福祉・介護保険課
秒針が動く。
午後17時15分。
窓口は、終わりを迎える。
閉庁を告げるチャイムが響き、本日最後の来庁者が去っていく。職場には一瞬和やかな空気が流れた。もっとも仕事の際限は無くて、これからデスクワークに向かう訳だけど。
射し込む西日が、課の壁に飾られた猿面を照らす。
「今日も一日、終わったわねぇ」
課長が猿面に目礼する。いつもの光景には、不思議な安堵感がある。
ここ鰆区役所の近所には、猿を祀った有名な神社がある。「魔が去る」という魔除の猿面。鰆区内では玄関に猿面を飾った家をちらほら見かける。しかし、区役所内で見かけた時には驚いた。犯人は課長。なんでも、厄介事がたて込んだ年に飾ってみたらしい。以降、課長は年に一度、わざわざ行列に並んで猿面を購入し、課に飾っている。
見開いた目、裂けたような大きな口。最初見た時は、独特の迫力があった猿面。しかし、今では笑っているように見えるから不思議なものだ。
僕は猿面に見守られながら、窓口の片付けをする。
今日も、来なかったな。
療育手帳の束を片付けながら、いつもと同じ感慨にふける。
福祉・介護保険課は、高齢者や障がい者の福祉サービス、介護保険等の窓口だ。
僕は、療育手帳の仕事を担当している。
療育手帳とは、知的障がいを証明する障がい者手帳。取得することで、支援や相談等のサービスを受けることができる。区役所で申請し、判定機関で知能検査等を受けた後、該当すれば区役所で手帳が交付される。
この仕事に携わって、初めて知った障がいや病気があった。それらを抱えて生きる人を支える、たくさんの人達がいることも。手帳を通して、その人々を繋げたい。そんな想いを抱いてきた。
けれど、どこかで自分とは遠い出来事のように感じていたのだと思う。あの日までは。
「啓太、お帰りなさい」
妻の沙紀がいつものように顔を出す。娘の
「今日、沙羽が園でもバナナを見て『バ、バ』って言ってたんだって。やっぱり、バナナって分かって言ってるみたい」
沙紀が嬉しそうに言う。心なし、沙羽も自慢気だ。
「こうやって言葉が増えていくんだね。すごいね」
顔を見合わせて微笑む。そんな今を、幸せに思う。
あの日が過る。沙紀の、強張った顔。握った手の冷たさ。
「ただいま」
その日は、玄関を開けた時から違和感があった。もう夕暮れなのに、灯りも無い室内。胸騒ぎが募る。
仕事中、沙紀から着信があった。珍しいと思いながら折り返したが、コール音が響くばかり。嫌な予感がして、早退したのだ。
リビングの扉を開ける。静まり返った暗い部屋。
ベビー布団に、沙羽が寝ていた。その傍らに沙紀が座り込んでいる。張りつめた背中。
「どうしたの」
そっと近づき隣に座る。沙紀が初めて僕に気付いたように顔を上げた。強張った顔に、涙の跡が見えた。
「今日、4か月児健診で……」
ひやりとした。沙羽に何かあったのだろうか。途切れた沙紀の言葉を待つ。
「首が、まだ座ってないって……頭囲が平均より大きいせいかもしれないって。水頭症の可能性もあるから、一ヶ月後に経過を見るって、言われて」
「水頭症?」
初めて聞く単語だった。娘を見る。穏やかな寝顔、規則正しい寝息。平穏な日常は、聞き慣れぬ単語一つであっけなく崩れていく。まるで見知らぬ場所に流されていくような。
「……そんな筈無いよ。まだ4か月なんだし、すぐ追い付くよ」
自身の不安を打ち消すために呟いた言葉に、沙紀は表情を変えた。
「なんで言えるのよ、そんな無責任なこと」
険しい瞳に、涙が浮かぶ。
「首が座ってないの、分かってた。遅いなって思ってた。でも、どうしようもなくて……。水頭症、調べたら、手術が必要だって。合併症や、障がいが出ることもあるって。沙羽がそうなったら、どうしようって……」
沙紀の声は震えていた。僕はやっと、彼女が抱えていた不安に思い至った。
沙紀は両親と死別している。出産前に転居した新居。知り合いもいない中で、沙紀は初めての育児と一人で向き合っていた。最初は心配で定時に帰宅していた僕も、「大丈夫」と言う彼女に甘えて、残業することも増えていた。誰にも相談できない中で、悩みを抱えていたのだ。
他者に頼ることを良しとしない、沙紀の強さと弱さを知っていたのに。
「沙紀、ごめん。……一人にしてた。ごめん」
俯いた沙紀の手に、手を重ねる。その冷たさに、思わず両手で包み込む。
「僕もいるよ、沙紀。一緒にいる」
黙ったままの沙紀に代わって、フギャ、と声が上がる。不穏な気配を感じたのか、沙羽が瞳を開けた。泣き出すかと思いきや、僕らを見上げてにっこりと笑う。
無心に笑う沙羽。僕の心に、明かりが灯る。
「大丈夫だよ。何があっても、沙羽は僕らの大事なこどもだ。それは変わらないよ」
俯いたままの沙紀から、嗚咽が漏れる。僕は握る手に力を込めた。沙羽が沙紀に向かって、手を伸ばす。沙紀は泣きながら、けれどしっかりと、小さな手を握りしめた。
悩んだ末、僕は母に電話した。困惑、拒絶、叱責。どんな反応が返ってくるか、恐ろしく感じられた。
しかし、健診結果を伝えると「あぁ、あんたもそうだったわよ。父方の遺伝で、頭が大きいの。首座りも遅くて」と、のんびりした返答だった。沙紀に伝えると拍子抜けした様子だったが、それでも、時折表情を強張らせて沙羽を見ていることがあった。
結局、沙羽は無事に首も座り、その後の発達も順調だった。一歳を過ぎて沙紀が職場復帰し、沙羽が保育園に入ってからは、ママ友や担任と他愛ない子育ての話をしている。
けれど。
沙紀と笑い合いながら、ふと、あの日が過ることがある。
もしも、あの日が分かれ道だったら。
母に電話するのを躊躇った僕。もしも、沙羽の心配が消えなかったら。もしも、誰とも共有できないまま悩んでいたら。
僕らは、どうなっていただろう?
そんな頃、僕は一冊の療育手帳と出会った。
機械的に処理しようとした手が止まる。
氏名。金森さわ。
娘と同じ名前の少女は、15歳。添付された屈託の無い笑顔に、沙羽の微笑みが重なった。
判定を終え、出来上がった手帳は受け取りを待つばかりだった。けれど、1ヶ月が過ぎ、3ヶ月が過ぎ、半年が過ぎても手帳の待ち人は現れなかった。
手帳には更新期限があり、結局受け取られないまま期限切れとなってしまう手帳もある。今まではそう気にも留めなかったことが、胸の中で引っ掛かる。
15歳での初めての申請だった。何があったのだろう。判定まで受けているのに、何故受け取りに来ないのだろう。
一日の終わりに、彼女の手帳が残っているのを確認するのが日課になった。猿面だけが、そんな僕を見ていた。
課長に聞いたことがある。
「猿面って、本当にご利益あるんでしょうか」
朝夕、課長は猿面に目礼する。毎年、長蛇の列に並んで購入する。それでも、起こる時には事件は起こる。単純に、疑問だったのだ。
「う~ん、どうかしらねぇ」
意外にも、課長は笑って首を傾げた。
「気休めってことですか」
「そうでもないんだけど」
課長は目を細めて猿面を見つめた。
「何も起きませんように、って祈るわけじゃないの。そんなのあり得ないでしょ?毎日、なんだかんだある。それでも、皆で乗り越えられますように、って祈るの。お猿さんが見守ってくれてると思ったら、やれる気がするのよ。何とかできますようにって祈って、何とかなりましたってお礼を言う。そうやって過ごす内に、一年経つのよね」
「お守で、見守りなんですね」
「そうかも」
ふふ、と課長は笑う。見上げた猿面は、呵々と笑う。
誰かが、見ていてくれる。
それが力になることも、あるのだろう。
窓口の終了間際。その人は現れた。
「確認をお願いします」
開いた療育手帳の中で、彼女は屈託の無い笑顔を向ける。心なし、安堵したように見えた。
彼女の面影を宿した女性は、無表情に頷く。固い口元が、一瞬、あの日の沙紀に重なった。
「あれ」
思わず声が出て、焦る。時既に遅し。女性は不審そうに僕を見た。
「すみません。あの……今日、お誕生日だったんだなって」
手帳に記載された生年月日を指す。女性の瞳が心なし、和らいだ。
「そう。今日で16歳」
「可愛い娘さんですね」
女性は口をつぐむ。長い黒髪が、俯いた表情を隠す。余計なことを言ったかと焦った僕は、また口を滑らせてしまう。
「すみません。……僕の娘も同じ名前なもので」
そそくさと打ち切ろうとした僕に、女性、金森さんが声をかける。
「娘さん、おいくつ?」
「一歳です」
「あら。まだまだ大変ね」
「そうですね、毎日振り回されてます」
金森さんは小さく笑う。
「あの頃は、こんなに大きくなるなんて、思い描けなかった。こんな日がくるなんて」
僕は手をとめて金森さんを見つめる。独り言のような呟き。
「いろいろあったけど、どうにか高校に入って。前から勧められてはいたんだけど、手帳を申請することにしたの。18歳以降は判定機関も変わって、申請して認められるまでが大変になるって聞いたし。でも、取りに来る気になれなかった。……今日、区切りをつけようと思って」
僕は頷く。毎日、受け取りを待ち続けていた手帳。でもこの人も、毎日、手帳を想っていたのかもしれない。
「娘は、たぶん、該当するかしないか微妙なの。明らかに遅れがあるって感じじゃない。でも、周りと全く同じようにやれるわけでもない。いつ、ついていけなくなるだろうなって思いながら、ここまできたの。なんだか、手帳をもらったら、本当になってしまう気がした。本当に周りから外れてしまうような。なんとか高校に入学して、今のところは学校にも通えている。このまま卒業して、いずれ就職して……手帳が無くても、普通にやっていけるんじゃないかって」
黙りこんだ僕に、彼女は笑う。
「こんなこと、職員さんに言ったらいけないわね。せっかく、作って下さったのに」
「いえ……」
僕は言葉を探す。
あの日が過る。
強張った沙紀の顔。得体の知れぬ不安と、揺らいだ日常。誰かに伝えるのを、躊躇った自分。
周りから外れてしまう。そう感じることを、責められないと思った。
けれど、同時に、伝えたいと思った。
「手帳を持っているけど使わない、という選択もあると思います。……お守りがわりに、持っていて下さい。もし困った時は、思い出して下さい。手帳を使うことで得られる出会いや、広がる可能性もあります」
疎外じゃない、ということだ。
一人じゃない、ということだ。
「お守、ね……」
女性はポツンと言う。
「もし、高校を卒業する頃、やっぱり必要だって思ったら。あの子とも話し合って、手帳を使うかもしれない。就労支援を受けたり、障がい者雇用枠のある就職先を探したり、ね。今まで、何度も考えたの。本当に大事にしたいのは何だろうって。それは、娘の笑顔だと思うの。あの子がどこに行き着いたとしても、それが周りとは違う場所であったとしても、心から笑える場所であるなら、それでいいって。もし、手帳を使うことでそこに辿り着けるなら、そうしたいと思う」
僕は頷き、療育手帳を差し出す。金森さんは両手を添えて手帳を受け取った。静かに立ち上がり、窓口から去っていく。
閉庁のチャイムが響く。
猿面が、笑って僕たちを見守っている。
「一日、無事に終わったわねぇ」
今日も課長は猿面に目礼する。
厄介事が持ち上がると、考えこむ課長の視線が、ついと逸れる。猿面に目配せし、課長は朗らかに笑う。
「どうにかするしかないわねぇ」
先の見えぬ日々の中で、もうダメだと思うこともある。それでも見守ってくれる人がいるから、新たな一歩が踏み出せる。
きっと、誰もが。
毎年、決まった時期に課長のスケジュールには「猿面」と謎の予定が記入され、時間休が申請される。土壇場で入る会議や外勤からスケジュールを死守すべく、課の全員が密かに協力している。
もしかしたら、みんな、猿面に見守られた物語を抱えているのかもしれない。
お守の猿面は、福祉・介護保険課の公然の秘密なのだ。
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