保護課

 春一番に吹かれながら、階段の踊り場で一息つく。部屋番号を確認し、インターフォンを押す。室内で響くチャイムの音は聞こえたけれど、返事は無い。しばらく待って、小さくノックする。

 「井家さん、いらっしゃいますか。矢野です」

 静まり返った団地は声が通る。誰が聞いているか分からないから、所属は名乗らない。たっぷり10秒待って、息を吐いた。準備してきた手紙を郵便受けに差し込み、無言のドアに背を向ける。

 薄暗い廊下に差し込む陽射しは、ずいぶん柔らかくなった。何も変わらないようで、季節は確実に移ろいゆく。

 電話が繋がらないからアポなし訪問を繰り返すこと、三回。

 相手が電話に出るのも、ドアを開けるのも、当たり前だと思っていた。保護課に配属されるまでは。


 「今度の飲み会だけど。このお店どう?」

 事務所に戻ると既に昼休み。隣の席から声がかかった。スマホ画面には広い座敷の写真と、豊富なドリンクメニュー。

 「いいんじゃない? ノンアルコール多いし」

 「最重要事項よね」

 僕は苦笑する。今までならあり得ない会話。けれどここでは、幹事はまずノンアルコールドリンクを確認する。

 課長の乾杯は常にジンジャーエール。未知のノンアルコールドリンクに出会うと「おっ」と瞳が輝く。課長は何も言わないけれど、ノンアルコールドリンクが豊富な店を探すのが不文律だ。

 最初は違和感があった。それを受け入れてはいけないような気がした。そんなのは当たり前じゃない、と。


 「矢野さん、電話」

 呼びかけられて我に返る。受話器を取ると女性の声がした。

 「すみませぇん、来たの気付かなくて」

 あっけらかんと喋る声は、井家さんだ。訪問のアポはあっさりとれた。電話越しに頭を下げる。

 「お電話ありがとうございました」

 井家さんは電話に出ない。訪問も居留守のような気がする。けれど、訪問を繰り返すと必ず電話を架けてくる。本当は、根っこが真面目な人なのだと思う。


 保護課は、生活保護法に基づく保護等を行う。生活保護制度とは、「資産や能力等すべてを活用してもなお生活に困窮する方に対し、困窮の程度に応じて必要な保護を行い、健康で文化的な最低限度の生活を保障し、その自立を助長する制度」だ。


 「常識は捨てて下さい」


 保護課配属初日、課長は笑顔で言った。新規採用職員は皆、僕も含めてポカンとした。


 「皆さんが当たり前だと思ってきたことは、本当は当たり前じゃないんです」


 保護課のケースワーカーとして働きながら、僕はその言葉を思い出した。

 何度も、何度も。

 


 室内はいつものように雑然としていた。床に散らばる洗濯物、雪崩れ落ちた求人誌。

 「体調はどうですか」

 問いかけた僕に、井家さんはヘラリと笑う。精神科の通院は辛うじて続き、病状は低空飛行だ。

 「実は、保険のセールスレディに声かけされたんですけど。一般課程試験に落ちて、入社できませんでした。勉強がねぇ……テキスト読んでも頭に入らなくて……続かなくて」

 僕は無言のまま頷く。井家さんの病状調査の結果は「就労不可」。だから就労指導の対象外だけれど、井家さんは波がくると就職活動に奮起する。そして、波に揉まれて落ちていく。

 最初は、治療に専念するよう説得しようとした。けれど井家さんは就職活動を繰り返した。僕はもう何も言わない。彼女の中で諦められない、折り合いがつかないところなのだろう。

 「煙草いいですか」

 僕が頷くのを確認し、井家さんは火を点ける。薄暗い室内を、か細い煙がゆらゆら揺蕩う。

 沈黙の後、乾いた呟きが聞こえた。

 「おばあちゃんが死んじゃってて。お葬式、終わってたんです。親に連絡したら、『どうせ、遠くて交通費もかかるから来なかったでしょ』って。来てほしくなかったんでしょうね。皆に今の私を見られたくなかったんだ」

 井家さんはゆっくりと、煙を吐き出す。行き場の無い想いが彷徨う。

 何も返せず、僕は視線を転じた。キッチンの片隅に転がるビール缶。

 服薬中だから酒は厳禁だと諌めた僕に、井家さんは哀しく笑った。分かっているのだ、そんな当たり前のこと。

 煙草も酒も、彼女にとって嗜好品ではない。消えてしまいたくなる心を宥め、生き延びるための自己治療だ。それが自分を滅ぼす可能性があるとしても。

 ヘラヘラ笑いながら、彼女は苦しみ続けている。



 初めて会った時、井家さんは憔悴していた。

 高校卒業後、実家を離れ遠県で稼働。上司のハラスメントに耐え続けた結果、体調を崩し退職。派遣社員として稼働し始めたが体調は不安定で、仕事は長続きしなかった。悪化する不眠に耐えかね受診した時には、鬱病と診断されるまでになっていた。

 頼る人も無く、生活保護を申請した時には所持金も僅かだった。それなのに、居住実態確認の訪問をしようとしたら連絡が途絶えた。応答の無いまま訪問を繰り返し、やっとドアは開いた。

 踏み場の無い床。散乱したゴミ。食器が積み重なったままのシンク。

 薄暗い部屋にうずくまった井家さんの、虚ろな瞳。


 「母から電話があったんです。『生活保護なんて恥だ』って……『甘えず働け』って」


 申請時、扶養義務がある親族に支援可能か調査することを説明すると、井家さんは黙り込んだ。親から暴力を受けているようなケースもある。連絡できない事情があれば教えてほしいと尋ねると、「どうせ無駄ですよ」と呟き連絡先を記入した。


 扶養照会の返事は「否」だった。


 「ずっと連絡とってなくて。病気のことも、初めて伝えました。でも、言い訳だって。『皆、耐えて働いてるのに』って怒られて。……『なんでお前はいつも、当たり前のことが出来ないのか』って」


 生育史の聴取時、井家さんは多くを語らなかった。それでも、言葉の端々に滲むものがあった。

 「親は離婚してて、父のことは知りません。母は『お前を妊娠したせいで狂った。あんな人と結婚する羽目になった』って言ってた。母はずっと苦労したんです、私のせいで」

 「高校卒業後は働くよう母から言われてたし、私も遠くへ行きたかった。家を出たかったんです」

 家に彼女の居場所は無くて、飛び出した外の世界でも足掛かりを見つけられなかった。追い詰められても、親には頼らなかった。彼女はずっと、一人で闘ってきたのだろう。


 生活保護の申請を取り下げたい。


 そう言った井家さんに、僕は言葉を探した。


 「人生にはいろんなことがあります。どんなに頑張っても、自分の手持ちだけではやっていけない時もある。誰にでも起こり得ることです。あなたが悪いんじゃない」


 井家さんは動かない。澱んだ空気に押し潰されないよう、言葉を押し出す。


 「みんな、支えるばかりではなくて、必ず社会の中で誰かに支えられながら生きています。支援を受けることは、恥なんかじゃありません」


 井家さんは黙っていた。だから僕は手続きを進めた。

 今も時々考える。生活保護を、彼女はどう感じているだろうか。



 井家さんは煙草の灰を落としながら呟く。

 「働くのって当たり前ですよね。みんな自立していくのに。なんで、当たり前のことが出来ないんでしょうね」

 

 「当たり前、ですか……」


 僕の呟きに答える声は無い。

 生活保護の基準を上回る収入を得られるようになり、生活保護から自立していく人もいる。一方で、就労不能と判断される人もいる。井家さんのように。

 けれど、それは終わりではない。自立とは経済的自立だけを意味しない。社会生活の充実、日常生活の改善。保護課のケースワーカーはそれぞれの「自立」を一緒に模索し、支援する。


 彼女がこの世界に居場所を得て、笑って生きていくためには?


 答はまだ見つからない。

 けれど、ずっと考えていることがある。


 「僕、下戸なんですよね。全然飲めなくて」


 唐突な僕の言葉に、井家さんは眉をひそめた。僕は迷いながら言葉を探す。

 

 「学生の頃、先輩から無理やり飲まされて……気付いたら、病院で。先輩に『迷惑かけてすみません』って謝ったら、『男のくせになぁ』って言われて。それがずっと、ひっかかってました。飲み会の度に肩身が狭くて。なんで飲めないんだろうって」


 井家さんは沈黙したままだ。たなびく煙草の煙が、僕と彼女を隔てる。言葉が宙に浮くような錯覚。

 それでも、言葉を重ねた。


 「うちの課長も、下戸で。課長が言ったんです、『男なら飲めるのが当たり前だって言う奴がいる。ちっとも当たり前じゃないのに』って。最初は、そんなの通じないって思った。……でも考えてみたら、男なら飲めるなんて言う方が、何の根拠も無い。飲めなくてもいいんだって、ホッとした。皆が言うことだから正しい訳じゃない。あぁ、『当たり前』なんか無かったんだって」


 眠れぬまま朝を迎え、なじられながら仕事をすることは。

 一番支えてほしい親から、支援するどころか責められることは。

 葛藤しながら生活保護を受け、自分を責めながら日々を生きることは。


 責められるべきなのだろうか?

 彼女が苦しんでいることは、彼女にとって「当たり前」なことだろうか?


 煙草の煙だけが揺らめく。目の前の彼女が遠い。僕は薄闇の中を、彼女に向かい彷徨う。

 

 「次の訪問は五月です。もし井家さんが事務所に来てくれたら、それを訪問に替えることができます。……井家さん、電話やチャイム、怖いんじゃないですか?」

 

 井家さんはヘラリと笑う。二本目の煙草に伸ばした手、その細い指が微かに震える。

 かつて世界は彼女を苦しめた。鳴り響く着信音が、静寂を破るチャイムが、かつてのように彼女を責める。独り彼女は閉じこもっていく。

 僕は祈るように呟く。


 「……五月になると、区役所の向かいの公園に藤が咲くんです。綺麗ですよ。散歩がてら、もし来れそうだったら」


 井家さんは、くすりと笑った。

 「区役所の傍に、公園なんてあったっけ。全然気付かなかった」

 「小さな公園ですけどね。僕、藤の季節はお花見しながら弁当食べてます」

 「お花見なんてしたこと無い。そんなこと、思いもしなかった」

 そうでしたか、と呟き僕は立ち上がる。花を愛でる余裕も無かった、彼女の日々を想う。

 「今日、ありがとうございました。何かあれば連絡下さい」

 扉を開けると、外は別世界のように眩い。薄闇の中でぼんやりと踞る彼女。隔絶されるような気持ちで、重い扉を閉める。

 次も、この扉を開けてもらえるだろうか。



 事務所に戻り、パソコンに向かう。忙しなく電話の着信音が鳴る喧騒の中、二人の沈黙を呼び覚ます。訪問の記録を打ち出し、井家さんの台帳に閉じた。手に取ると、ずっしりと重い。

 保護課の台帳は分厚い。僕らは一人一人の秘密を抱え、答の無い問いに向き合っている。

 「当たり前」で済ませられることなんか、何一つ無い。目の前に在るのは、一人一人の人生だ。


 窓に目をやれば、枯れ木のような藤の枝。それでも、ゆっくりと新芽は膨らみ、その時を待っているはずだ。僕は五月を想う。


 井家さんは、事務所にやって来るだろうか。

 重い扉を開き、外へと続く一歩を踏みしめて。

 暖かな風、穏やかな木漏れ日。

 彼女の心にも、春は訪れるだろうか。

 柔らかにけぶる紫、薫風に笑いさざめく一面の藤。

 この世界の美しさが、彼女の心に届くだろうか。

 いつか、心から微笑んでくれるだろうか。

 此処で生きていくのだと。他人に押し付けられた「当たり前」なんかじゃなくて、彼女自身の人生を選び取って。

 

 

 

 

 





 

 

 

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