一つでも信じさせてよ
協定以来だ。満は心の中でつぶやいた。東屋の屋根の下では、りんごがひとりでパウンドケーキを食べている。すでに十個以上の袋が机の上に転がっている。
「意外ね」
満が言う間にもりんごは新しい小袋に手を付けていた。ずいぶん荒んだ目をしている。
「あなたはそういうの、人と分けるタイプだと思ってたけど」
「欲しいんですか」
「そんなこと言ってないわよ」
などと言いながらも、いたずら心が湧いて一つを手に取ってみる。包装を開いたタイミングを見計らったように、りんごがぽつりと言葉を放った。
「プレゼントを人に横流しする趣味はないので」
そういうわけか。といって今更返却するつもりもなく、満はパウンドケーキを無心に咀嚼した。
「知ってる?協定を破った人って、仲人になるのよ」
「ペナルティはないって言ったじゃないですか」
「そういう例もあるってだけよ。罪滅ぼしって言うの?そういう気持ちでやるらしいわよ」
りんごは林檎ジュースのパックに刺さったストローをいじった。やけくそのような選択がいっそ気まずい。
「どうしてそんな話を?」
「だって、小山さんに復讐するつもりなんでしょ?だったら先に説明しておいた方がフェアかなって」
「復讐?」
りんごはストローに口を付けた。満は東屋の柱に体重を預けた。
「アイシャ派だった麻子って子を絶交した復讐」
ずぞぞ、と間の抜けた音がした。りんごは呆けたような顔で、紙パックの四隅を律儀に開いた。
「違いますよ。麻子を裏切ったのは私です」
「あなたは『エリオット』に投票した?」
りんごは空になった小袋を器用にねじり、リボンのように結んだ。
「違う側に投票したら裏切ったことになると、先輩は思いますか」
「ゴメン。そういうつもりで言ったんじゃないわ」
「そういうつもりだった人もいます」
リボンはどんどん増えていく。
「今でも時々思うんです。私あの時『アイシャ』に入れとけばよかったって。麻子と二人で夏帆に絶交されて……夏帆じゃなくて、麻子だったら」
りんごはついに紙箱にまで手を伸ばし、ふちをめくって分解していった。
「本当は夏帆と私の約束、とっくに終わってるんです。夏祭りの日、私はマスコットをなくしちゃったんで」
その日マスコットをなくしたのは、なくすはずだったのは、夏帆だ。
満は唐突に理解した。りんごは夏帆に復讐するために結果として協定破りをしようとしているわけではない。協定を破ることで夏帆の信頼を裏切ること自体が、りんごの目的なのだ。協定は当人同士の名誉によってのみ成り立つ。
「その麻子っていう子、今どうしてるの?」
「中学で学区がわかれました」
だったらどっちにしろ続かなかったのではないか、という話はどちらからもしなかった。
「みさは」
満は片手で触れた柱の感触を意識した。どうか倒れないで、私を支えていて。
「美咲は、あなたのことを嫌わないと思う。あなたが自分に失望していたとしても」
りんごはゴミをまとめたビニール袋の口を縛った。満が見ている間にも、結び目はますます強く引き絞られる。
「先輩は、なにか協定を破ったんですか?もしかして、それって、美咲先輩に関係のあること?」
池の水面に石を投げ込んだみたいに、ある光景が頭に浮かんだ。小学生の頃、クラスで流行したプロフィール帳。内容がすかすかの、美咲のプロフィール。いまでも満が覚えている項目はたった一つだけ、友達の条件の項目だ。
『借りた物を壊さない人』
それは協定でもなければ約束でもない。満個人に向けられた言葉ですらない。だから満が仲人になった理由とは全く関係がないのだ。満は結局、事実だけを話した。
「そういう例もあるだけって言ったでしょ。私は普通に先代から継いだの」
++++++
ゴミ箱を探しているのか、りんごの視線が動いた。そうすると少し間合いが楽になったように感じる。
「先輩、神様とか、運命とか、信じるタイプですか?」
「仲人は牧師じゃないわよ」
いつの間にかニヤニヤとした顔に切り替わったりんごが上体を傾け、おもしろい相談をするような姿勢になった。
「私、結構自分は運が良い方だって思ってるんです。くじ運とか、トラブルを避ける運とか」
「ええ」
一応はりんごのペースに乗ってやり、先を促す。
「でも、ツキっていうのは私一人の中で回ってるわけじゃない。いろんな人にツキが回るように世の中出来てるので、ここぞというときに運を使うにはコツが要るんです」
りんごからそういう話を聞くのははじめてだったし、このタイミングでそんな話をするということは、それなりの意味があってのことだろう。そう思って満の方からも顔を寄せたが、りんごは奇妙な笑みで満の後ろに視線を送った。その先を追うと、美咲が歩いてくるのが見えた。
「残念ですね。もう全部食べちゃいましたよ」
「いらないよ」
そのやりとりで、満はりんごの意図を理解した。りんごは、関係のない話がしたかったのだ。美咲に対して、あなたや夏帆と関係のある話なんてしてませんでしたよ、というアピールをしていたのだ。
美咲は空いていた椅子に座り、少し迷った様子を見せてから、それでも遠慮無く切り込んだ。
「りんごちゃん、いっそ夏帆ちゃんと代わってみる気はない?好きなんでしょ?『アイシャ』」
「伝言だって露骨すぎ。五点減点です」
りんごは一度息をつき、それからだんだん眉間の皺を深めた。
「ねえ先輩、私、先輩に選んで欲しくなんてないです」
りんごはビニール袋を突き出した。
「先輩はこれと同じです。私の機嫌を取るための貢ぎ物。私の好きなもの、夏帆が決めていいはずないのに」
美咲は押しつけられた袋の中身を見て、「ゴミじゃん」と言った。美咲なりに陽気に返そうとしたのだろうが、りんごは否定しなかった。
「だから、先輩、誰のことも嫌いになれないんなら、夏帆をもらってください」
美咲も満も返事をしないことが分かると、やがてりんごの熱も冷め、彼女は鉛のように椅子に沈み込んだ。美咲は多少ショックを受けたような表情で、ぽつりと言った。
「未来のさ、自分のことなんて、なにも約束できないよ」
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