健康課

 早朝の保健所のロビー。私は一人、待合室の椅子に腰かけていた。少し肌寒くなってきた朝の空気を吸い込む。今日は1歳6か月児健診だ。午後になれば、この静けさが嘘のような喧騒に満ちるのだろう。

 「おはようございます」

 溌溂とした声。振り向かなくても分かる、永田課長だろう。立ち上がって挨拶をした私に、いつもの明るい笑顔が向けられた。医療職として入庁する前は、小児科医だったのだと聞いた。気安くて、きっとこどもにも人気だったろうなと思う。ピンと伸びた背中に、眩い朝日が射す。私もその背中に続いた。もうすぐ始業時間だ。

 一度だけ、ロビーを振り返った。空っぽの椅子に、真っ白な光が零れている。

 今日は、どんな親子がこの椅子に座るのだろうか。


 私は、助産師として健康課で働いている。健康課は、健康や医療等に関する各種の申請や相談の窓口だ。私の担当は母子保健事業。その中でも乳幼児健診は大きなウェイトを占める。自治体によって実施時期は違うが、魚美味市では4か月児健診、1歳6か月児健診、3歳児健診を実施している。発達・発育をチェックし、必要な場合には医療機関や療育機関等のフォローにも繋げる。

 健診の日は、朝から準備に追われる。受診予定者の大量のカルテ、スタッフとの打合せ。特に、医師会に依頼して来てもらっている医師への対応には気を遣う。開始準備だけで終わった気持ちになってしまうけれど、ここからが本番だ。ロビーに溢れかえる親子に、笑顔を向ける。

 「こんにちは」

 挨拶の声もかき消されるほどの、こどもの叫び声。初めての場所や慣れぬ人混みに泣いてしまう子も多い。長い健診の待ち時間の間、笑顔であやすお母さん達には頭が下がる。

 ふと、視線がある親子に止まった。

 受付を待つロビーの片隅で。こどもは硬直したように母親にしがみつき、じっと周囲を見つめていた。若い母親の表情は硬い。無言のまま、ぎゅっと膝上のこどもを抱き締めている。そこだけ、笑いさざめく周囲から浮き上がっているようだった。

 「3番の方」と呼びかけられ、親子は立ち上がった。受付で説明を聞き、最初の会場である歯科検診に向かう。それを機に、私も持ち場である診察会場へと向かった。

 心だけ、ロビーを彷徨う。周囲から切り離されたような親子。どんな想いで、座っていたのだろう。


 「楠さん、今日の心理面接、空きありますか」

 尋ねてきたのは、問診を担当する雇い上げのスタッフだった。きゅっと眉根を寄せ、思案顔だ。

 「えぇと、3枠埋まってる……いや、違う。今朝、こどもが熱を出したってキャンセルした人がいた。ちょうど、今の時間なら空いてます」

 心理面接というのは、保健所で実施している「ことばの相談」のことだ。実施日に心理士が発達面の相談に応じる。事前に予約が入ることもあるし、健診で当日気になった親子を繋ぐこともある。

 「良かった。気になる子がいるので、お願いします。お母さんには了解とりましたから」

 きびきびと言って彼女が連れてきたのは、例のロビーの親子だった。母親は、やはり硬い表情で子どもを抱き抱えている。子どもは母親のブラウスを握りしめて、探るように私達を見た。

 「お母さん、今日ことばの相談受けられますよ。よかったですね。ご案内します」

 「……やっぱり、今日は止めておきます。遅くなると困りますし」

 か細い声で母親はそう言った。こどもを抱く手に力が入る。対する彼女はますます眉根を寄せ、力強い声を出す。

 「せっかく来られたんですから、今日相談した方がいいですよ。その方が安心でしょう。今後のアドバイスも受けられますし」

 やや強引な口調が気になったが、有無を言わさず親子の前に立って歩きだした。

 「大丈夫ですか?」

 声を掛けると母親は立ち止まった。私と視線が交錯する。けれど、瞳の奥の感情を読み取れぬまま、私に背を向けて歩き出した。伝えることを諦めたように。遠ざかる背中を見つめる。怯えたような子どもの眼差しが、甦った。


 健診終了後のカンファレンスで、再びその親子の話を聞いた。

 「検査の結果、言語面や対人面で遅れが見られました。お母さんは人見知りがひどいんだって言ってましたけど、検査場面でもお子さんはほとんど発声が無くて……。家でも、単語はあまり出ていないようです。療育センターを受診してみるようお勧めしたのですが、父親と話し合って決めたいということでした。保健所から紹介状が出せるので、受診をどうするか教えてほしいと伝えています。少し時間をおいて電話して、話し合っていきたいと思います」

 親子の面接を担当した心理士の発言に、問診を担当したスタッフは顔をしかめた。

 「まだ指差しも出ていないし、模倣もしないって言ってましたからね。早く受診した方がいいのに。今から予約しても、受診まで3ヶ月待ちでしょう?」

 「それはそうですが……」

 思わず、口を挟んだ。物言いたげに見つめられ、怯む自分を叱咤する。

 「このお母さんにとっては、必要な時間かもしれません。……じっくりいきましょう。この親子の人生がかかっている。だからこそ、じっくりと」


 母親の硬い表情を思い出す。彼女は、どんな顔で健診会場を後にしたのだろう。

 健診を受けて初めて、病気や障がいが分かることもある。知人の保育士は、健診で指摘されるまで、我が子の聴覚障害に気付かなかったと語っていた。「普段は分からないものね。健診を受けて良かった」と笑っていた。お子さんは、補聴器をつけることで支障なく過ごせているという。

 早期発見、早期支援。それは私達が目指すところだ。

 けれど、同時に思う。

 こどもの発育・発達に不安を抱える親にとって、健診の場に来ること自体がどんなに大変なことだろうか。不安が現実となった時、どんな想いを抱くのだろう。彼ら彼女らにとって、健診は、どんな場に映っているのだろう。

 

 「お母さん、早く療育センターを受診した方がいいですよ」

 かつて、そう話をした親子がいた。初めて健診を担当した頃のことだ。

 「きちんと専門家に見てもらいましょう。早期に支援を受けることで、伸びが見られるかもしれません。様子を見ている間に、手遅れになってはいけませんから。お子さんのためにも」

 私なりに、目の前の親子のことを考えたつもりだった。一生懸命考えて、言葉を選んだつもりだった。

 母親は硬い表情だった。半ば説得するように、その場で療育センターの予約を入れた。けれど、予約日に親子は現れなかった。保健所から連絡しても、虚しくコール音が鳴るばかりだった。


 「どうすればよかったんでしょう」

 呟いた私に、永田課長は静かに言った。

 「どうすればよかったと思うの?」

 「……私、押し付けてしまいました。私自身が、不安だったんだと思います。早く支援に繋がなきゃって焦って……」

 思わず、涙が零れた。自分が情けなかった。本当に泣きたいのは、あのお母さんだ。私の言葉に、傷ついたのではないか。この先、こどもについて誰にも相談してくれないかもしれない。

 「私のせいで……」

 取り返しのつかなさが胸に迫った。言葉が出ない私に、永田課長はゆっくり語り掛けた。

 「楠さんが今感じてることって、すごく大切なことだと思う。小児科で働いていた頃、うまく相談機関に繋げられなかったことがあった。今思えば、目の前の相手を置き去りにしてた。例えば『療育センター』と言えば伝わると思っていても、当の親御さんにすれば、初めて聞く言葉なのよね。何をするところなのかもよく分からない。不安で、相談に行くこと自体がすごく大変。もっと親御さんの気持ちを聞いてあげられたらよかったのにって。……あの頃、発達障害についての支援者向けの講演会でね、『待合室の椅子に座ってみたらいいですよ』って聞いたことがあったの。実際に座ってみたら、診察室からは見えない風景が見えた。どんな気持ちで座っていたんだろうなって、考えることができた。そういうのが、大事なことなんだろうなって。結局ね、相談に行くかどうかも含めてご本人が決めるしかないんだよね。でも、その不安を一人で抱えるんじゃなくて、誰かが一緒に考えてくれた、寄り添ってくれたって経験ができたら、その時は繋がらなくても、必要な時にまた相談してくれるかもしれない。大事なことだから取り返しがつかないって、私たちはどうしても焦るんだけど、でもだからこそじっくりいかないとなぁって思うの。本当に大事なことを置き去りにしないように。ゆっくりなこどもっていうのは、じっくりやってるこどもなんだよね。急がせず、焦らせず。関わる大人も、じっくりいかなきゃ。私たちも、じっくりでいいんだよ」

 ぽんぽんと肩を叩かれて、私は俯いたまま頷いた。この想いを忘れずにいようと思った。それが、今の私があの親子のためにできることだと。


 カンファレンス終了後。通りがかった保健所隣の公園で、ぽつんとベンチに佇む親子を見つけた。硬い表情に既視感を覚える。今日の、あの親子だった。こどもは熱心に落ち葉をいじっている。母親はぼんやり座り込んでいた。

 ふわりと風が吹き、こどもの手から落ち葉が飛んだ。私の足元にかさりと落ちる。

 親子にそっと近づく。母親が我に返ったように私を見る。瞳に警戒の色が浮かんだ。

 「どうぞ」 

 しゃがんで落ち葉を差し出すと、こどもは私をじっと見た。

 永遠のような沈黙。

 やがてゆっくりと手を伸ばし、落ち葉を受け取ってくれた。再び、熱心に見つめ始める。季節を映して赤く染まった葉は、小さな手の中で一際美しく見えた。

 「お子さん、じっくり観察してますね。小さな学者さんみたい」

 「……この子は、いつもこうです。公園に連れ出しても、遊具では遊ばないし、お友達にも交じらないけれど。遊んでいるお友達を嬉しそうに見ています。小石や葉っぱをいじるのも好きで。これがこの子なりの、遊び方なんでしょう」

 母親の瞳が一瞬和らいだように見えた。こんな風に、二人で寄り添ってきたのだろうと思った。

 「……健診のスタッフの方、ですよね」

 覚えていたんだ。少し躊躇って、私は頷いた。母親の瞳が再び硬くなる。

 「……受けなければよかった、と思って」

 呟きは哀しみを帯びていた。何も言えず、私は次の言葉を待った。

 「周りと何か違うって、ずっと思ってました。でも、どうにかなるって思ってきたんです。それが、崩されてしまったというか。みんなとは違うんだって、突き付けられたというか」

 周囲のざわめきが、遥かに遠い。まるで此処だけ世界から切り離されているようだ。

 「療育センターのこと、どう言えばいいんだろうと思って。帰ったら、きっとお義母さんから聞かれるんです。『健診大丈夫だったの?』って。言葉が遅いの、ずっと心配されてるから。どう言えばいいんだろうって」

 「……ご主人は?」

 躊躇いながらそっと呟いた私に、母親は淡々と続ける。

 「主人は気にするなって言います。でも、主人は分かってないんです。私の心配を聞き流してるだけ。見たくないから見ない振りをしてるんです。今日のことを伝えても、きちんと取り合ってくれないでしょう」

 母親は、初めて私をまっすぐ見た。声が震えていた。

 「障がいがあるってことなんでしょう? 療育センターに行けばそう言われて、この子は障がい児になるんでしょう?」

 傍らのこどもが、落ち葉から視線を上げて母親を見た。母親は俯いて、華奢な肩を震わせていた。

 「どうして? ……私のせいなの? ……」

 私は母親の前にしゃがみこんだ。言葉が見つからない。目の前の母親が抱えているもののを想った。これまでの親子の日々を。

 「私は、これまでのあなた方のことを知らない人間です」

 言葉は見つからない。けれど、それでも言葉を探した。私の中で完結した言葉ではなくて、この人と私との間で紡がれる言葉を。

 「でも、伝わります。これまで、一生懸命お子さんを育ててこられたんだって」

 母親は俯いたままだ。

 いつかの親子が過る。

 言葉は怖い。この人を傷つけてしまうのが怖い。この親子にとって大事なことだから、取り返しのつかないことだから。


 永田課長が浮かんだ。優しくて力強い笑顔。

 じっくり、じっくり。

 自分に言い聞かせる。本当に大事なのは。


 「療育センターって、どんなイメージがありますか?」

 母親は少しだけ顔を上げた。戸惑いが浮かぶ。

 「障がいのある子が行くところなんでしょう? ……そこに行けば、治るんですか?」

 「うまく説明できるか、分からないんですが。障がいの判別をする、とか、治療をする、とかいうのとは少し違う。こどもの発達について、今どんな状態なのか、この子にとって何が望ましいか、を一緒に考えてくれるところだと思います。その子が発達の次の階段を昇るための、一工夫。それを教えてくれるのが、療育センターです」

 母親はうまく呑み込めない表情だ。私は言葉を探す。

 「例えば、何だか分からない花の種をもらって育てるとするじゃないですか。大抵は、お水をあげたら芽が出て、葉が増えて茎が伸びて、花が咲いてって成長していく。でもホラ、実は朝顔だったとして、朝顔の育て方を知らなかったら、蔓が伸びてきた時にどうしたらいいか分からなくなりませんか? なんで周りと違うのかなぁとか、一生懸命育ててるのにうまくいかないなぁって、不安になっちゃう。そんな時に、朝顔のことを知っている人がいて、蔓が巻き付けるように支えを立ててあげればいいんだよって教えてくれたら、ホッとするんじゃないかな。私は療育センターって、そういう場所だと思うんです。いろんな花があるんだってことを知っていて、それぞれの花に今どんなことが必要なのかを一緒に考えてくれる場所。お花のことも、お花を育ててるお母さんのことも、支えてくれる場所だと思うんです」

 「……具体的には何をするところなんですか」

 「初回は発達検査を受けたり、医師の診察を受けたりして、お子さんの発達の状態をみます。お子さんが今どんな状態で、どんなことが望ましいか、方針の提案があります。時間をおいて、お子さんがどんな風に発達の階段を昇っていくか様子を見ましょうということもあるし、療育を受けましょうということもあるかもしれない。療育というのは、お子さんが発達の階段を昇るための一工夫の場です。専門のスタッフと個別に行うこともあるし、お子さん達のグループの中で行われることもあります。お子さんを育てる上で悩んでいることがあれば、お母さんのお話を聞いて一緒に対応を考えてくれます」

 母親は思案顔だった。無理もないと思った。どんなに説明しても、不安は拭えないだろう。

 「今のお母さんの悩みとか不安とか、そういう気持ちをお聞きしながら、どうするのがいいか考えていくこともできますよ。今日お会いした心理士がいると思いますが、その心理士ともう一度面接してみるのはいかがでしょうか。決めるのは親御さんですが、でも……」

 言葉を探す。母親は黙っている。

「三歳くらいまでは、発達の個人差がとても大きいんです。それぞれのペースでいいし、じっくり待ってあげたらいい。でも……待つのがしんどくなる時も、あるかもしれないから。一人で悩んでほしくないなぁと、思うんです」

 公園を風が吹き抜けた。そよそよと、風は私たちを優しく撫でていった。こどもは風の行方を追うように、揺れる木の葉を見つめている。母親は、小さく溜息をついた。

 「そろそろ、帰らないと」

 気づけば辺りは少しずつ夕闇に包まれていた。母親はこどもを抱きかかえ、ベビーカーに乗せた。帰宅後この人を待つものを思って、私はぎゅっと手のひらを握った。言葉は、探しても見つからない。

 母親は黙ったまま、私に頭を下げた。私も頭を下げる。こどもは、まだ不思議そうに揺れる木々を眺めていた。その瞳には、輝きがあった。じっくりと世界と向き合う姿があった。

 これから、どんな風に育っていくのだろう。育てていくのだろう。

 夕闇の中で遠ざかる背中を、ただ見つめた。


 数日後、ことばの相談の心理士から声をかけられた。

 「あのお母さんと、電話でお話できました。もう一度、面接を受けたいと仰っていました。今どんなお気持ちなのか、じっくりお話お聴きしようと思います」

 私は頷いた。胸の中であの母親に、ありがとうを呟いた。

 その親子にとって何が正解かなんて、分からない。他人が決めることはできない。それでも、そこに寄り添えたらと、願う。


 健診の朝。私は待合室の椅子に座る。

 今まで出会った親子が過る。これから出会う親子を想う。

 時々、朝の光の中で永田課長に出会う。課長は何も聞かずいつもみたいに微笑む。

 健康課に待ったなしの案件が飛び込む度、私たちは呟く。

 じっくり、じっくり。

 課長の口癖に込められた想いは、健康課の公然の秘密。

 健診の朝、待合室の椅子。それは私と課長だけの、秘密だ。

 

 

 

 


 

 


 


 

 

 

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