友情の代わりに

 鼻先に冷えたガラス瓶を突きつけてやると、りんごは逃げるように首をすくめた。彼女がそれを受け取ったのを確認した由香は、自分の分のオレンジジュースに口を付けた。由香はなかば強引に出店にりんごを引っ張っていき、瓶入りのサイダーを押しつけたのだ。

「あんた、冷めたやつと思っとったけど、案外優しいねんな」

 由香はすでに、夏帆の落とし物の件をりんごから聞き出している。

「先輩は、優しい人間の方が、いいと思います?」

 炭酸の弾ける音が由香を不安にさせた。千鶴に拒絶された分のお節介欲をりんごにぶつけているような自覚が、一応は由香の中にもあった。

「優しくない人間よりはええやろ。優しい人間が増えれば、世界に優しいことが増えるわけやし」

「楽観的ですね。優しい人間の方が一方的に不利だとは思わないんですか」

「そういうのよく聞くけども、わからんのよな。親切にしろ意地悪にしろ、そんな正確な勘定でやり取りされるもんとちがうやろ」

 もにもにとサイダーを口の中で転がしていたりんごは、それを飲み込むと小銭を突き出した。

「なによこれ」

「代金ですよ」

 りんごは小銭を握っているのとは反対の手で空の瓶を振った。

「そんな細かいこと気にすなや」

「お祭りでの数百円が小さいことなもんですか」

「あたしらいったい何歳よ」

 ポン、と音がして、由香はそこに千鶴がいることを思い出した。少し猫背の姿勢でラムネの泡が吹き出すのをただ見つめている千鶴が何を考えているのかは、相変わらず一向に分からない。千鶴は三分の一ほどを地面に飲ませてから、やっとラムネに口を付けた。

「数百円を気にするような人間が、こんな足下見た金額のもの買えませんよ」

 りんごと由香は互いの視線を交わした。由香はにやりと笑って見せたが、りんごは乗らなかった。

 そんなに借りを作るのが怖いのか、訊いてみたいとは思ったが、あっさり「そうだ」と返されてしまいそうで、結局訊けなかった。


 ++++++


 『思い出』を語らせると夏帆はやや饒舌で、ともすれば感情的過ぎるくらいに、熱意を込めて話し始めた。

「私、小さい頃からエリオットの絵本が好きで。でも、子供っぽいって思うでしょう。先輩はそう思わないかもしれないですけど、そう思う人っていっぱいいるんです。私が友達と思ってた人のなかにもやっぱりそういう人がいて」

 美咲の顔の前を、しゃぼん玉が横切った。すぐ近くで、不機嫌にしゃぼん液をかき混ぜる歩夢の姿が見える。傍らの満がちらりと美咲を見た。

「麻子っていう友達がいたんですけど、その子は私を裏切った」

 夏帆は、美咲の渡したカエルのマスコットを両手に握り込んでおでこに当てて、祈るようなポーズをとった。それからハッとしたように顔をあげて、言った。

「癖なんです。落としちゃった人形、私にとってはカミサマみたいなお守りみたいな。何かあるとこうするんです。おそろいのマスコットだから。私とりんごちゃんがずっと友達で居るっていう、約束の証だから」

「そっか。二人にとっては、協定の証みたいなものだったんだ」

 美咲の言葉に、夏帆は薄く微笑んだ。

「私、ちっちゃい頃から引っ込み思案で、自分の好きなもの守れなくて。でも、りんごちゃんは違う。いつも正義で、正しくて、ちっぽけな私の気持ちを、守ってくれるんです。今だってそう。あんな古い人形、探してくれるのはりんごちゃんだけ」

 歩夢の吹き出していた大きなしゃぼん玉が、ぱちんと割れた。歩夢の顔にかかったしゃぼん液を、満がハンカチで拭き取っていた。


 ++++++


 結局りんごとは途中で別れて、由香と千鶴は二人きりに戻った。花火の開始が告げられると、客足は広場へ向かうようになり、出店の並ぶ目抜き通りは多少まばらになった。どちらからともなく、二人は鳥居に向かって歩いていた。

「なあ、あんたのオススメはどこなん?出店とか」

 沈黙に耐えられなくなったのか、自分でも分からなかったが、由香はぽつりと言葉をこぼした。千鶴はずっと足下に視線を向けている。

「私から一言アドバイスしますと、こういうとき一番のお気に入りは当てにしない方がいいですよ」

「なんで?」

 千鶴はペロリと自分の舌を出して、指でさして見せた。

「その人の舌に合いすぎているからです。三番目とか四番目の方が、もっと普通の尺度で褒められるものが出て来ると思いますよ」

 由香はアイスキャンディーを噛みながら、回答を選んだ。

「なんか分かるわ、そういうの」

 千鶴は失望したように、瞬きの前後に寂しい顔を見せた。

「ちなみに私が一番好きなのは焼きそばです」

 からからと千鶴の下駄の音が必要以上に大きく響く。オレンジジュースを飲み干したばかりなのになんだか喉が渇いたように感じる。

「だからここで分かれましょう」

「話のつながりが分かれへんけど」

「焼きそばを食べると、歯に青のりがつきますよね。だから、花火が始まってみんなが上を向くようになったら、焼きそばを食べて、そこでバイバイ」

 千鶴が顔の横で両手をひらひらと振って見せた。背後で花火の音がして、妙にあどけなく見える千鶴の顔を照らし出した。自分は千鶴に白い歯でいて欲しいなんて思っていない。

 往来のど真ん中で立ち止まった二人は邪魔な存在に違いなかったが、人混みに慣れた人々は二人を避けて流れ続けた。由香は千鶴の二の腕をつかんで、道の脇に引っ張ろうとして、唐突にその意欲をなくした。中途半端に腕をつかむ掌を握りこむことも離すことも出来ず、無力をさらして千鶴にすがりつく。

「やっぱりこないだの協定もどき、なかったことにしてくれ」

 由香は、提灯の明かりに照らされて堅く光る自分の声を聞いた。

「あたしのこと、許す必要ない。なんか知らんけど、あんたを怒らせたこと、ずっと恨んでくれていい。せやから、今後一切、あたしのこと、友達だとか友人だとか、そういう風に呼ばんとってくれ」

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