企画課

「はぁ……」


打合せ中、思わず溜息が出た。口を抑えるが誤魔化せず、係長の視線を感じて背筋を伸ばす。

手にした資料に目を落とす。開催が迫った「さわらの春」。鰆区の魅力をPRすべく、区民と区役所が一丸となる(らしい)イベント。主管課はここ、企画課。

俺はそこで、問題の「さわらくん」になることが決まっていた。


三年前。遅蒔きながら世のゆるキャラブームに乗っかろうと、鰆区はマスコットキャラクターを区民に募った。予想外に数点しか集まらず、全点が「鰆区マスコットキャラクター検討委員会」の審査にかけられた。

最後にさわらくんが登場した時、区長含む委員会の面々は息を呑んだという。

ギョロりとした目、タラコ唇で微笑む鰆。それだけなら可愛いといえなくもないが、唐突に突き出た手足が沈黙を強いる。

これは、無いな。

全員一致で不採用、と確信された中で。


「いいねぇ!」


一同に戦慄が走る。

まさかの「イイネ!」を与えたのは、鰆区長海川うみかわ好男よしおその人であった。

「せっかくのオリジナルキャラクターだからね。これくらいインパクトがないと!」

「区長……確かにインパクト大ですが、区民の皆さまが親しみ易いのは、その、もう少し可愛らしいデザインの方が……」

「決まりだな、これでいこう!」


区長を除く全員の視線が、密かに一点に集まる。

会議室となった区長室。その壁には、区長自らの手による魚拓が堂々と掲げられていた。

中山区長の趣味は、釣り。こよなく魚を愛する区長によって、さわらくんは誕生してしまった。

しかも、あろうことか着ぐるみとして。


案の定、さわらくんの評判は散々だった。

道を歩けば人がおののく。犬は吠える。こどもは泣く。

イベントに出る度「不気味」「怖い」と区民の投書が寄せられた中、一部「網タイツのお姉さんが中に入ってほしい」とマニアックな意見もあったとか無いとか。

ウン十万かけた着ぐるみを簡単に廃棄も出来ず。迷走するさわらくんの行方は、毎年企画課新人職員に託されていた。

つまり、俺だ。


「草野さん、サインなんですが……体調悪いとか、緊急の時は私の手を引いてもらえますか?」

丸眼鏡の奥の瞳が困ったように俺を見る。黒木さん。在課年数は上でも同年齢なのだが、俺に敬語を崩さない。サインというのは、着ぐるみの俺とアテンドの黒木さんの間で交わされるものだ。「さわらくん」のご丁寧なマニュアルに書き込まれていた。他にも、「さわらくんは夢を壊さないよう、喋りません。誰なのか聞かれたら、『さわらくんですよ』と返しましょう」。


……なんだかなぁ。


今の職場も、希望した訳じゃない。かといって、異動先の希望も無い。

時々思う。俺はこのままでいいのか、と。

目の前の書類に翻弄される日々。釈然とせぬまま電話越しに謝り、受話器を置いて溜息をつく。

誰かのための仕事ではあるのだ、と思う。けれど、繰り返しの日々に埋もれてしまいそうだ。

折しも受けた職員研修。講師はキャリアについて爽やかに語った。

「目の前の梯子を一生懸命上るだけではダメです。あなたは何処を目指して梯子を上るのですか?」


晴れやかな笑顔が、刺さった。

目の前の梯子を上ることさえ、躊躇しているのに。


初夏の爽やかな朝。控室代わりの会議室で、俺は胡乱な魚と化していた。

「草野さん、こっちですよ」

巨大なそれを黒木さんに手伝ってもらって被ると、視界が闇に包まれた。覗き穴から見える世界は極端に狭い。黒木さんの手だけが頼りで、思わず握りしめそうになる。手袋ごしに感じる小さな手。

廊下に出ると周囲の視線が刺さった。お客様の中には、露骨に顔をしかめた人もいた。気持ちは分かる。

俺に向かって親指を立てた人影。視線を上に上げていくと、同期の水本だった。多忙極める総務課の彼。やつれた顔。

Good Luck!

俺は頷こうとしてデカすぎる頭部にバランスを崩し、黒木さんに支えられる。水本の笑い声が、廊下に朗らかに響く。


やっとたどり着いた地上は、五月晴れだった。普段なら心地よい日射しは、着ぐるみの内部温度を上昇させてゆく。黒木さんが巻いてくれた首の手拭いに感謝した。中には大量の保冷剤。最初は凍傷になると危ぶんだが、今は砂漠のオアシスだ。

物産展の会場には、地元の野菜や名物の加工品を売るテントが並ぶ。打ち合わせ通り手を振りながら会場を回るが、振り返す人は皆無だ。俺を見上げた小さな少女がみるみる顔を強ばらせた。潤んだ瞳に、母親が慌てて抱き上げる。遠ざかるツインテールを申し訳ない思いで見送った。繋がった黒木さんの手に力がこもる。


突然、背中に衝撃が走った。


黒木さんが支えようとしたが、小柄な彼女では支えきれなかったようだ。訳が分からないまま地面に転がる。

「大丈夫ですか!?」

慌てた黒木さんの声に、甲高い叫び声が重なる。

「やった、倒したぜ!」

けたたましい笑い声は複数だった。黒木さんの手を借りて起き上がる。まだあどけない小学生とおぼしき少年達が、俺を指差していた。

「キモイんだよ!」

また俺に突っかかってくる気配を察して、黒木さんが立ちはだかる。

「ダメ!中の人だって、痛いんだよ!」


黒木さん、中の人って。

こどもの夢、壊してるよ。


一生懸命叫んだ彼女に、思わず微笑む。しかし、少年達は可愛いお姉さんが構ってくれて、余計に火がついたようだ。

黒木さんのガードを越えて、拳がつき出される。避けようにもデカい図体は身動きがとれず、まごつくばかりだ。思わぬ方向から痛みが飛んでくる。

通行人が怪訝な顔で振り返り、何事も無かったように立ち去っていく。

「ダメだってば!」

草野さんの声が震えている。

こんなガキに夢も何も無いだろう。

そう思いながらも、俺は声が出せない。

奇怪だとしても、嫌悪されたとしても。

さわらくんは鰆区民のマスコットなのだ。 怒声を上げる訳にはいかない。

暑さと怒りで朦朧とする。黒木さんに区役所に戻るようサインを出そうとしたその時。


「やめんか!!」


近くのテントから、老婆が立ち上がった。皺に隠れた眼は案外鋭く、腹の底から発した声には威厳すらあった。少年達の動きが止まる。


「職員さんに、何ばしよっとか!」


職員さんって。

完全に夢を打ち砕かれたな、と思いながら少年達を見ると、素早く身を翻して逃げ去っていくところだった。

「ありがとうございます」

黒木さんが頭を下げると、老婆は顔をくしゃくしゃにして笑った。見えないはずの俺の瞳を見つめ、「気張らんね」と低い声で呟く。テントに戻る背中に後光が射して見えて、心の中で拝んだ。

黒木さんが俯く。俺は彼女の手を握り返す。もう一度、歩みだそうとする。


「お魚さん」


背中に小さな声がかかった。黒木さんに手伝われながら方向転換すると、ツインテールの少女が立っていた。

俺を見上げた顔が再び歪む。

不意に気づいた。こんな小さなこどもだ。俺が立っているから、余計に怖いんだ。

動き出した俺の意図を察した黒木さんが、肩を差し出した。華奢な肩に手をかけ、ゆっくりしゃがむ。

少女は母親の手を握りしめながら、こわごわと、俺に近づいた。


「だいじょうぶ?」


小さな手が、殴られた俺の腹を撫でる。分厚い着ぐるみ越しに、温もりが伝わった。

狭い視界が熱くなり、ぼやける。


「大丈夫!草野、じゃない、さわらくん、今のでお怪我治ったみたいだよ。ありがとう!」


黒木さんが少女に笑いかける。俺はガッツポーズを決めてみせた。少女が微笑む。母親も笑って少女の頭を撫でた。手を振り、去っていく少女。俺と黒木さんは手を振り続けた。


誰も、見ていないようでも。

誰かが、見ているんだ。


着ぐるみを体から引き剥がすと、爽やかな薫風が通り抜けていった。大量の汗に我ながらビビる。黒木さんに退室してもらい張り付いた衣服を着替えると、やっと人間に戻れた気がした。手近な椅子に座り込む。

「草野さん、お疲れ様でした。これ、係長と課長から差し入れです」

戻ってきた黒木さんが冷えたペットボトルを差し出す。乾いた喉に染み込むお茶は甘く、一気に飲んでしまった。黒木さんも、俺の隣に腰かけてお茶を飲んでいる。

「黒木さん」

呼び掛けると肩が少し跳ねた。さっきまで手を繋いでいたのが嘘みたいだと思う。

「さわらくん、やったことあった?」

はい、と黒木さんは小さく頷く。


寄り添ってくれた小さな手の、力強さ。


「ありがとう」

呟いた俺に、黒木さんは目を伏せて笑った。


俺は立ち上がり、さわらくんの前に立つ。マニュアルに従い、汗を吸った内部にファブリーズを撒く。隣で、黒木さんは巨大な靴の裏を拭く。

「お疲れ様」

役目を終えたさわらくんは、最初と違って大きな目玉も愛嬌があるように見えた。

来年、俺もアテンドをしようと思った。


「さわらの春、お疲れ様でした!」

係長の乾杯の合図で、一斉にグラスが鳴る。

「おつかれ、さわらくん」

先輩達とグラスを合わせる俺の向かいで、黒木さんは楽し気に微笑んでいる。

寂しげな後頭部、ありふれた黒縁眼鏡。仕事は手堅く面倒見もいいが、影が薄い企画課長。その裏の一面が見られるのは、二次会である。

必ずカラオケと決まっているそこで、課長はおもむろにマイクを握る。昼間とは違う朗々とした声に、普段はあり得ないほど皆が聞き入っている。

時に郷ひろみと化して踊り狂い、時に尾崎豊となって切なく叫ぶ課長の 十八番は、中島みゆきの「地上の星」である。

昼間は喧騒に紛れて分からない一人一人の輝きが、哀愁に満ちた歌声により照らし出されてゆく。

ほろ酔いの頭で俺は考える。

誰もが希望の仕事ができるわけではなく、希望が叶ったとしても苦労はつきない。

それでも、目の前の梯子を上っていくのだ。平凡と言われる人々の地道な努力によって、世界は回っていく。

目指す梯子の先は、まだ分からないけれど。

俺はまず、目の前の梯子を一生懸命上る奴でありたい。その先で、見えてくるものだってあるんじゃないか。


企画課の宴会は、二次会含めほぼ100%の参加率を誇る。仕事で疲れた夜に沁みる歌声は、企画課の公然の秘密なのである。











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