合わせるのが上手いから

 三原満は、首からかけた入館証の傾きを無意識にいじって調整した。名刺大のカードには、『STAFF PASS』と文字が書き込まれているはずだ。すれ違う職員がちらりとその辺りを見たように思ったが、視線はすぐに愛想の良いお辞儀に取って代わった。満も同じようにお辞儀を返す。満が歩いているのは、立花公民館の名前で括られる施設の、東館と呼ばれる棟の三階の廊下だ。

 すでに夏休みがはじまっていて、朗読会に参加するメンバーの出入りも多い。『会議室C』と掲示のある部屋の前に立つと、扉の中頃をくりぬいて取り付けられたすりガラス越しに人影が見える。満はノックをしてから扉を開き、湊千鶴と顔を合わせた。

「来たよ」

 千鶴は「おはようございます」と声を出して頷いた。ナップザックを置きながら、満はちらりと千鶴の様子を観察した。ノートパソコンで作業をしていたらしく、近くにはプリントアウトされた張り紙が散らばっている。

「道案内の矢印ね」

 朗読会場になっている小さめのホールに参加者を誘導するための張り紙をあちこちに貼り付けるのも、千鶴達に割り振られた仕事のひとつだ。

「そうですよ。今日この仕事をするのは以前から予定していた通りだと思いますが」

「うん、そうよね」

 満は千鶴をなだめるように片手を開いてふった。背後でノブの回る音がした。

「来たよ」

 扉を開けて入って来たのは鴨川由香だった。満のモノマネのように、リュックサックを机に置く。

「今日、何するん」

「予定通りです」

 ふーん、と諦めを含んだ声を出してから、由香は満に向き直った。

「なあ、満。どうなっとったけ、予定」

「これ?」

 満が曖昧にプリントアウトを指さすと、由香は千鶴を指さした。

「それはこの人の予定やろ」

 他人の予定は覚えているくせに、どうして自分の予定だけぽっかり忘れているのか。突っ込む言葉を心にしまい込み、満は記憶を探った。千鶴の予定は案内の張り紙を作ること、満の予定は照明の調整。由香の予定はどうなっていたっけ。

 由香は勝ち気な微笑みのまま小首をかしげている。あなたの予定なんてこっちが把握しているわけない。簡単な言葉を口に出しあぐねているうちに、千鶴の声が割り込んだ。

「あ、ごめん。予定通りじゃなかった」

 由香はあっさり満を解放し、千鶴を見た。

「朗読会への小山さんの参加を申請したので、鴨川さんには書類の修正をまとめて欲しいです」

「うっし」

 由香は大げさに手を打ち合わせて気合いを入れた。千鶴はにこりともしない。満は荷物を整理する手を動かしながら空いた頭でぼんやり考えた。『あ、ごめん』とは、千鶴にしては無防備な言葉遣いである。信頼している美咲に対してさえ、普段はもうすこし改まった喋り方をする。

「というわけで、満もよろしくな」

 顔を上げると、由香が右手を出していた。握り返すと、顔を覗き込むように首をかしげる。

「別に、満って呼んでもええよな?」

「いいわよ」

 妙なことを訊くものだ。初対面でもあるまいし。由香は一度納得顔になったものの、そのまま手をつなぎ続けて、言った。

「満、あたしの名前ちゃんと知っとる?」

 意図をはかりかねながら、満は答えた。

「鴨川由香さんでしょ」


 ++++++


 うたた寝から覚めた美咲は、自分が自動車の後部座席にいることを思い出した。運転席には父、助手席には母、後部座席の左には歩夢、右側が美咲。長年慣れ親しんだ定位置だ。通奏低音じみた振動を感じながら美咲はぼんやりと外を見た。どこかの高架の下を走っている。

「お母さん」

「なに?」

 助手席から母が返事をするのが聞こえる。背中の下で制服のブラウスがしわになり、妙に心地悪い。

「今どの辺?」

「どの辺というか……。式場まではあと二十分くらいかな」

 『式場』というのは結婚式場のことである。母方の従兄弟である大原良太の結婚式が、そこで行われるのだ。美咲はまだ気だるい感覚に身を任せながら、少しだけ窓に顔を寄せた。高架下には駐車場があり、その向こうをパチンコ店と石材店が流れた。

「ねえお母さん、私、車でここに来たことある?」

「んー?」相槌を打ってから、母は父に水を向けた。「お父さんどうだったっけ」

「一回来たと思うけど。震災があった年だから、美咲は五歳くらいじゃない?でも、見た目はかなり変わってるはずだよ。これ、新しい国道だから」

 だって、というように振り返った母が視線を向けた。美咲も特に追求はしなかった。美咲の体ごしに景色を見ていた歩夢が、やはり興味もなさそうにつぶやいた。

「こういう道ってどこにでもあるから、多分記憶が混ざってるんじゃない?」

 歩夢は前髪をつついて妙な表情になった。整髪料やらなにやらを駆使した涙ぐましい努力によって、その前髪はいまはしっかり額にかかっている。


 親戚の家を朝早く出たが、慌ただしく挨拶やら式のスケジュールやらをこなすうち、昼になり、昼過ぎになった。もっとも美咲のやったことといえば、黙々と出される料理を口に運ぶことくらいだったが。主役の片割れである大原良太は名目上美咲達にとっての従兄弟ではあるのだが、東京に住む美咲たち家族とも大分に住む祖父母とも離れた場所に住んでいるため、滅多に会うことはない。

 やがて写真撮影の時間が始まり、立ち上がった列席者達が談笑をはじめた。式が始まる前にもそれぞれが挨拶を交わしていたが、式の間新郎新婦と話す機会は案外貴重であるので、それなりに盛り上がっている。叔母と母が自分のことを話題にしていることに気付いた美咲は、慌ててそちらに意識を戻した。

「みさちゃん、良太と話が合ったものね。新婦さんに嫉妬されないようにね」

 何の話か完全に把握できないまま曖昧に相槌を打つと、二人はまた話を続けた。

「じゃあ、まだ電車が好きなんですか?」

「部屋のなか走らせたりはしなくなったけど、本当のとこはどうかわかんないわよ」

 座ったままくすぐったそうに成り行きを見ていた良太は、お義理のように小さくした声で美咲にしゃべりかけた。

「いかにもって感じだろ?」

「え、なに?」

「いかにも、親戚のおばちゃんって感じだろ?小さい頃ちょっと興味を持ったからって、美咲ちゃんもずっと、鉄道模型とかそういうののこと好きなんだと思い込んでるんだよ」

「そうなんだ」

 そこまで話が進むと、美咲にも少しずつ記憶が戻ってきた。小さい頃に訳も分からず連れて行かれた家の記憶。和室を一つ占領するおもちゃの電車のレール。借りたおもちゃで危なっかしく遊ぶ自分と歩夢をむっつりと見る少年。他のいろいろな断片の記憶と一緒に整理されずに転がっていたが、あれは良太の家での記憶だったのだ。

「美咲ちゃん、話を合わせるのがうまいからさ。気をつけろよ。あの手の人間の前でそんなことばっかやってると、本当に好きなんだってすぐ勘違いされるぜ?」

 良太にとって自分がどういう人間に見えているのかいまいちピンとこないまま、美咲は「そう?」とだけ答えた。

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