嫌いな理由が要りますか

 森智里がいつもの調子で「お久しぶりです」と声をかけて来たとき、適切な返事の仕方を知っている者は一人も居なかった。智里がここに居ることが不思議なようにも感じるし、これまでずっとそこに居たようにも感じる。皆もそう感じているのだろうかと思いながら、牧村歩夢は確かめる気にはなれなかった。

「今日は夏帆さんに悪いお知らせがあります」

 名指しにされて慌てる小山夏帆を尻目に、智里は手に持っていたメモを一同に見せた。

「なんでも、以前から実施されているアンケートで朗読の要望が多かった本があり、私たちのグループに演じて欲しいのだとか」

 歩夢は満と顔を見合わせた。智里のメモには、『アイシャのお城』と絵本のタイトルらしき文字列が書かれている。

「そんなこと言われたってね。こんな直前で演目を変えられるわけないでしょ」

「直前だからですよ」

 湊千鶴が興味なさそうに作業を続けながら口を挟んだ。

「もともと小山さんは練習を始めたばかりじゃないですか。完成度だってお世辞にも……」

 千鶴の口を鴨川由香が塞いだ。

「ええんちゃう。どうせ、夏帆はエリオット以外やったらなんでも一緒なんやろ?要望が多いってことはさ、ほら」

 言葉を濁した由香の隣で、千鶴が口に当てられていた手をひょいとよけた。

「要望が多いということは、それだけお客さんの反応も良いということです。もらえますよ、拍手」

 ずいぶんな言いようだな、と思いながら歩夢が夏帆を見ると、案の定というか、不満げな顔をしていた。

「ぜったい嫌です」

「なんで」

「嫌いなことに理由がいりますか?」

 歩夢はつい習慣で酒匂りんごに助けを求めようとした。顔を上げようとしたりんごは、抱えていた印刷物の束を取り落とした。

「りんご?」

「りんごちゃん。私、嫌だからね」

 夏帆の声は、まるでりんごを責めれば問題が解決されると信じているように響いた。書類をかき集めていたりんごの手が止まった。その口が開くのを、歩夢は思わず止めそうになった。なんでだ?りんごはなにを言おうとしてるんだ?自分はなにを止めようとしているんだ?

 瞬間の思考が固まるよりも前に、牧村美咲の言葉がそれを中断させた。

「わたしもやめた方が良いと思うな」

 一同が美咲を見た。最初に口を開いたのは由香だった。

「なんやねん二人して。なんかヘンな噂でもあんのか」

「私も理由はないよ。ただやめた方がいいと思っただけ」

 由香は狐につままれたような顔になり、しかしあっさり矛を収めた。歩夢はりんごに駆け寄り、書類集めを手伝った。りんごは小さく、「ごめん」とつぶやいた。


 ++++++


 美咲は棚の間を歩き、りんごを見つけた。

「はい。これ、長野土産」

 そう言って突きつけてやった林檎入りのパウンドケーキを、りんごは不思議そうに見た。

「調子良いんだから。私以外の女にも、こういうの渡してるんでしょう?」

「まさか、君だけさ」

 りんごの目頭がおどけたようにすぼまる。

「それで?ちゃんとみんなに平等にあげたんですか?こんなコソコソ渡すとあやしいですよ」

「だから、りんごちゃんにだけだって」

 目の前で梱包のセロハンテープに爪をかけていたりんごが、ますます不思議そうな顔になった。

「私がりんごだから、林檎のお菓子ですか?センス悪いですよ」

「そういうことは夏帆ちゃんに言って欲しいな」

 そして、美咲は種明かしをした。長野に出かける前に夏帆から指示を受け、りんごのために土産を買うことにしたこと。その選定についても、夏帆の助言通りにしたこと。

「私の意思じゃなくてがっかりした?」

「訊いても無いことをバラしたことにドン引きしてます」

「そうなの?でも、賄賂の送り主がだれか分からないと困るでしょ?」

 りんごは呆れ顔だ。少し考えて、りんごは訊いた。

「その取引って、さっきのことと関係あります?『アイシャ』の件」

「ああ、あれ?」

 美咲は言葉を整理する間を取ってから言った。

「違うよ。でもさ、なんか可哀想じゃん。みんなで責め立てて」

 りんごは外箱の蓋を開けて、小分けの袋をしげしげと眺めた。

「先輩はエリオット派だったんですね」

「『派』って、ほかにどんな派閥があるのさ」

 りんごは意外そうな顔をした。

「夏帆から聞いたんだと思ってましたけど?」

「昔話はちょっと聞いたよ。例のカエルの絵本が好きだってだけで馬鹿にするような子が居たって」

 りんごは少し真剣な顔になり、問い詰めるような声を出した。

「その子の名前、聞きました?」

「なんていったっけ?私が知ってる人じゃないよね?」

「そういうわけじゃないです」

 りんごは蓋を閉め直し、包装紙を無為に四つ折りにした。

「麻子っていうんです。その子」

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