保険年金課

 「戻りました……」

 会議から戻った課長は、力なく呟いた。席に座り、後ろを向く。こんな時は密かに愛猫の写真を眺めていることを、課の全員が知っている。辛い案件があったのだろう。丸くなった背中。

 「課長、よろしいですか」

 戻りを待っていた係長が容赦なく声をかけた。課長の肩が跳ね、慌てて写真を隠して係長に向き直る。

 課長は通称「ミッキー」。ディズニーファンという訳でもないのに、何故なのか。その理由は最近知った。


 ピンポン。来客を告げるチャイムが鳴った。手を止めて窓口を見ると、年配の男性の姿が見えた。胸がぎゅっとなる。

 「……ダメだ」

 自分に呟いて、窓口に向かう。顔が強張るのが分かり、息を吐いた。

 「お待たせいたしました」

 声をかけると、その人は顔を上げた。白髪混じりの頭。着古した作業服。

 「よぅ」

 日焼けした顔をくしゃっとさせて、旧知の仲のように笑った。

 「保険料、払えねぇんだ」


 日本では、全ての人が何らかの医療保険に加入することになっている。会社員が入るのは社会保険、公務員は共済保険、その他の自営業や、非正規労働者、無職の方等が入るのが国民健康保険。保険年金課は、この国民健康保険の窓口だ。

 国民健康保険の保険料は高い、と言われる。半額が会社等で賄われる他の保険と違い、全額が被保険者の負担となるからだ。一方で、被保険者の多くは無職等の低所得者。破綻寸前と言われる国民健康保険を維持するため、税金も投入されるが、支払わない方へのペナルティもある。一定期間支払が無ければ短期の保険証に切り替わり、支払を確認して月毎の保険証を発行することになる。もし支払われないままなら短期保険証は返還となり、受診は10割自己負担。最終的には財産差押えもあり得る。 

 保険料の取り立てと、支払が困難な方への納付相談。保険年金課は、二つの顔を持つ。私は、その狭間にいる。

 

 「ご事情をお伺いしたいのですが」

男性は世間話でもするように、気さくな声を出す。

 「給料が足りんでなぁ。保険料払えんでおったら、保険証無くなってしまった」

 「お客様の状況を確認させて頂きます」

 男性は藤山と名乗った。端末を叩く。配偶者との二人世帯。支払は滞りがちで、最後に支払われたのは半年前だった。しかし、所得を確認すると思ったより収入がある。これでは軽減措置も案内できない。

 目の前の、飄々とした笑み。

 ……本当に支払えないのだろうか?

 心臓が、どくんと鳴った。否応なしに先週の記憶が甦る。


 「払えないって、言ってるだろう!」

 思い切り机を叩かれて、私は肩を震わせた。

 最初から苛立ちを隠さなかった初老の男性は、私の説明の途中で、立ち上がって怒鳴り始めた。

 「馬鹿にしやがって!馬鹿にしやがって!」

 睨み付けられ、声が出ない。何か言わなければ、と思うのに、頭は真っ白だった。どくんどくんと、自分の鼓動だけが響く。


 「お客様、いかがなさいましたか」


 気付くと、隣に課長がいた。

 課長は柔和な微笑みを浮かべていたが、瞳はまっすぐ目の前の男性を見つめていた。私は目を見張る。いつもの弱気な姿は無かった。

 「どうぞ、お掛けください」

 目の前の男性が課長を睨み付ける。課長は引かない。ゆったりと微笑んでいる。

 男性は険しい表情のまま、それでも椅子に腰かけた。私は無意識に止めていた息を吐く。

 「ご事情をお伺いします。一緒に、考えさせて下さい」

 課長の真摯な声が響いた。


 目の前の男性をもう一度見る。がっしりした体格。病院とは無縁に思えた。日頃通院しないからと、保険料を払わない人もいる。10割自己負担になっても、滅多に受診しないから毎月保険料を払うより安く済むというのだ。この人も、そうなのだろうか。

 今まで支払われなかった保険料。今日、窓口に来所したのは何かあったのだろうか。

「現在、どこか通院されているのでしょうか?」

 意識して柔らかな声を出す。藤山さんは少し眉を上げたが、また笑顔に戻る。

 「いや、俺はどこも」

 ならば、なぜ?

 私は言葉を探す。

 「……お仕事は、何をされているのですか?」

 「作業員だ。建設現場を転々としてる」

 「ずっと今のお仕事ですか?」

 「そうだな、17の時に家を出て、それからずっとだな」

 さらりと言われ、言葉に詰まる。

 17歳。その頃の私は、自分が働く姿を思い描けなかった。あたたかな庇護の下で、未来を掴みあぐねていた。

 高卒なら18歳のはずだ。中退したのだろうか。それとも、高校自体進学しなかったのだろうか。

 家を出たって、何があったのだろう。親はどうしたのだろう。

 たくさんの疑問は、でも、口に出せなかった。

 目の前の、節くれた指。分厚い手のひら。他人に頼らず、自分で人生を切り開いてきた手なのだと思った。

 「毎日暑いから、大変ですね」

 「雨だと休みで給料無しだからな。晴れなきゃ困る」

 世間話のように誤魔化した私を、藤山さんは日焼けした顔を歪めて笑う。今日も痛い程の陽射しが照りつける晴天だ。つまり、仕事を休んで来たのだろうか。1日分の給料を投げ打って。

 それなのに……。


 払わないのか、払えないのか。

 事情を聞かなくてはならない。判断して、然るべき対応をとらなくてはならない。

 そう言い聞かせても、すくんでしまう自分がいる。


 この方の瞳に映る自分を思う。肉体労働とは無縁の、生っ白い腕。遥かに年下の、頼りない女。

 目の前の相手の人生の重みに、自分が釣り合うだろうか?


 課長の声が過る。


 「みんな、仮面を被っています」


 私は唇を噛む。目の前の相手に向き直る。


 「保険料が払えないというのは、お仕事の関係なのでしょうか。天候とか……何かの事情で、働ける日数が減ってしまうとか」

 所得はそこそこあるが、月毎の給料が安定しないのかもしれない。そう思って質問したのだが、藤山さんの笑顔が僅かに陰った。

 他愛ない言葉を継ごうとする自分を、何かが押し止めた。

 「保険料、支払って下さった月もありますよね。大変な中で、途切れないよう努力して下さったのだと思います。支払えないご事情を、もう少し教えて頂けませんか」

 手のひらを握り締める。黙ったまま、藤山さんを見詰める。


 この方が背負う葛藤。語られない事情を、理解しなければならない。

 

 永遠のような沈黙の後、藤山さんは口を開いた。

 「死んだ親父の借金があって」

 「病院なんて滅多に行かねぇし、保険料は後回しだったんだが」

 「女房が、突然倒れて。これから毎月通院しろって言うんだ。薬を飲まないと命に関わるって」

 藤山さんの声は淡々としていた。それでも、笑みを浮かべていた。貼り付いたように。

 今まで、笑うことで自分を守り、他人と対峙してきたのだろうと思った。これがこの方の、仮面なのだと。

 揺さぶられる感情を仮面の下に隠して、私はできるだけ落ち着いた声を出す。

 「とりあえず、今日払える額をお支払頂いて、短期医療証を発行しましょう。藤山様の場合、分割したとして通常は一万円からになりますが……いくらなら、払えそうですか?無理の無い金額を設定しましょう。その代わり、毎月支払をお願いします。もし難しい時はご相談下さい。お電話で構いませんから」

 藤山さんが、私を正面から見た。私はその瞳をまっすぐ見る。

 「借金についても、無料で弁護士に相談できる市民相談を利用してみてはいかがでしょうか。……一緒に、考えさせて下さい」

 藤山さんの顔に初めて疲労が滲んだ。ここまでの、彼の道のりを思った。


 月初めになった。約束の給料日を過ぎても、藤山さんから振込は無く、連絡も無かった。

 飄々とした笑み。

 仮面の下は、どんな表情だったのだろう。

 「騙されて、いいんですよ」

 顔を上げると、課長がいた。あの時のように、課長は自身に語るように呟く。

 「誰もが、それぞれの人生を抱えています。その全てを、最初から窓口で語って下さるわけではありません。騙してもらっていいんです。私達は、騙されたとしても、向き合い続けるんですよ」

 課長の丸い背中を眺めながら、私はあの時の記憶を反芻する。

 

 「……申し訳ありませんでした。課長にまで対応して頂いて」

 男性が帰った後。頭を下げた私に、課長は微笑んだ。いつもの、気弱な笑みだった。

 「係長が今日はいなかったからねぇ。係長なら、もっと上手くいったかな。僕はこういうの、下手だからねぇ」

 課長は先程の男性に、生活保護の相談を勧めた。保険料云々を言っている状況ではなかったからだ。話は平行線だったが、課長は最後まで真剣に語りかけていた。

 「払わない人と、払えない人は、違うからねぇ……」

 課長は考え込んでいる。まだ、あの人に掛ける言葉を探しているかのように。

 「私が、最初からもっとお話を聞けていたらよかったんですが」

 課長は私に気がついたように顔を上げる。

 「それはどうでしょうね……いや、こちらの対応に問題があってお怒りになるケースもあるでしょうが」

 ぽつり、ぽつりと課長は語る。

 「払わない人と、払えない人は違います。払えない人は、払いたくても払えない。負い目を感じながら、どうしようもなさに苦しんでいる。それを他人に語るのは、頼るのは、とても辛いことのように思います。葛藤の中で、私達の所へ来て下さっている。話そうか、話すまいか、迷いながら。理解されるのか、推し測りながら」

 「……あの方は、まるで泣いているようでした。怒鳴りながら、泣いておられるような気がしました」

 「僕は、あぁいう場面になると正直逃げたくなります。そんな訳にもいかないから、職員の仮面を被って話をするんですが。なんだか、相手も同じなんじゃないかなぁと思うんです。みんな、仮面を被って来られたのじゃないかって」

 黙ったままの私を見て、課長は「偉そうなことを言いました」と申し訳なさそうに笑った。私は首を振る。


 みんな、仮面を被っている……。


 一本の電話が鳴った。

 機械的に名乗ると、「よぅ」とやけに馴れ馴れしい声がした。記憶が繋がり、思わず声が上ずる。

 「今日、振り込んだ。遅くなったな」

 いえ、と私は受話器を握り締める。

 「保険証、今日発行して郵送します。通院、間に合いますか?」

 「あぁ。来月も、また」

 唐突に電話は切れた。私は息を吸い込み、端末に向かう。約束通りの金額が振り込まれているのを確認し、発行作業にとりかかる。


 私達はみんな、仮面を被っている。

 それでも、そこに真実はある。


 遠くで、課長が微笑んでいるのが見えた。

 内気で弱気な課長は、追い込まれるともう一つの姿を見せる。

 窮鼠、猫を噛む。誰ともなく言い出したミッキーの由来は、保険年金課の公然の秘密だ。

 どちらが仮面なのか、どちらも仮面なのか。それは、課長のみが知る秘密なのだろう。

 


 


 

 

 

 

 



 

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