Section1-1 ダンディ、仕事を満喫する

 スパイだって、歳をとる。

 寄る年波には勝てないものだ。若い頃ならあれほど苦手だった朝が、それほど苦にはならなくなった。年々上昇していく血圧の値も関係しているのであろう。

 とはいえ、目覚まし無しで必ず起きられるというほどの自信はない。油断は禁物だ。


 早朝に起きて、早速の髭剃りと歯磨き。

 最近は歯ブラシを2種類使うのがマイブーム――毛先の柔らかい歯茎磨き用とやや硬めのステイン除去用の歯ブラシを並行使用するのだが――なのだった。

 歯茎まできっちりと磨ければ、口の中も心の中ももすっきりとする。

 生まれ変わったようなすがすがしい気持ちでリビングに戻った俺は、地上40階からの眺めと一杯の淹れたてのコーヒーを楽しみ、身支度を整える。灰色のジャケットと茶色のスラックスをチョイスした。


 部屋を後にして、高速エレベーターで40階から地上へと降りる。

 エレベーターのドアが開いたのと同時に、足を前へと進めた。

 乳酸飲料「ミクリル」の販売事務所へは、体力維持の訓練を兼ねた速足気味のウォーキングで向かうことにしていた。晴れた風の無い日などは、約20分間の爽快な気分が味わえて良い。かつて闇夜に紛れて暗躍していた頃を考えれば、今は非常に健康的な生活である。

 充実の40代生活と云ってもいい。


 20分間のウォーキングが終了した。

 事務所の横開きのドアをガラリと開け、その中へと進む。

 と、いきなり出迎えたのは総務の安田やすだ係長だった。まだ三十代半ばなのに砂漠化の進む額を肌から分泌される油で艶々とテカらせ、揉み手をしている。俺のミクリル販売が好調なので、最近何かと俺に対して愛想が良いのだ。

 そんな彼の姿を見た瞬間、爽やかな気持ちが急激に萎んでゆくのが分かった。


「おはようございまーす、中川なかがわさん」

「うむ」

「今日は天気が良くて気持ちいいですね」

「うむ……」

「中川さん――」


 俺は係長の言葉をびしゃりと遮り、びしり、人差し指を彼の眼前に突きつけた。


「係長。だから、自分のことは『ダンディ』と呼んでくれと何度も云ってるじゃないすか」

「ああ……そうでしたそうでした、すみません。ではダンディさま、今日も外回り頑張ってくださいませ!」

「……うむ」


 俺に適当におべっかを使った後に事務室へと去って行く小男の背中を見送り、溜息を吐く。そのすぐ後にやって来たのは、38歳の人妻にして我が販売チームの班長リーダー佐川さがわ光代みつよさんだった。小奇麗な緑の帽子とパリッと糊のきいたスカート、そしてチェックのシャツをさらりと着こなすその姿には、いつもながら惚れ惚れする。

 さすがは班長、早くも出発の準備が整っているようである。帽子から漏れたカール気味の茶髪に朝陽が射す様は、神々しくも思える。


「あら、ダンディさん。おはようございます。今日もきりりとして素敵ですわ」

「おはようございます、リーダー。いえいえ、佐川さんこそ朝からきびきびと動かれてすごいです。もう、ご出発ですか?」

「ええ。もう準備できましたので……。では、お先に」

「行ってらっしゃい!」


 身長180センチ、体重80kgの見るからに筋肉ゴリラな俺を、ここまで朝からいい気分にさせて労働意欲を高めるとは……。佐川班長、恐るべし。

 これが人の上に立つということなのだろう、と思う。俺も、こういう人を目指していきたい。ゆくゆくは班長に……。

 そんなやりとりの後、ミクリル・ダンディ用の制服に着替えた俺は、乳酸飲料を所定の量だけカートに入れた。これで準備万端だ。いざ出発!

 営業所の出入り口を抜け、緑色多めの服装で街へと飛び出す。


 ――冬がやってくるのも、そう遠くないな。


 街角でカートを引き引き、鼻の奥に感じたのはそんな匂いだった。

 行先は「彼女」のいるミリア電子工業である。足取りも軽く、大股で歩き出した俺。

 勿論、目的は彼女に会うため――ではないよな、うん。俺があそこに向かうのは、我が「クライアント」の依頼を実行するためなのだ。

 決して、彼女に会いに行くためではない……決して。



  ☆



 ――いつもながら胡散臭いわね。

 そんな、ばっちいものでも見るかのような受付嬢からの視線を肌にひしひしと感じながら、ミリア電子工業の受付という“第一関門”を通過する。

 だが仮にも俺は、『ダンディ』と呼ばれる男。その際、紳士としての礼儀を欠かしたことはない。受付のお姉さんたちへの礼として、“魅力的なウインク”とともに、一本の美味しいミクリルを直に手渡しする。


 やはり、ミリア電子は一流企業だ。

 当然、会社の中枢部署への道のりは遠く、険しい。そこに辿り着くためには、幾つもの関門が、待ち構えているのである。

 しかしその状況は、一流産業スパイとしての俺の気持ちを却って奮い立たせるものだった。

 とびきりの笑顔と小さな乳酸飲料の小瓶を巧みに使い、すらりと身をかわすようにして喚問をくぐり抜けていく。「関係者以外立ち入り禁止」の札の張られたドアなど、俺にはへっちゃらなのだ。

 こうしてようやく辿り着いたのは、目的の企画開発課だった。

 と、すぐに眼福がんぷくともいうべきその姿が俺の目前に現れた。


「おはようございます、中川さん」


 迷路攻略のご褒美とばかりに、彼女――丸山まるやま知美ともみ――はその輝く笑顔を俺の胸の中心部に届けてくれた。そんな笑顔を見ちゃったら、誰だってこう思うだろう――もう、他の奴らのことなんてどどうでもいい――と。

 他の課員メンバーの机にはざっくり適当にミクリルを並べて、いざ、知美さんの元へと急ぐ。


「だからね、知美さん……。僕のことは『ダンディ』と呼んでくださいって前から云ってるじゃないですか! まあ……知美さんだったら『中川』でも何でもいいっちゃいいんですけども……」


 それは、最近では定番となってしまった俺の台詞せりふだった。

 曖昧な返事の代わりに小首を傾げた知美さんは、胸元に結んだリボンが可愛い白のブラウスとベージュ色のスカートを身に着けていた。頭の後ろで結ばれたポニーテールが揺れるたび、俺の心も揺れる。彼女に近づくと、何とも云えない好い匂いがした。


「はい、ミクリルどうぞ」


 彼女の机に、他よりはちょっと高級な「ミクリル100」を置く。

 そんなとき、いつもなら「そんな、気を遣うのはやめてくださいよ」なんて言葉が彼女の整った唇の間から出るのだが、今日は少し様子が違っていた。小さな声で「ありがとう」と云っただけで、すぐ下を向いてしまったのだ。

 小さな吐息が、彼女の口から漏れる。

 そんな姿に可愛らしさを感じてしまう自分に不謹慎さを感じつつ、彼女に問いかけた。


「何だか元気がありませんね……。どうしたんですか?」

「ああ、ええ、まあ……。でもこれは、中川さんに云っても仕方がないことなので……すみません」


 彼女の“うなじ”あたりから、ぽそりと声が聞こえてきた。


 ――俺に云っても仕方ないことだと? 超一流の産業スパイであるこの俺に?


 近頃身を潜めていた胸の鼓動という奴が、俺の中で激しく騒ぎ出した。

 云いたい――、俺という存在の真実を。

 そうすれば、きっと彼女の役に立てるだろうに。

 だが……決してそれを口にすることはできないのだ。クライアントの正体と俺の職業の秘密は絶対である。それに、それを云えば、俺のミリア電子への潜入目的までばれてしまうことになるだろうし――。

 心に充満していく、無力感。

 首を垂れ、背中を丸めた俺がその場から離れようとした瞬間だった。


 ――!?


 俺の丸まった背中に、数万ボルトの電気が流れた。

 というか、そんな痺れるような感覚が走った。


 ――この中にスパイがいる!?


 永年、スパイとして培った感覚が、この部屋の中に漂う同業者の臭いを嗅ぎ取ったのだ。

 すぐに身構えた俺は、誰にも気付かれないよう目線だけで辺りを見回した。だが、それらしき人物は見当たらない。


 ――気のせいだったのか?


 けれどどうにも胸騒ぎは収まらない。

 もし同業者だとすれば、それはかなりの手練てだれであろう。背中に全神経を集中すると、かなりの攻撃的な匂いを感じた。その恐ろしきオーラから逃れるため、ひとまずこの部屋からの退散を、俺の脳が俺の体に命じている。


「で、では知美さん。元気出してくださいね……」


 そう云って、その場から逃げるようにして離れた俺。

 浮かない表情をした彼女に後ろ髪を引かれながらも、会社のビルから出るまでの間、背中から得体のしれない冷たい汗が引くことはなかった俺なのであった。

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