~混同~8
風が冷たい午後。不意に香るキンモクセイの香りにふと振り向いてしまうそんな和やかな陽気、山の肌も彩りを揃え慎ましく主張し始める季節。
十月の終わり。私は由比との再会を終えて複雑な心境にある。それは決してマイナスな心持ちではないがどちらかと言えば拭いきれない疑問と、それを聞けないもどかしさがあった。
その一つの要因となっているのが目の手術を終えて帰って来た今も目を開かないということ。そしてどこか様子がおかしいということ。
大人しいと言えば今までと変わりはないのだがその裏に別のものを感じる。
私は酷く鈍感だ。三咲のこともあったので頭の中が不安と動揺でぐちゃぐちゃになる。何か見落としてないか。気づいていないことはないか。大切なことを疎かにしていないか。自問自答を繰り返しては闇にはまっていく。そんな逃げられない現実を一人で受け止めることが耐えられなかったので、こうして五十嵐さんの仕事が終わるのを待っている。
「ごめんごめん!なんか久しぶりで手間取っちまった。じゃあいつものとこにいくか!」
「はい。今日は俺が車出しますよ!」
「お!買ったんだったな!それじゃお言葉に甘えましょ~。」
今では五十嵐さんが当館の全体フォローをしていて私が統括のままだ。ちらほらもう一店舗展開するという話が噂であるのでその為かもしれない。来年には社員を増やすと会議で言われているのでこの話はかなり現実味がある。
それはそうと明野さんの料亭に着いた。いつもの奥の席に迎えられ座って落ち着く。
「んで?お前のことだから由比ちゃんのことで何か悩んでるんだろ?話聞くぜ。」
席につくや否や早速見抜かれている。やはり五十嵐さんには敵わない。
「さすがですね。その通りですよ。まぁ悩んでるのかは微妙なところですけど。」
私は出されたソフトドリンクを冷静に一口飲む。
「なんだそりゃ。じゃあなんだってんだよ。浮気でもされたか?」
全然思ってもみなかったがその可能性を考えて自分と照らし合わせると否定しきれなくなり黙ってしまった。
「おい、マジかよ ... 。ちゃんと確認したのか?」
色々考えて止まっていた私は我に返った。
「え?いや多分そういうのじゃないと思います、けど ... なんか様子がおかしいんです。何かを秘密にしているような、思い詰めてるようなそんな感じなんです。」
五十嵐さんは自分の飲み物を空にする。少し納得がいってない表情だ。
「そりゃそんなときもあるだろ。一年の溝を一日そこらで埋める方が難しいと思うがね。伝えるのに時間が足りなかったんじゃないのか?」
なんて正確な分析だ。言われてみればその通りで何も言い返せない。しかし外側だけ見ればそうだがそうではない何かを私は感じていた。考えて理解したと言うよりも直感でそう感じたのだ。
「俺の考えすぎですかね。なんか ... 由比はみんなと違ってたのに、それが魔法が解けたように普通になってしまったようなそんな感覚なんですよ。」
「ようするに覚めてしまったと。俺がこんなこと言うのもおこがましいが結局人間なんてそんなもんじゃないか?」
ドクン。
今の言葉に脈が早くなる。 私も同じことをずっと思っていた。その言葉で私は周囲にも自分にも絶望しきっていたからだ。
でも私の中で由比だけは違った。人が作り出した醜いものではなく、自然に近い心地よさを持っていた。闇に差し込む一筋の光とも、荒野に咲く一輪の花とも思っていた。それがいきなり色んなものと変わりなく見えてしまうのが信じれない。私はそんな現実を信じたくないのだろう。
「それを踏まえて一つ言わせてもらっていいか?自分を棚にあげるつもりはないが俺はそんな現実と向き合いたくないから一人なんだぜ?見たくもない現実を無駄に実感するよりは夢に浸って誰にも迷惑かけない生き方の方が俺は納得できる。
何も自分から無理に喧騒の中に入る必要はないんじゃないの?嫌ならやめちまえばいい。
でも忘れるなよ?積み上げてきたものがあるんならそれはお前のことだけじゃない。お前が選択することによって傷つく奴もいる。また現実を嫌う奴もな。
人ってそういう面倒な生き物なんだよ。それをわからないお前じゃないと思うけどなっ。」
この人 ... 一緒だ。
そして私よりずっと先を歩いている。私は生活態度だけではなくこの人の信念にも共感し尊敬していたようだ。
人という生き物。普段生きていると人によって用意、整備された社会で生きていて気づきにくいことがたくさんある。この人は感じているんだ。そして私もそれを感じたい一人なのだろう。人の本髄とは社会に慣らされた習慣なのではなく考えず感じる直感力。私はきっとそれを他人に求めていたのだろう。
「五十嵐さんて本当にすごい人なんですね。人の理想 ... いや真理ですよ、それ。でも未完成な自分はどうすればいいかわからないんです。何が正しくて何が間違っているのか。相手も同じ考えならどんなに楽か。」
私はボーッと斜め下を見る。絶望したわけじゃない。嫌気が差したわけでも。考えても答えがない人の尊さが素晴らしくも疎ましくも思える。
「俺も今同じ思いだ。お前が考えてることがわかれば答えなんて簡単に見つけてやれるのにな。でも自分の考えてることを他人に全て伝えきることはできないんだよな。だから分かろうとする。そうだろ?」
「そうか ... 。そうだったんですね!」
五十嵐さんは何気なく言ったつもりだろうが私の中で何かがハマった音がした。
感じきれないこともある。だから会話していくんだ。 話そう、由比と。私の考えていることを伝えて由比の考えていることも聞くんだ!
「よぉーーし!!よしよし!」
私が急に気合いを入れるものだから五十嵐さんはびっくりして持っていたコップを机に落としてしまう。
「なんだよ急に!脅かすんじゃねー!バカっ!!」
「ハハハ!ごめんなさい!でも少しわかったような気がします。ありがとうございます五十嵐さん。」
落ち着いた様子でコップを元の位置に戻した五十嵐さんは失笑する。私もこれにつられて笑う。
「よかったよいつものお前に戻って。じゃあ今度は俺の出張武勇伝を聞いてもらうぜ。」
「それ聞きたかったんですよ!是非聞かせてくださぃ ... 」
この話はまた別の物語。
相変わらずの五十嵐さんに嬉しくなる。それと同時にここでの日常が帰ってきて私は凄く安心した。
ジリリ!
目覚ましを途中で叩いて止める。今日は由比が帰ってきて初めてあの場所で会える。いつもの場所で。
聞きたいことや話したいことがたくさんある。迎えに行った時に会ってはいるが、なぜか初めて予定を合わせて会ったときと同じくらいドキドキしている。密かに鍛練を重ねていた特性の紅茶をポットに入れベランダで一服をする。
「おっはよーん!光さん!」
声のした方を見るとベランダから身を乗り出している香と目が合う。
「あぁ、おはよう。ってお前プライバシーってもんはないのかよ。」
「えー、いーじゃん別にー。てかなんか嬉しそうだね。良いことあった?」
思わず口元が緩んでいたようだ。
「これからあるんだよ。前話した由比と会う話。今日なんだよね。」
「あーそっかぁ!じゃあ遅刻しないようにしないとね!女の子は待ってると色々考えちゃうからさ。」
なんだか香にしちゃ気のきいたアドバイスだ。
「そうか、じゃあ早めに行くわ。ありがとう!」
「うん。じゃあね~!」
そういうと香はベランダを去る。ふと考えた。待っているのは必ずしも良いことなのか?
考えすぎか。不安な気持ちに気づかないふりをして支度をし始める。この時私は直感よりも感情を優先していた。後に起こることも知らずに。
久しぶりの山道はかなり足にこたえた。目的地を目の前にして膝に手をつく。息があがっているのは運動不足からであるが、こんなに険しかったかと道のせいにもしたくなる。
やっと着いた広場は何も変わっておらずキレイだ。しかしなぜか昔と違って神秘的な感じはなく周りの色が鮮明に感じ取れる。 その視線はベンチで座っている人物に自然ととまる。
「由比ー!お待たせ!」
私も待ち合わせより早く来たつもりだったが由比はそれよりも早かったようだ。
由比は私に気づきこちらを向いて手をふる。目はやはり閉じたままだ。
「ごめんね。お待たせ!」
「ううん、全然平気よ。はい、紅茶。」
今のやり取りになぜか心が痛む。
「あ、俺も紅茶作ってきたんだ!あげる。」
「うん。ありがと。」
なんのけなしのやり取りをする。勝手にドキドキしていた自分がバカみたいに思えてきた。
するとそんな考えとは裏腹にいきなり由比が私の腰に抱きついてくる。
「なん!ど、どうしたの!?」
動揺して見せたが由比は依然そのままだ。私は落ち着きを取り戻し由比の頭をできるだけ優しく撫でた。 由比の体が小刻みに震えている。
「由比 ... 泣いているの?」
「 ... ううん。笑ってるんだよ。光だぁって喜んでるの。急にごめんなさい。」
そこからしばらく由比は喋らなくなった。その間非力ながら腰に回した腕の束縛力は弱まらなかった。
どれくらいの時間が過ぎたのか。近く緩く。こんなにも由比を感じられる距離はない。それが心地よく私はいつの間にか眠りに落ちてしまっていた。
起きたとき由比は隣にいなかった。私は焦り辺りを見回す。
すると何かの囁き声が聞こえ、風のふく先に視線を送ると由比はポツンとしゃがみこんでいた。
慌ててそこまで駆け寄ると由比は私に気づく。
「ごめんね、勝手に寝ちゃって。どうかしたの?」
「え?なんでもないよ。ただここにいるだけ。」
どこか様子がおかしい。やっぱり今までの由比と違って違和感を覚える。
「あのさ、由比に話したいことがあるんだ。素直に感じたことなんだけどいい?」
由比は黙って私の方に向き直り静かに頷く。
「気のせいかもしれないし、これが変化って言われたらそれまでなんだけど、何かあった?ごめん漠然としてて。でも今までとは違うような、変なこと言ってるのはわかってるんだけど。なんか上手く表せれない。」
「何かあったかって聞かれたら ... あった。」
胸が急にドキっとなる。知りたかったが聞きたくなかった。
「説明しても、伝わるかどうか。私自身もまだ理解できてないから話すのが怖いの ... 。反応が ... 怖い。」
見るからに怯えている。私を信用しているかいないかよりも自分でも消化しきれていないようだ。
正直私も怖い。理解できなければ終わりだ。
「大丈夫だと思う ... 話してみて。」
腹をくくった。
「 .... 。私がなんで目を開かないか先に教えるね。」
ゴクン。 私は生唾を飲んだ。
「きっと目を開いたら ... お姉ちゃんが来る。私じゃなくなっちゃうの ... 。」
え?お姉ちゃんって晶さんのことか?全く話が読めない。
「えっと ... それはどういうこと?」
「目を移植してからしばらくたった時、変な夢を見ることが増えたの。誰かの身体の中にいて、それは私じゃないことがすぐにわかった。その夢はすごい現実味があって、私自身も相手として出てきた。」
もしかしたら夢で晶さんの中にいるということか?
聞いたことがある。部分移植をした人の記憶がその人と混同してしまう。記憶転移というものだ。
「夢でずっとその人の記憶を辿るの。生きている時間を見るように。それで ... 最後は炎に包まれて ... その夢は終わるの。とても ... 熱いの ... 。すごく怖いの。」
由比はしゃがみこんでガタガタ震え始める。私はすかさず肩を抱いた。 まさかそんなことが現実にあるなんて ... かける言葉が見つからない。
「その夢は寝る度に見る頻度が多くなっていくの。なんか、自分の過去のことに思えてきて凄く怖い。私は世界を見たことないのに。その夢で見ちゃったの。色んなものを。感情が ... 私の中にっ ... たくさん ... っ。」
由比は崩れるように泣いてしまう。きっと記憶の混同が進みすぎているせいだろう。
なんでこんなことに ... 。
「由比!自分を強くもって!!見失わないで!!俺を見て。俺は晶さんなんか知らない。由比のことだけを大切に思ってるよ。俺がついてるから ... だから ... 。」
由比は私の手にしがみつくようにしてすがってきた。誰にも言えなかったんだろう。一体いつからなんだ。この苦しみは。
「ダメだよ ... 私はもう。あなたの知ってる私じゃない ... の。もう自分でも誰だかわからない。あたしはあたしじゃないかもしれないよ。」
そう言い終わると由比の体は脱力していく。
そんな ... このままじゃ由比が諦めてしまう。壊れてしまう。
酷すぎる現実に逃げたくなる。俺だってわけがわからない。
途方に暮れた。誰かにすがりたい気持ちで一杯になった私は気づけば五十嵐さんに電話していた。
「にわかに信じがたいな。さすがに全て受け止めきれる話じゃない。」
電話したときの動揺っぷりを心配して五十嵐さんは仕事終わりに飛んできてくれた。とりあえずあの後由比をおぶって山を降り、私の部屋まで連れてきた。今はベッドで横になっている。大西社長にも事情を話して今は安静にしておくようにと指示を受けた。起き次第大西社長宅に連れていくつもりだ。
昨日の今日で五十嵐さんには申し訳ないが知恵を貸してもらう。
「なんか複雑な気分だな。晶が由比ちゃんを苦しませてるなんて。あいつだって本望じゃないだろうに、報われねぇ話だな。」
「そうですね。でも由比は、その...普通の状態ではなかったです。」
すると横で由比がむくりと起き上がり目を覚ました。まだ覚醒していないのかボーッとしている。ただ驚くべきことに、由比の目が片方開いている。
そして五十嵐さんを見て顔が歪んでいく。
「まこ...と。よかっ...た。生き...てた。」
由比はそのまま泣いてしまった。
五十嵐さんは動揺しているようだ。
「ま...さか...嘘だろ...。」
私は状況を把握しきれない。由比が目を覚ましたがどこかいつもと雰囲気が違う。そして気がかりなのが五十嵐さんが固まってしまうほど動揺しているということだ。
「お前。あき...ら、なのか?」
!
「五十嵐さん今、なんて?」
驚くことしかできない。私も動揺しすぎて膝の震えが止まらない。
「ごめ...ん...なさ...い。」
由比は泣きながら途切れ途切れに謝っている。
こんなこと、あるわけがない!
私はとっさに由比に近づき肩に手を置いて覗き込むようにして語りかけた。
「由比!俺だよ。光だよ。家に連れてきたからもう安心して。大丈夫、怖くないよ。」
由比は泣いているまま私の顔を確認した。
「だ...れ?」
私は目を見開いたまま力なく尻餅をついた。
「あ...あぁ...。」
声が出ない。というより出せない。
しばらく沈黙していた五十嵐さんが私たちのやり取りを見て我に返ったのか、由比に近づき声をかける。
「由比ちゃん!しっかりするんだ。しっか...り..。」
由比は震える手を精一杯伸ばし五十嵐さんの頬を触る。
「ごめんね。ごめ...ん、ね。」
由比の身体は紐をきったかのように脱力した。また気を失ったんだろう。不安定な状態だ。
五十嵐さんの目からは涙が流れていた。
五十嵐さんはベッドに倒れた由比を気にもとめずただ一点を見つめている。
そしてゆっくり由比の触った頬に手を置く。このとき始めて自分が泣いてることに気づいたんだろう。我に返ってゴシゴシと拭う。
「おい!彼方。大丈夫か?」
五十嵐さんはいまだに尻餅をついて呆けている私の近くに来て体を揺する。
「いがらしさん。由比が...。」
「バカヤロウ!しっかりしろ彼方!と、とりあえず大西さんに連絡だ。」
「え?あ、はい!」
その後は急いで大西社長の家に由比を送り、大西社長の知り合いの医者を呼んだ。
医者の言うことには現状では何も判断、対処できないようだ。 もっと大きな病院で専用の機具を使い脳を見ないことには始まらないらしい。そして何より悲観的なのは長い間医者をやってきたこの人でもこの症状は見たことも聞いたこともないらしい。
そこにいた皆が不安な気持ちになった。しかし一番辛いのは ... 由比だ。感情の渦が広がっていく。
また、失ってしまう。
いつの間にか時刻は午後十一時になっていた。私と五十嵐さんはこれ以上長居出来ないため不安を残したまま大西社長のお宅を後にする。
「なぁ ... 。」
玄関をくぐり、車を目指して歩き始める。
「はい。」
目線は地面を見ながらお互い顔は合わせないままだ。
「あれって、嘘じゃないよな。さすがにびびってるわ、俺。」
「本当にあるんですね。記憶転移ってやつ ... 今由比の中には二つの記憶があって、自分の本当の記憶がわからないみたいですね。」
「いわゆる二重人格ってやつか?」
「恐らく。しかも自己の中から出た二重人格ではなくもともとある記憶が重なってるのであまり前例がないんだと思います。 ... 治りますかね。」
しばらく答えは帰ってこなかった。ただ靴が地面と擦れる音だけが聞こえる。
「あれは晶だった ... 。」
沈黙を破るように五十嵐さんがボソッと溢す。
「五十嵐さん ... 。」
「お前には悪いと思ってるよ。それに由比ちゃんにも正気になってほしいってのも嘘じゃない。でもよぉ ... 俺の名前を呼んだあいつの顔は、目は ... 晶そのものだった。あの時と一緒だったんだよ。...あの時と。」
五十嵐さんは空を見上げても歩みを緩めることはなかった。
「ごめんな。あの時俺はほんの少しでも幸せを感じちまった。二度と来ないと思ってた瞬間が突然きたんだよ。もう一度会いたいと思っても叶わなかったのに、やっと立ち直れたのに。もろいよなぁ。」
「 ... 五十嵐さん。例えばですよ。もし次目を覚ました時、晶さんのままだったら ... 由比はこのまま消えちゃうんですかね。」
「わかんねぇ。そしたらどうする?」
「俺は ... 多分必要ないと思います。」
五十嵐さんは振り向き渾身の一撃を私の頬に当てた。私は後ろに吹き飛びそのまま尻餅をついた。
「てめぇ ... それ本気で言ってんのか!なんで取り戻そうとしねぇんだ!あの身体は、あいつは由比ちゃんなんだぞ!晶じゃないんだ!!」
五十嵐さんも辛いのはわかってる。けど俺は ... 。
「わかってますよ!でも、誰って言われたんです!由比の顔で!!あんたにその気持ちわかんのかよ!!目を覚まして、もう違う人なら ... お互い離れるしかないじゃないですか。」
五十嵐さんは黙って手を出す。私はその手を素直に取り立ち上がる。
「 ... 殴って悪かった。確かに俺らがいがみ合っても解決はしないな。」
「俺の方こそ、ごめんなさい。」
私たちは同じ境遇なのだ。運命なんてそんなもので、祈ったところで待っているのは一つの結末しかない。お互い愛した人を失っているからきっと五十嵐さんも悟っているのだろう。
「答えるよ。もし晶のままならそれ以上嬉しいことはない。けどそういう問題でもないだろ。俺の気持ちより、これは本人の出方を見るしかない。」
そうだ。納得するしないの問題じゃない。
「そうですね。わかりました。俺も諦めたくありません。このまま支え続けます。」
「あぁ。俺もそうするよ。」
二人はそのまま歩き続けた。言葉は交わさなくともお互いの考えていることがわかる。これ以上この話が出ることはなかった。
あれから数日の時が経った。由比が目覚めれば連絡が入るはずだが全く音沙汰がない。こちらから出向くのも煩わしく結局あの日以来会ってはいない。私もあのことは考えないようにしているが人間はそんな完璧ではないのでスキあらば考えている自分がいる。そして事務所で事務作業している今もそうだ。
「光ちゃん最近元気ないわよ。何か悩み事でもあるの?」
気遣ってくれたのか隣の席で同じく作業している長谷川さんが声をかけてくれる。
「あ、いいえ。そんなんじゃないです。すみません気合いが足りないですよね!迷惑かけないようにします。」
私はそういってパソコンを注視した。隣で長谷川さんがそっと立ち私の方に歩み寄ってくる。
「は、長谷川さん?」
すると長谷川さんは何も言わず後ろから私の頭を自分の胸に抱き寄せた。
「ちょっ!長谷川さんなにを .... 」
「しーっ。落ち着いて光ちゃん。落ち着いて。」
最初は興奮し気が気でなかったがいつの間にか私は心地よさに包まれていた。とても柔らかく良い匂いがする。頭を撫でられ私は母に抱擁される子供の如く安心してしまった。
「どう?落ち着いた?」
「はい。すごい暖かかったです。」
長谷川さんは私の頭をポンポンと触り自分の席へと戻る。
「光ちゃんは頑張りすぎちゃうから、ときどき良い子良い子してあげなきゃ。家族なんでしょ?私たち。だったら甘えてもいいのよ。」
長谷川さんの笑顔には優しさしかなかった。自分の不甲斐なさなんてとっくに実感している。常日頃からその恩恵は自覚しているのでどちらかと言えば私はずっと甘えてしまっているのだ。
「俺 ... ほんと情けないです。恥ずかしい姿を見せてばかりで。」
「おバカさん。私にくらいは気を遣わないでいいのよ。私はその方が嬉しいわ。光ちゃんのこと大好きなんだから。もっと自分から言ってきてくれてもいいのに、なんてっ。ウフフ。」
もうこの純度百パーセントの笑顔には毎度ドキドキさせられる。最高の姉を持ったものだ。私の中に日常が帰って来て少しホッとする。
「了解です姉さん。今後はもっと甘えさせてもらいます。」
「姉さん ... 嬉しいわぁ!任せて光ちゃん。あなたたちは私が守るわ。」
力こぶを作る長谷川さんに思わずにやける。
私は一人じゃない。改めて自分以外から出るパワーに落ち着き励まされた。
この力がどれだけ自分の力になるか。
人は一人では生きていけない。
だから誰かを愛し愛される。私も由比を愛している。一人にしちゃいけないんだ。絶対にするものか。
私は幸せだ。だから自分の幸せは考えない。周りが私に幸せをくれるから、私は周りに親愛な情を持つ。そんな心を持ったのもここの人達のおかげである。私は挫けそうな心を抑制し、諦めない決意をする。
この先何が待っていても私を愛してくれた人を愛し続ける。
私を導いてくれた人を、導く為に。
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