~訣別~5


 ジリリリリリリリリ!

 やかましく鳴る目覚まし時計にももう慣れた。今日は吉井支配人に美味しい紅茶の入れ方を教えていただける日だ。遅刻するわけにはいかない。

 眠い目を擦りながら身支度を始める。最後にお会いしたのは宴の日以来だが特別な詳細は受けていない。とりあえず大西社長のお宅に向かう準備をする。

 それにしても宴の日は散々だった。大西社長が帰られた後席に戻ると吉井支配人をはじめ私の席の人達は出来上がった状態で、過去付き合った人や趣味はなんだとか、色々尋問され適当に相づちはうったものの非常に疲れた。しかし戻ってからは五十嵐さんが傍についてくれて何かと守ってくれた。さすがはみんなのまとめ役である。

 意外だったのは吉井支配人はお酒に弱く、飲むとよく喋るということだ。元々仕事でしかお会いしたことがないのでプライベートの吉井支配人を見たことがない。お酒のせいかわからないが砕けて話す姿を初めて見た。なので今日お会いして話すのが実は楽しみだったりする。

 支度を済ませ、足早に家を出る。時間は午後一時。この時間なら失礼はないだろう。私はまだ車を持っていないので歩きでのんびり向かうことにした。

 大西社長のお宅の門に到着。道中気になったのだが今日私が来ることを大西社長はご存知なのだろうか。吉井支配人に言われるがままに来てしまったが家主が知らぬまま家に入ってしまっては失礼なのでは。などと思ったがもうどうにもならないのでそれは直接聞くことにした。

 インターホンを押ししばらく待つ。カメラのようなものがあるので一応そちらに顔を向け会釈した。すると突然門が開く。これは確認した上で入れということなのだろうか。何も応対がなかったので恐る恐る入ることにした。

 しばらく歩き、家の前までつくと吉井支配人が腕を組んで待っていた。いつものスーツ姿とは違いワイシャツにジーンズ姿のラフな格好だ。


「遅いぞ光!」


「はいぃ!申し訳ありません!」


 いや時間を指定してくれればそれに合わせて来たのだが、と、心の中で思う。


「とは言ったもののすまん!打ち上げがあった日に伝えようとしたのだが忘れてしまっていた。面目ない。」


 吉井支配人は頭をかきながら照れ隠しにそっぽを向く。気にしてくれていたようだ。


「逆に失礼のないようにこの時間にしたつもりだったのですが少し待たせ過ぎてしまったようです。すみません。」


「お前は自分が悪くないのに謝るんだな。いい心得だ。私も見習おう。」


「いえ、そんなことは。ちなみに私が今日来ることを大西社長はご存知なのでしょうか。」


「いや知らせてはいない。ここの一階はほぼ私の家だからな。大西様の家に厄介になったときそう仰せつかった。その代わり私はこの家の全てを一任している。まぁご恩と奉納ってことだ。」


 なるほど。ならば安心だ。


「まぁここで立ち話もなんだ。入ってくれ。」


「はい。お邪魔します。」


 私は吉井支配人の後に続いて家に入った。やはり家の中は整頓されていてキレイだ。この家を吉井支配人一人でやりくりしていると考えるとものすごい能力の持ち主ということがわかる。なんて吉井支配人の珍しい私服姿を後ろから見ながら思うのであった。


「ここが私の研究所だ。といってもただのキッチンだがな。」


 キレイにまとめられているキッチンだ。普通と一つ違うところは棚に物凄い数の茶葉の瓶が分けられて並べてあるところだ。研究所と言うのは恐らく南さんの為にここで紅茶を調合していたのだろう。


「うわぁ。すごい数ですね!これ全部違うものなんですか?」


「どうだ。大したものだろう。種類が同じ物もあるが私が各地で集めた選りすぐりの茶葉達だ。同じ種類の物もあるが気候や作る土地によっても味や薫りが微妙に違ったりする。それを集め量を調節し、完成したのがお嬢様用の紅茶ってわけだ。今作ってやるから待っていろ。」


「はい!ちょっと作る過程に興味があるので見ててもいいですか?」


「お、おう。見られているだけだと恥ずかしいからそれなら手伝え。」


「はい!」


 吉井支配人の照れる顔は予想以上に破壊力があった。私は惚れっぽいのだろうか。しかし作っている時の顔は真剣そのものでテキパキと指示をくれるので私もそれに答える。出来上がった頃には部屋中になんとも心地よい薫りが漂っていた。

 これが出来立ての完成品。南さんからもらった水筒に入っていた紅茶もおいしかったが、出来立ての物は匂いもまた格別でお店顔負けの一品に生唾を飲む。


「さぁ出来上がりだ。向こうのテラスにこれを持っていけ。今茶菓子を持ってくる。」


 そういうと吉井支配人は奥へと去っていった。私はキッチンの外の庭に設置されている洒落たテーブルに出来上がったものを運ぶ。この庭も凄くいい場所で、これが自分の家にあったら休日に紅茶を飲みながら本を無限に読めるのに、なんて妄想を繰り広げる。


「いい匂いです。今日はお庭ですか?」


 少し待ちぼうけをくらいさすがに遅いなと思っていた矢先、吉井支配人が南さんの手を引きやって来た。


「はい。どうぞこちらへ。今日は客人も招いています。」


「え?お客様?それだったら私いないほうがいいんじゃ ... 」


 そう言いながら私のもとへと近づいてくる。


「南さん!?こ、こんにちは!」


 私は元気よく挨拶をした。


「え!?彼方さん?でも、吉井さん。なんで ... ?」


 吉井支配人は驚いている南さんを席に座らせかしこまって言う。


「申し訳ありませんお嬢様。以前からあの場所で光と会っていることは知っていました。話してはいませんでしたが私は大西様の旅館で支配人を勤めています。したがってこいつの上司に当たります。」


 南さんはポカーンとした表情だった。


「別に隠していたわけじゃないんですよ!吉井支配人が南さんと縁があるって知ったのも最近でしたし。今日来たのは紅茶を教えてもらうためで、その ... 南さん?」


「お嬢様。言わずにいたことは申し訳ないと思っています。実はこの事は大西様もご存知です。しかし私は光を信頼に足る人物と見て直接二人に話したいことがあったのでこの機会に言わせていただきます。」


 吉井支配人は南さんの様子を伺いつつ慎重に言う。南さんはまだ口を開けずに静かに聞いている。


「大西様はどうやら二人の仲をよしと思っていないようです。が、私は二人を支持します。私には責任も最終的な判断もできませんがお嬢様が幸せになる為ならばサポートさせていただきます。それをわかっていただきたくて突然ですがこのような場を設けました。」


 どうやらこの展開は偶然ではなく吉井支配人が計った必然だったらしい。しかし私はこの時始めて吉井支配人の本意を知ったような気がした。それは南さんも同じだろう。私たち二人にとってとても心強く、そして頼りになる存在だ。


「わかりました。吉井さんが味方ならすっごく心強いです。ありがと。吉井さん!」


「いえ、恐れ入ります。では私はこれで。」


「え?支配人も一緒にお茶しないんですか?せっかくおいしい紅茶を作って頂いたのに。」


「光。私はサポートをすると言ったはずだ。二人の時間は邪魔できないよ。」


 吉井支配人は私に微笑みかけ足早にその場を去ってしまった。


「行っちゃいましたね。邪魔なんか思ってないのに。ねぇ、南さん。」


 南さんの方を振り返るとムスっとした顔をしていた。


「あれ?南さん?やっぱり腑に落ちませんでした?」


「光って ... 」


 微かに漏れたようなつぶやく声が聞こえる。


「なんです?俺の名前がどうかしました?」


「吉井さん、彼方さんのこと光って呼んでた。ずいぶん親しいんですねっ!」


 南さんはプイっと顔を反らし怒ってしまった。私は始めてムキになる南さんを見て愛くるしく思えた。


「え!?そのことですか?なんというか、親しいとかじゃなくて上司だからそれは仕方ないですよ。」


 南さんの機嫌は治らないようだ。私はてっきり吉井支配人との関係を言ってなかったことに怒っているものだと思っていた。


「私も名前で呼びたいのに ... 。」


「呼んでいいですよ。むしろ呼んでください。俺も今度からは南さんのこと由比って呼ぶんで。」


「本当に?いいの?」


 由比は首を傾げながら恐る恐る聞いてくる。逆に私は名前を呼ぶ呼ばないを疑問に思ったことがないのだが人によっては気にする人もいるようだ。


「いいですよ!もちろん。むしろ俺に対して由比は気を使いすぎだと思うなー。」


「そ、それは!使いますよ!だって ... 始めてなんだもん。こんな気持ち。」


 由比は俯いて恥ずかしそうに言う。私はそんな可愛らしい由比を見ていてもたってもいられなくなった。私は席を立ち由比に近づき屈んだ。


「顔をあげて。」


 由比はなんの疑問もなく恥ずかしがって真っ赤になっている顔をあげた。そんな愛くるしい由比の頬に優しく手を被せ、私は唇にそっと口づけをする。

 どれだけ時間が経ったのかはわからないが私と由比にとってそれは悠久の時だった。お互いの存在と気持ちを確かめ合うように求める。自然と離れたときには頭がポーっとしていた。私は自分が今由比にしたことが信じられなかった。


「あ、あのっ。俺。いきなりすぎましたね!ごめんなさい!」


「へー?」


 由比はと言うとまだポケーっとしている。そんな姿がまた愛くるしく思えるのだがさすがに立て続けにキスする勇気は私にはないので欲望をグッと堪える。


「キスって気持ちいいんですね。なんか頭の中が空っぽになっちゃいました。もう一回っ!」


 てっきり私は恥ずかしがって気まずい沈黙が訪れると思っていたが予想は外れた。積極的な由比にまたドキドキしてしまう。


「ちょっ!ちょっと待って!最初にしたのは俺だけど、やっぱり人様の家でイチャイチャしすぎるのはよくないですって!そりゃ俺ももっとしたいけど ... 。」


 身を乗り出してせがんでくる由比の肩を抑えてなだめる。


「えー。別にいいのに。じゃあ私の部屋に行きます?そこなら邪魔されないですよ!」


 なんと!あまりの純粋さと恐れ知らずに驚く。積極的なのはいいがこのままの流れではあんなことやこんなことを想像してしまうのが男の性だ。さすがにそれは私の方の心の準備が必要になってくる。

( てか由比ってこんなに甘えん坊なのか。 )


「いやそれもまずいって!吉井支配人だって家にいるし大西社長にでも知られたら二つの意味で首がとびますよ。ものすごく魅力的なお誘いだけど由比とはちゃんとお付き合いしたいんだ。周りの人達にも認められるようにね。」


 由比も最初はむくれっ面をしていたが事情を話すと笑顔に戻った。


「どうしたんですか?ニコニコしちゃって。」


「嬉しいの。ううん、幸せなのかな。光にそう思ってもらえて。ちゃんと考えてくれてるのにごめんね。」


「ごめんなんて、俺は真剣なだけです。由比のこと ... その ... 幸せにしたいから。」


「二人で幸せなるんです!光もだよ?私も ... 頑張るから ... 。」


 ?

 なぜか一瞬由比が悲しそうな顔をした気がした。


「由比 ... ?どうかした?」


「え?あっ!なんでもないです。ただ一ヶ月も会えなかったから少し寂しかったなー、なんて。」


 由比は悲しい顔を隠すように笑ってみせる。


「あぁ!それはごめんなさい。でもしばらくは落ち着くと思います。だからまたあの場所で会いましょう!」


「私ね。考えたんですけど ... え~っと。ごめんなさい、やっぱりなんでもない。」


 由比の笑顔が作り笑いだということに気づき心がズキッとなる。


「 .... 。話したくなければ急がなくていいですよ。ゆっくり歩いていきましょう。」


 先程まで少しひきつったような笑顔だったが落ち着いた微笑みに戻った。


「やっぱり光は優しいね。大好きです。」


 私は突然のことに驚き照れる。


「私も頑張りたいの。そんな光の傍にいつまでもいたいから。だから、だからね、」


「失礼します。お嬢様。大西様がお呼びです。部屋まですぐに来てほしいと。」


 由比は何かを言おうとしていたが吉井支配人によって遮られる。


「おじさまが?すぐに行きます!」


 吉井支配人はある程度の距離まで近づいてきて止まる。


「ごめんね光。せっかく来てもらったのに今日はここまでみたい。次はいつ会えます?」


「いえ用があるなら仕方ないですよ。えっと次は、明後日ですかね!」


 吉井支配人は立ち上がった由比の傍まで寄り手を繋ぐ。


「じゃあまた明後日の午後にあの場所で!それじゃあ .... 行ってきます!」


「彼方。お前はここに残れ。今日は送ってやる。」


 最後に由比は満面の笑みを残し、吉井支配人に手を引かれその場を去った。

 私はというと色々中途半端にされて少しモヤモヤしていた。由比が何を言いたかったのか、何を頑張るのか。わけがわからないが明後日になれば聞く機会もある。少し楽観的になりながら冷めた紅茶を口の運ぶ。


「待たせたな彼方。行くぞ。」


 私はご馳走して頂いたお礼を告げ吉井支配人の後に続き車に乗った。


「しかしひやひやしたぞ。あのままお前がお嬢様の部屋に行こうものなら殴ってでも止めていたかもしれん。」


 !?


「え!吉井支配人。聞いてたんですか?」


「人聞きの悪い。私は千里眼で地獄耳だ。まぁ聞こえてきたと言うのが正しいだろうな。」


「どちらにしても聞いてたんじゃないですか!恥ずかしい。だから呼び方が彼方。ってなってたんですね。」


 吉井支配人は照れるように顔を背けた。


「あ、あぁ。まさかお嬢様がそこを気にしていたとは思わなかったからな。呼び方を戻そうかと。」


「いえ別にいいですよ。それが自然ってものですもの。由比だって理解してくれると思いますし。」


「そうか。それは良かった。フフフ。私も斉藤のことを言えんな。」


 私は自然体な吉井支配人の笑顔を始めて見て少しホッとした。


「全くですよ。」


 吉井支配人とも自然に会話をしながら車中穏やかな雰囲気のまま車は大西社長宅を後にした。






「なーんか暇だな。」


 いつもと変わらぬフロントの風景。シーズンが終わったからか今日のお客様は二組だ。ねぎらい休暇の後なのでチェックアウトはなく、チェックインに来るお客様を待っている。私は今日のお客様の確認とフロントでの事務作業をしているが五十嵐さんはだら~っとしている。


「ちょっと気を抜きすぎですよ。少し早いですけどお客様がお見えになったら恥ずかしいんでしゃんとしてください。」


 しかし五十嵐さんはうなだれるままだ。


「んなこといってもよー。やっぱシーズン後は気が抜けるぜ。やることもお前が先にやっちまうしよー。」


「俺は普段五十嵐さんにお世話になっているんで自分ができる範囲のことはしたいだけです。」


「全くいい子ちゃんだなお前は。助かってるけどそのおかげで俺は今こんな状態なんだよ。許してくれよ~。」


「はいはい。お客様がお越しになったらちゃんとしてくれればいいですよ。じゃあ俺在庫状況見てくるんでここお願いしますね。」


「ほーい。」


 だらだらしたまま手をヒラヒラ振っている五十嵐さんをフロントに残して私は事務所に戻る。

 事務所に入ると静川さんがパソコンの前で頬杖をついてぼーっとしていた。


「みんな気が抜けてますね~。静川さんも顔がだらしなくなってますよ。」


 私に気づいた静川さんは慌てて姿勢を直す。


「うわっ!お前いたのかよ!」


 静川さんはおねむだったのかヨダレを拭く仕草をする。


「仕事中に寝ないでくださいよ。調理人が居なくなったら機能しなくなっちゃうんで。」


 私は冗談混じりに笑いながら席についてパソコンをいじる。


「う~。お前だってこの前はぼーっとしてたくせに!」


 静川さんは身を乗り出してこちらを見ながらムスっとする。恐らく由比のことで仕事に身が入らなかった時のことを言っているのだろう。


「痛いとこつきますね。だから別に今すぐ仕事しろ!って強要してないじゃないですか。みんなのんびりしてていい職場だな。なんて思ってるだけですよ。」


「むぅ~。彼方に言いくるめられたー。ムカツク~!」


「フフフ。それより静川さん。五十嵐さんとはどうなんですか?」


 私はパソコンで備品の発注をしながら片手間に聞いた。


「は?なんだよ突然。なんで急に誠が出てくるんだよ。」


「え?だって静川さんって五十嵐さんのことが好きなんですよね?」


 絵に描いたように顔を真っ赤にする静川さん。


「はあぁ!?なんでうちが誠のこと好きなんだよ!そりゃたまに格好いいとこあるけど ... って何言わせるんだよ!!」


「いや何一人でやってるんですか。今はツッコんでくれる人いないんですから面白いこと言わないでください。」


 私は一人であたふたしている静川さんを見て笑った。本当に面白い人だ。


「うるせー!うちはなぁ、うちは誠より ... お前の ... こと ... 。」


 急にモジモジし始める静川さん。さすがの私も気づいてしまう。私は驚き、無言で自分を指差す。すると静川さんは静かに目線を反らし頷いた。


「え?えー!!逆になんですか突然。でも!誰の目から見ても、静川さんは五十嵐さんのこと ... 。」


「うるさいうるさい!私だってよくわかんないんだよ!でもお前のことが多分好きなんだよ。多分なんだよーー!」


 静川さんは顔を両手で覆いながら事務所から出ていってしまった。これは告白されたのだろうか。静川さんは自分に不都合なことがあると走り去ってしまうのでうやむやになってしまう。


「静香ちゃん顔を真っ赤にして飛び出して行ったけど何かあったの?」


 入れ替わりに長谷川さんが事務所に入ってくる。


「いや正直俺も何があったかうまく説明できないんです。静川さん台風みたいなんで。」


「静香ちゃん両手で顔を隠してたけど泣いてたんじゃないかしら。まさか彼方くんが?」


 長谷川さんはニコニコしていたが少し威圧的な言い方だった。


「いや。泣いてはないと思いますが ... その、告白?されたんですかね。なんかよくわからないまま走っていっちゃったんで。」


「あらーついに言っちゃったのね。ちゃんと自分の気持ちを確かめてからって言っていたのに。」


 長谷川さんは自分の頬に手をおきながら事情を知っているかのように言う。


「はぁ、じゃああれは告白と受け取ってしまっていいものなんですね。」


「そうねー。本人に確認してちゃんと気持ちを確かめてから答えを言った方がいいと思うな。でも答えは決まっているんでしょう?」


「はい。って、え?」


 私は悟られていることに驚いた。長谷川さんは由比の一件を知らないはずだ。


「なんとなーくだけどわかっていたわよ。女の勘ってものかしらね。」


 私はそのなんとなくにとてつもなく驚いている。見ているだけでわかるものなのだろうか。そんなことを考えているとしばらく沈黙が続く。


「ねぇ。彼方くん。一つ聞いてもいい?」


「あ、はい。なんでしょう。」


「みんなでお買い物に行ったあの時、私を誘おうとしてくれていたよね。」


「 ..... はい。」


 私はあの時長谷川さんとタイミングが会わなくてお座なりになっていたあの一件を思い出した。


「あの時。少しでも私のことを好きでいてくれた?」


「え!?」


 あまりに直接的に聞いてくるので私は戸惑った。


「 .... はい。」


「そっか。私ね。今言うのも変な気がするんだけど。好きよ。彼方くんのこと。」


 憧れていた人から好きと言われてしまった。しかし私はその気持ちに答えることはできない。


「でもね。彼方くんの心は違う人にあるって、実は少し前から気づいていたの。」


 女の勘と言うのは怖いものだ。きっと誘いを聞き出そうとしてこなくなったのもその勘のせいなのだろう。


「フフフ。変ね。でもちっとも嫌な気持ちにならなかった。まるで弟が恋愛をしているのを見守るような気分で。なぜだか分からないけど応援したくなったの。」


「長谷川さん!俺は長谷川さんに憧れていました。俺がここに来てから長谷川さんはずっと気にかけていてくれて。お姉さんのような、そんな気がして。長谷川さんがいなければ今の俺はありません。本当に感謝しています。」


 長谷川さんは微笑んだ。私が見た中で一番の優しい笑顔だった。


「私がここに勤務してから大西さんに、ここの人を家族のように思ってくれって言われたの。それがやっとわかった気がする。静華ちゃんがいて、翼ちゃんや香ちゃん。五十嵐くんとか。そして彼方くん。あなたは私に大切なことを気づかせてくれた。私はそれでとても幸せなの。」


 長谷川さんは自分の胸に手をおき両目をつむる。私の目からはいつの間にか少量の涙が流れていた。


「俺も ... 幸せです。こんな、こんな職場。ありえないですよ。信じられないですよ。」


 長谷川さんは静かに私の傍まできて、そっと額にキスをした。


「だから、これが精一杯。応援してるからね。頑張りなさい、光。」


「はい ... 。ありがとうございます。」


 しばらく心にしがらんでいて離れなかった、他人に対する警戒心がほどけていくようだった。私はここで変わっていくのだ。

 


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