鰆区役所物語

プラナリア

総務課

 年度末。桜を愛でる暇も無い繁忙期。

 僕は今日何度目か分からない溜息をついた。入庁四年目、課の庶務になって一年目。総務課にはあらゆる雑事が降りかかる。庁舎管理から区役所内の落とし物まで。総務課の庶務ともなれば、尚更だ。大量の照会文書に目を通し、各課に振り分けるだけで午前中が潰れる。訳の分からない毎日を支えてくれた先輩は、二ヶ月前に育児休業に入った。泣き言をこぼす暇も無く、僕は年度末の処理に追われている。期限が迫った支出事務を、今日こそ終わらせなければ。


 育児休業に入った高坂さんは、最後まで「ごめんね」を繰り返していた。忙しいのにごめんね、面倒かけてごめんね。

 ごめんね、はこっちの台詞なのに。

 体調も悪い中無理しているのを知っていたのに、カバーできなかった。高坂さんは切迫早産気味になり、予定を繰り上げて休みに入った。

 「謝らないで下さい。高坂さんが産む赤ちゃんが、僕たちの年金を払ってくれるんですから。元気に生まれてきてもらわないと」

 冗談めかした言葉に、高坂さんは俯き、それでも笑ってくれた。


 「水本くん、お客さん」

 声をかけられ、振り向く。見覚えの無い年配の男性が、険しい顔をして立っていた。

 「課税課の課長さん。時間外の件だって」

 僕の眉間に刻まれた皺が、深くなる。


 今年は選挙も多く、皆日付が変わるまで選挙事務に明け暮れた。夏の集中豪雨では何ヵ所も避難所が設営され、職員も泊まり込んだ。結果、通常業務に皺寄せがいき、例年以上の時間外勤務手当が発生。年度末が近づくにつれ、予算不足の陳情は増えた。区役所の時間外勤務手当の予備予算は、尽きかけている。

 かといって、すぐに追加のお金が降ってくる訳ではない。

 本庁との交渉に継ぐ交渉。数字の羅列に吐き気を催しながら仕上げた根拠資料は、しかし予想を上回る悲惨な事態に空しく覆される。膨らみ続ける時間外勤務。

 それでも追加は、まだ来ない。

 なかなか総務課(というか、予算担当の僕)が色好い返事をしないから、課長直々に直談判というわけだ。

 目には目を、といきたいが、生憎課長も係長も会議中だ。最近区役所で導入した新システムに不備が出たとかで、連日対応に追われ各課と協議を重ねている。戻りの時間も書かれていないスケジュールボード。ここは平の僕で受けて立つしかない。

 「お伺いします」

 ミーティングテーブルに通すと、座るやいなや課税課長はまくし立てる。

 「前から言ってるだろう、うちは育児休業中の職員もいて2欠員なんだよ。先月でうちの予算は尽きたんだから、そちらから貰うしかない。本庁はもう予算が無いって言うんだから」

 区役所に育児休業の代替職員はつけない。そんな通知が出たのは、去年の春のこと。もともと代替職員がつかないのは珍しくなかったらしいが、それでも希望は打ち砕かれた。残された職員が穴埋めをするしかない。

 総務課の時間外勤務手当の予算は、一番乗りで尽きた。不要不急な時間外(矛盾した言葉だ、必要だから時間外勤務をするのに)はしないよう呼び掛け、サービス残業に目を瞑る。

 どこも、窮状は同じだ。

 まぁ、育児休業がとれるだけ、時間外勤務手当がつくだけ、仕事としては恵まれてるのだろうけれど……。

 ともすれば飛んでいきそうになる心を、現実に引き戻す。目の前に広がるのは、僅かな毛髪がしがみつく荒野。青筋を立てた課税課長の血走った目を見つめる。

 「お話は、よく分かります。こちらも以前から追加支給の依頼はしているんです。しかし、まだ返事待ちでして……。それに、他の課からも同様に相談を受けていますので、配分を考える必要があります。各課の配分額が確定すれば、すぐご連絡しますので」

 「だから、それじゃ困るんだよ!」

 課税課長の声が一際跳ね上がる。


 「いかがされましたか」


 暗雲立ち込めた空に射した、一筋の光明。

麗しい声の主は、ベージュのツーピースで微笑んでいた。栗色の髪が緩やかなカーブを描く。


 三上みかみ課長。通称、女神課長。

 光輝くような美貌。海のように深い包容力。


 「時間外の件で……」

 課税課長が気後れしたように呟く。女神は長い睫毛を伏せた。人形のように端正な顔が、憂いを帯びる。

 「課税課の皆様の状況は、把握しております。よくこれだけ抑えて下さっているものです。本当なら、今の倍の時間外勤務になってもおかしくない状況ですのに」

 課税課長の瞳にうっすらと涙。

 鬼の目にも、なんとやら。

 僕は心の中で呟く。

 「私共も、出来る限りのことは致します。配分額が確定しましたら、すぐご連絡差し上げますので」

 女神の神々しい微笑に、課税課長は心なし頬を染める。三上課長の台詞は先ほどの僕の台詞とほぼ一緒なのだが、課税課長は「よろしくお願いします」とあっさり引き下がった。

 「ありがとうございます」

 僕が一礼すると、課長は「お疲れ様」と微笑んだ。去っていく背中に後光が射している。

 僕は心の中で呟く。

 課長も、お疲れ様です。


 女神のささやかな秘密を知ったのは、つい最近のこと。


 その夜、僕は膨大な資料に埋もれながら、必死で電卓を叩いていた。ほぼ完成していた決算資料。その綻びを、課長に指摘されたのだ。

 0の数を一つ間違えるという単純な、しかし重大なミス。一から計算のやり直し。期限は今日。僕は自分を呪う。いつもの帰宅時間はとっくに過ぎたが、空腹を感じる余裕も無い。

 課内にもう人はまばらだ。係長は休みで、係で残っているのは僕だけだった。

 「申し訳ありませんでした」

 何度もチェックして、なんとか完成した資料を課長に提出する。深く頭を下げる僕に、課長は静かに言った。

 「水本さんは、よくやってくれているわ。高坂さんの分まで、頑張ってくれてる。庶務もあるから、大変でしょう?いつもありがとう」

 唇を噛み締めた僕に、課長は引き出しから何か取り出した。

 「差し入れです。よかったら、どうぞ」

 僕は目を疑う。


 真っ赤な袋のチョコレート菓子には、思わずすがりつきたくなる印字があった。


 『ストレスを低減する GA○A』


 「課長もこういうの、買うことあるんですね」

 受け取った僕が思わず呟くと、課長はふふ、と声を漏らした。

 「やってられないことだって、あるわよねぇ」

 にっこりと笑った顔の隅に、よく見ると小さな吹出物。夜のチョコレートは肌に悪いですよ。心の中で呟く。


 でも、綺麗だと思った。いつもよりも。


 いろんな想いを飲み込んで、今日も総務課長は神々しく微笑む。鰆区民に、鰆区役所に降りかかる、あらゆる災厄に立ち向かうのだ。


 波乱の年度末を乗り越え、激動の年度始めが一段落した頃。

 高坂さんから、連絡がきた。

 「無事、出産しました」

 添付された写真には、小さな命を抱き締めて微笑む、素顔すっぴんの女神。

 「水本君、ありがとう」

 メッセージに僕の顔もほころぶ。お祝いの言葉を返信し、机上の大量の書類に向き直る。

 先輩が職場復帰するのは一年後。「私のせいで、ごめん」なんて、言わせない。今日も、僕にできる最大限のことを。


 もう一つの、女神の素顔。

 まもなく行われた課の歓送迎会。乾杯の音頭と共に、それぞれがグラスを傾ける。

 美しい女神課長の前には、煌めく氷と水差し、焼酎の瓶。

 課長は目を細めて水割を口にする。まるで聖水であるかのように。

 皆が参拝者のように課長の元に集う。一緒に水割を作りながら、談笑している。

 女神と共に飲む焼酎は、不思議と仄かに甘い。総務課に来ると焼酎派が増える、というのは僕らの公然の秘密なのだ。


















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