服が目に入る。チェックのベスト、紺のスカート。憧れだった保健師の制服。
「……よっしゃあっっっ!!」
ぱぁん、と両頬をはたいて立ち上がる。引いている先輩を他所に、体重計が入った巨大なリュックを背負った。庁用自転車の鍵をひっ掴み、お腹に力を込めて叫ぶ。
「訪問行ってきます!」
「いってらっしゃ~い」
和やかな声に見送られ、今日も私は戦いに向かう。
地域保健福祉課は、その名の通り地域保健福祉活動を担う。乳幼児の子育て相談や生活習慣病予防、介護予防。赤ちゃんから高齢者まで、幅広い区民の相談に応じている。
私はここで働く保健師だ。家庭訪問に事業に、毎日担当校区を駆け回る日々。入庁して3年目。それなりに仕事に慣れてきたところで、壁にぶち当たっている。
「どうしていきなり来るんですか、非常識な。やっとこどもが寝て、今から家事をするところなのに。小池さんは、突然来たりしませんでしたよ」
玄関を開けた樫井さんは、冷ややかに言った。長い黒髪の間から覗く、胡乱な瞳。勇気をかき集めてチャイムを押した私は、気合が霧散していくのを感じた。
「すみません……先日のお電話が気になったもので、えっと、近くまで来たので、少しでもお会いできたらと……玄関先で結構ですから。すみません」
どうにか笑みを浮かべる。バクバク波打つ心臓。やっぱり、事前に電話すべきだったか。でも電話したら、「この前訪問されたばかりでしょう」って追い返されたんじゃないかな。
「あの、その後、離乳食はどんなですか?」
恐る恐る尋ねると、樫井さんの顔はますます冷ややかになった。
先日の電話は離乳食の相談だった。赤ちゃんが5か月になり離乳食を始めたけれど、食べてくれないと言う。知恵を絞ってみても「やってみました」「それはダメです」と取り付く島もない。一方で、「スプーンはどんな形状のものが適しているんですか? 材質は?」「本に野菜スープをあげてもいいって書いてありますけど、どんな野菜でもいいんですか? 急に何種類もの野菜でスープを作ったら、アレルギー反応が起きませんか?」等細かい質問が続いた。
「あの……今度、離乳食をあげている時に訪問させてもらえませんか? 実際の様子を見せて頂いて、一緒に考えたいんです」
「時間は日によって違いますから、事前にはお約束できません」
先輩からのアドバイスを口にした私に、樫井さんはにべなく言う。でも、負けてたまるか。
「大体の時間を教えてもらえば、予定を合わせますから」
私が食い下がった時、奥から赤ちゃんの泣き声が聞こえ始めた。樫井さんは後ろを振り向き、私に忌々し気な溜息をつく。
「離乳食は概ね10時から11時の間です。訪問は、事前に連絡を下さい。迷惑ですから」
「すみません……日程調整してご連絡します。今日は突然、すみませんでした」
「失礼します」
話は終わったとばかりに、樫井さんはバタンと扉を閉めた。体重計の重みが肩にずしんと食い込む。電話では赤ちゃんの体重が増えているか気にしていたから、計らせてもらおうと思っていたのに。言い出すこともできなかった。もう
「……ダメだ!」
ぱぁん、と再び頬を張る。
まだ、訪問は拒否されていない。まだ私にはできることがあるのだろう。たぶん。
樫井さんは、産婦人科の依頼で繋がり、訪問しているお母さんだ。出産後から育児に関する細々した質問が続き、産後の1か月健診でも涙ぐんだり落ち込んだり、不安定な様子が目立った。心配した病院側が心療内科の受診も勧めたけれど、拒否。夫は仕事で多忙、双方の実家は遠方。樫井さんは結婚を機に退職し、夫の元へ転居してきた。知人もいない土地で産後の支援も無い。保健師に育児をサポートしてもらう提案をしたところ、同意が得られたらしい。
前任の小池さんは、ベテランの保健師で3人のこどもを育てたママだ。引継ぎで一度お会いしたけれど、ゆったり微笑む穏やかな人だった。樫井さんは小池さんを信頼し、よく電話でも相談していたらしい。しかし、小池さんはこの春突然異動してしまった。後任は自分より10歳下の、未婚で出産経験も無い青二才。初回訪問時、樫井さんは露骨に私の左手を見て言った。
「小池さんなら、分かってくれたのに」
樫井さんの言葉が刺さった。樫井さんの質問攻めと戦うべく、専門書を読み返し、先輩たちに相談しながら対応しているけれど、付け焼刃なのは私が一番知っている。樫井さんの不満も落胆も、当たり前だと何処かで思っていた。
「戻りました……」
席に着くと、「おかえり~」と声が掛かった。課長席は不在。課のボードには、課長の欄に「会議」の文字。ホッとした。
「どうだった? 会えた?」
「会えましたけど……いきなり来るなって、迷惑そうでした……」
「離乳食はどうだって?」
「玄関先でちょっとしか話せなくて、今の状況は分かりませんでした。でも、一緒に離乳食をあげる約束はしました」
「やったじゃん」
「どうでしょ……」
徒労感が押し寄せ、再びデスクに突っ伏す。樫井さんの胡乱な瞳、冷ややかな声。会えなかった赤ちゃん。
「訪問しても……どうなるんですかねぇ。また質問攻めにされて、うまく答えられなくて、小池さんならって言われて終わるんですかねぇ。やっぱり、子育て経験無いと分からないもんですかねぇ」
「あんまり腐りなさんな。まぁ、皆悩むところだよ。独身でも指輪つけて、子持ちの設定で面接してた人もいたらしいけどね。でもさ、経験者なら安心されるかっていうと、それも違うんだよね」
「そうですかねー……」
私は顔を伏せたまま呻く。ちょっと、と先輩が背中をつついてきたけれど、なんだか気力が湧かない。
「いくら保健師でも、結婚もしてない未熟者じゃ相談なんかできないですよね」
言っちゃいけないと分かっていたけれど、愚痴がこぼれた。背後で、ぴしりと空気が凍る音がした。異変を感じて顔を上げる。
目の前に、課長がいた。厳しい表情で私を見下ろしている。
私は慌てて立ち上がった。課長の、指輪の無い左手。自分の顔から血の気が引くのが分かった。私の保健師生命、終わったな。
「梅原さん」
叱責を覚悟し身構えた私に、課長は静かに言った。
「聴くのよ。……ただ、聴くの」
「……は?」
ぽかんとした私に背を向け、課長はデスクへ戻っていく。何事も無かったように仕事に向かう先輩達。私もパソコンに向き合った。けれど、頭の中は恥かしさといたたまれなさでグチャグチャだ。
聞けって。この間も、忙しい中1時間半も電話聞いたよ。でもダメだったじゃない。これ以上どうしろっていうのよ。
そんなことを思う自分が情けなくて、パソコンの画面が涙で滲んだ。
樫井さんとの約束の日。私は再び、勇気をかき集めて玄関前に立った。事前に連絡し、訪問の了解はとれている。早鐘のような心臓を無視し、平静を装いチャイムを押す。
ドアが開き、いつもの無表情で樫井さんが現れた。揃えて置かれたスリッパ、埃一つ無い室内。いつ来ても、この家は一部の隙も無い。樫井さんみたいだ。
「これが10倍粥です。さっき炊けたところですが、硬さをチェックして頂けますか」
樫井さんの口調は事務的で無駄が無い。こんな調子で、仕事も出来る人だったんだろうなと思う。私は丁寧に潰されたお粥を確認し、頷いた。
「バッチリだと思います。早速、美恵ちゃんにあげてみます?」
バウンサーに座った美恵ちゃんは、5か月になったばかり。お粥に興味津々で、お口をもごもごさせている。離乳食を始める時期が早くて食べないのかとも思ったけれど、食事に対する興味は出てきているようだ。私が微笑みかけると、満面の笑顔を返してくれた。
樫井さんは可愛いベビー食器からお粥をすくい、無言で匙を突き出した。その表情は、緊張のためかいつにも増して険しい。異変を感じた美恵ちゃんがのけぞる。これはマズイと思ったものの、どうしていいか分からず私も固まる。
「ほら!」
ぐい、と匙を突き付けた樫井さんの手を、美恵ちゃんが嫌がって払いのけた。はずみで匙が宙を飛び、お茶碗が転がる。ぐちゃり、と床に着地したお粥。
「あっ……」
私は思わず呻いた。樫井さんは沈黙している。室内に、美恵ちゃんの泣き声が響いた。
「えっと……抱っこしてもいいですか?」
動かない樫井さんに代わって、バウンサーから美恵ちゃんを抱き上げる。軽く揺らすと、泣き声が少し小さくなった。
樫井さんは、沈黙している。
「えっと……もう少しリラックスしては? 食べたらラッキー、くらいの軽い気持ちで」
「食べたらラッキー?」
凍り付いた空気に焦って口走った私を、樫井さんは睨みつけた。冷や汗が背中を伝う。腕の中の美恵ちゃんが、再び顔を歪める。
「何を呑気なことを。もう5か月過ぎたのに、こんな調子で食べないんですよ。準備する身にもなって下さい。美味しいものを食べさせたいって、いつも炊き立てをあげているのに。このまま食べなかったら、どうなると思ってるんですか!」
樫井さんは、怒気をはらんだ口調で言い募る。最後に、吐き捨てるように言った。
「……結局、あなたには分からないのよ」
言葉が、深く胸を
離乳食始めたばかりだし、食べなくて当たり前ですよ。もっと大らかに考えましょう。
炊き立てにこだわらなくてもいいんですよ。一生懸命準備して食べなかったら腹が立つし、お母さんが笑顔で離乳食をあげられる方がいいんじゃないですか。
言いかけて、言葉を飲み込んだ。
美恵ちゃんが泣きそうな顔で私を見上げている。不安なんだ。お母さんの不安が、赤ちゃんにも伝わっている。よしよし、と揺すると美恵ちゃんの力が少し抜けた。
この親子は、ずっとこんなやりとりを繰り返してきたのだろうか? 一生懸命になるほど、悪循環だなんて。
樫井さんの不安を、少しでも和らげることができたら……。
『聴くのよ』
課長の声が甦った。
『……ただ、聴くの』
私を睨みつける樫井さんに、向き直る。怒りの仮面の下に、泣き出しそうな美恵ちゃんの顔が重なる。
分かったようなことは言えない。付け焼刃の言葉じゃなくて。
今この瞬間、樫井さんから伝わる想いを。
「毎日、炊き立てのお粥を準備されてるんですね。大変なのに、美恵ちゃんのために頑張って下さってるんですよね」
呟くと、樫井さんはぐっと黙った。
整理整頓された室内。お手本みたいな離乳食。隙の無い樫井さん。
初めての子育て。思い通りにならない赤ちゃん。一人で不安と向き合う日々。
完璧な樫井さんには、分からないことや出来ないことって、人一倍辛いことだったのかもしれない。
樫井さんへの対応が辛かった私。でも、どうしたらいいかわからないのは、辛いのは、樫井さんの方だったのに。私、本当に分かっていなかった。
樫井さんは、正しい答を求めていたんじゃなくて……。
「美恵ちゃんって、笑顔がすごく可愛いですよね。いっぱいあやしてもらってるんだろうな、大事に育てられてるんだなって、思います。大事だから……食べてくれなかったら、そりゃ心配になりますよね」
樫井さんは俯いた。硬い表情。その瞳が、濡れているように見えた。
やっと会えた、と思った。
未熟な私は、ずっと気付かずにいた。私はやっと、樫井さんに会い、その声を聴いたのだ、と。
自転車を区役所の駐輪場に停め、課に戻ろうとして立ち止まった。花壇の人影。
課長だった。座って花がらを摘む横顔は、いつもより柔らかい。傍らに立つと、課長も気付いて顔を上げた。
「あの方、訪問してきました。……お話、聴けた、と思います」
課長は頷き、また花に向き合う。私も一緒にしゃがみこんだ。
「あの時……ありがとうございました」
伝えたいことはたくさんあったけど、言葉になったのはそれだけだった。目の前で、黄色い水仙がさやさや揺れる。笑ったみたいだと思った。
「昔、私があなたくらいの頃」
課長が水仙を見ながら呟いた。立ち上がりかけた私は、動きを止める。
「課によく電話してくるお母さんがいました。担当が不在でも、別の人を捕まえて不安や不満を話し続けて。切り上げようとすると、責められて。『大体、あなた何歳なの』『こどもはいるの、どうせいないんでしょ』って。私は困るばかりで」
私は瞬きした。話の中の戸惑う課長と、今の揺るぎない課長は重ならない。
「ある年、私がその方の担当になってしまったんです。どうしようか悩んで、指輪をして子持ちの設定で会ったり。生活費はどんな風に遣り繰りするんだろうって計算してみたり。少しでもその方に近付きたかったんです。『どうせこの人には分かるまい』って思われたくなくて。……でも、やっぱり事あるごとに責められました」
指輪をして、子持ちの設定で会う。先輩が話していた保健師って、課長だったんだろうか。
課長は水仙から視線を上げ、私を見た。
「ある時、腹を括ったんです。もう私に出来ることは、この方の話を聴くことだけだって。それで、ひたすら話を聴きました。そしたら、不思議とその方は私を責めなくなりました。たぶんそれまでは『そんなこと言っても仕方ないのに』『いい加減に解放して欲しい』っていう私の気持ちが、伝わってたんじゃないかと思います。覚悟を決めたことで、やっとその方の話を聴くことができたんだって」
覚悟を決めた。
分かる気がすると思った。目の前のその人に、向き合うこと。
「最後の訪問の時、その方が言ったんです。『何も言わずに話を聴いてくれて、ありがとう』って。そんなこと言われると思わなかったから、びっくりした。……私はあの方に、大切なことを教えて頂きました」
私は課長を見て頷いた。いつもと違って、課長と目を合わせることができた。
「課長でも、迷うことがあったんですね。私もいつか、迷わない人になれるかなぁ」
課長は柔らかく微笑んだ。
「どうでしょうね。迷うというのは、吟味しているということですから。担当者もそれぞれ、相談者もそれぞれ。唯一の正答はありませんから、迷って当たり前ですよ」
「……今も、迷うんですか?」
くすりと笑う声がした。水仙が揺れる。そのまま、課長は立ち上がった。
「そろそろ戻りましょう」
きびきびと歩き出す、伸びた背筋はいつもの課長だ。私は後に続きながら、さっきの会話を反芻する。
これからも、迷って、立ち止まって、蹲ってしまうことの連続なのかな。もしかしたら、年齢を重ねる毎に、経験を積む度に、立ちはだかる壁も高くなるのかもしれない。
課長は私たちの分まで、さらに高い壁に向き合っているのかしら。だから余計に厳しく、強く在ろうとするのかしら。
それでも、この道を歩き続けられたら。
いつか、柔らかく微笑む私に出会えるだろうか。
気が遠くなるくらい、遥かな道のりかもしれないけれど……。
ふと思いついて、聞いてみた。
「課長が花壇に行くのって、息抜きだったりします?」
課長は答えない。その口角が僅かに上がったような気がした。背後で黄色い水仙が、さやさやと笑う。
どうやらそれは、課長と花壇の花たちとの秘密なのだった。
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