市民課
8時45分。始業のチャイムと共に、窓口が一斉に動き出す。背筋を伸ばし、今日一番のお客様の前に立つ。
この瞬間は、嫌いじゃない。
いろんなお客様がいる。時には、お叱りを受けることもある。
それでも、この仕事に携わっていることを、嬉しく思う。
大切に、繋いでいきたいと思う。
「戸籍って、海外じゃほぼ無いんだよ」
そう教えてくれたのは、課長だった。
地蔵丸課長。恵比寿顔に福禄寿の大きな
通称、市民課のお地蔵様。
怒らせると半端無いという噂も聞くけれど、今のところ猛々しい毘沙門天に変じた姿は見ていない。
「もともと中国から伝わったもので、今も戸籍制度があるのは中国、台湾、日本。家族単位で管理するんじゃなくて、マイナンバーみたいに、個人単位で管理しているところが多いんだ」
「そうなんですね。不思議です、あって当たり前だと思ってたから」
素直に驚くと、課長は福々しく微笑んだ。
「戸籍を辿れば家系図ができる。戸籍は、その人のルーツだよ。僕たちは、みんなの歴史を司っているんだ」
ルーツ。歴史。
課長の言葉に、私は考えてしまった。
今は電子化されているけれど、昔はこの膨大な資料の一つ一つが、手書きだったんだろう。途方も無い労力。
そこまでして、繋ぎたかったもの。
古代の戸籍である律令制は、政権が支配する民を把握するのに必要なものだった。
けれど、現代も戸籍が残っているのは、それだけのためじゃないと思う。
こどもの頃。
祖母に、聞いたことがあった。
「おばあちゃんも、こどもだったの?」
しわくちゃの笑顔、日焼けしてごつごつした手、腰を伸ばす癖。生まれた時からその姿しか知らない祖母に、私と同じこどもだった時があるのか、不思議に思ったのだ。
祖母は笑って、私に話してくれた。
生まれ育った家。祖母のきょうだい、お母さん、お父さん。おじさん、おばさん、おじいちゃん、おばあちゃん……。
流れの商人と恋に落ち、結婚した人がいたり。幼くして亡くなった命があったり。
私の知らない、私に連なるたくさんの人々。
その人が生きた証としての、私。
それは不思議な感覚だった。
今も、ふとした時に甦る。
端末を叩きながら、出力される戸籍を手に振り向けば、そこに連なる無数の人々が笑いさざめいている。
無戸籍、非嫡出子、性別の記載。
戸籍に伴う問題。それは私たちがその人を、家族の在り方をどう捉えているのかを問いかける。
人生にはいろんな出来事があり得る。けれど、「離婚したら戸籍が汚れる」等言う人もいる。
汚れるとはどういうことなのか。守りたいと思っているものは、何なのか。
戸籍が無くなれば解決する、というものでもない。法改正だけではなくて、私たちの意識を見つめ直したその先で、新たな戸籍の姿が浮かび上がるのだろう。
仕事柄、いろんなものを目にする。
転居を繰り返した先で、住んでいることが確認できないからと、消除されていく人。
同じ相手と延々繰り返される、結婚と離婚。
勝手だと分かっているけれど、どんな人生を歩む人なのだろうかと、思いを馳せてしまう。
一度、児童相談所から問い合わせを受けた。
生後間もない赤ちゃんの、戸籍を作りに来たいという内容。訳が分からず先輩に尋ねると、代わりに対応してくれた。
「どういうことですか、さっきの電話」
「置き去り」
「は?」
「出自不明の赤ん坊。棄児発見調書を作って、戸籍を編製する」
私は呆気にとられた。
「……その赤ちゃん、どうなるんですか」
「さぁな。里親に預けられたりするんじゃないか」
私はやっぱり、考え込んでしまう。
父母の記載が無い戸籍。初めてそれを目にした時、彼が彼女が、どんな想いを抱くのかは、容易く想像できることじゃない。
けれど、思う。
それはあなたがこの世界から切り離されている、という事実を伝えるものではない。
電話の、切迫した声が甦る。
それは、あなたをこの世界に繋ぐために奔走した人々がいた、という事実でもある。
産まれたばかりのあなたを抱いて。あなたを抱きとめてくれる人を求めて。幸せな、未来を願って。
窓口に立つ度、思い出す
入庁後、市民課に配属され、一年ほど経った時。
窓口業務にも慣れた頃。私の前に現れたのは、鼻の付け根にある盛り上がった黒子が印象的な女性だった。
まだ、少女に近い。十代後半、化粧気も無い透明な肌。長い黒髪をひとつ結びにして、凛とした空気が漂っていた。ちょうど春先、転出入者が多い時期で、転入してきた彼女にも、何かしら旅立ちの気配がした。
戸籍交付時、身分証明書の提出を求めると、保険証と通帳が差し出された。写真入りの証明書が無い場合、世帯構成等を質問し、本人確認をすることになる。私は手慣れた質問事項を口にした。
「お母様のお名前を教えてください」
間髪入れずに彼女は答えた。
「知りません」
私は思わず、彼女の顔を見てしまった。
彼女は唇を引き結び、挑むように私を見ていた。
強い眼差しに、たじろぐ。
私は必死に次の質問を探した。
何なら、この人は知っているだろう?
この人にとって、確かなものは何だろう?
「……妹さんの、お名前を教えてください」
祈るような思いで尋ねると、彼女は心もち柔らかな声で答を口にした。
良かった。繋がりがあった。
私の方が安堵する。
端末を叩く私に、彼女がぽつりと言った。
「こんなところに、載っているんですね」
彼女の表情は動かない。淡々とした声。
私は頷き、言葉を探す。
手の中の一枚の書類が、幾重にも重なって感じる。彼女に連なる人々。ずしりとした重み。
私はそれをそのまま差し出すのを躊躇ってしまう。
窓口には書類を入れるための封筒も用意されているけれど、何か、額縁にでも入れて、恭しく差し出したくなる。
ここに載っているのは、あなたの過去。
何があったのかは、分からない。
それでも、あなたが一人で生きてきたのではない、という証。
刻まれていくのは、あなたの未来。
あなたが確かにここで生きているという証。
とても、言葉にはできなくて。
でも、心を込めて。
彼女に、その歴史を手渡した。
私たちが受け継いできたもの。
これからも、私たちが守り続けるもの。
彼女はそれをしばらく見つめた。
やおら、折り曲げて封筒に入れ、バックに突っ込み、身を翻した。
力強い背中を、遠く見送った。
気付けば、私は今日も窓口で、あの日の艶やかな黒子を探している。
彼女は、いつかまた区役所を訪れるだろう。
その人生の節目に。
出会い。別れ。新たな旅立ち。
その誕生から死まで。
私たちは、見守り続ける。
あなたがここで生きていることを。
昼休み。席に戻ると、同僚からお菓子を手渡された。こどもの頃から見慣れた、10円玉2つ3つで買えるチョコ。色とりどりのパッケージ。
「差し入れ」
彼女はそのまま課長席へ。
「やぁ、どうも、どうも。ありがとう」
甘党の課長は、小さなチョコに手を合わせる。ふっくらした笑顔。つられてこちらも笑顔になる。
辛い時は、課長へのお供えをする。ささくれた心に、福々しい笑顔が沁みる。
嬉しい時も、お供えをする。課長と一緒に、喜びを噛みしめる。
そんなわけで、今日も市民課長は高級和菓子から駄菓子に至るまで、たくさんの幸せに囲まれて微笑んでいる。
市民課に配属されると、お裾分けのお菓子によって甘党になっていく。それは、私たちの公然の秘密なのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます