嘉阮

翌日早朝に京を発った宵君一行は、馬と牛車で一刻半かけて隣国・嘉阮かげんの帝都に到着した。沖去京より数段広大で活気溢れる街を、幻驢芭の家紋の牛車が緩慢に拓いて行く様を、道の端に傅く人々は恐る恐る眺めた。


「隣の京のお公家様じゃと」


「陛下の近衛隊を負かした恐ろしい軍師だ」


「我らを隷属させんと参られたんじゃ」


ひそひそと伏したまま立てられる声に、青桐は眉を潜めた。――此の者達は、宵殿を鬼か何かと見誤る愚か者共か。本日は、先の戦での此の国の皇帝の咎無き由、代わりに我が京と隣接する野っ原とその領域の水路のみ召し上げる由を伝えに、こうして参ったというのに。まぁ、その野っ原というのも、京がそのまま二倍になるほど広大な土地ではあるが。


「よくぞ参られた。陛下がお待ちです、此方へ」


宮殿の門扉の前で牛車を降り、姿を現した宵君を見て、門番は唖然としたようだったが、すぐに怒りを顕にした。


「隣国の摂政殿、無礼であるぞ。これより其方が参られるは陛下の御前、そのように陶器の面で顔を隠されるとは誠意も敬意も無しと捉えまする」


「……これは如何したものか、貴国の皇帝陛下は門番に碌な挨拶の仕方も教えぬのか?」


藤色の袖を払い、白い面の紐に指を掛けた宵君の声色も、此方もまた不機嫌そのものである。宵君が面を取り去り、遠野の手に預けると、深く澄んだ瞳と白く濁った瞳が同時に門番を射抜いた。


「貴国は戦に負けた。斯様な態度は少しばかり倨傲きょごうではないか? 我が御門が誠意も敬意も払う必要なし。貴国こそ順従の意を示すべきであろう」


「そっ……それは、しかし」


「しかしもカモシカもあるか。さっさと通せ」


「ぐぅ、御意……」


宵君の醜い形相に慄いたか、門番は不承不承口を噤んだ。その脇を通り抜け、宵君は門を潜り、青桐と遠野の長男・繁國も立ち尽くす門番に一礼しそれに続く。官僚や女房どもの旋毛つむじが並ぶ石畳を抜けると、幾分か位の高そうな初老の男が宵君にずいと近寄ってきた。


「"今宵の君"! よくぞ参られた、貴殿の顔を見るのを楽しみにしておったぞ」


馴れ馴れしく肩に触れ、品のない口を利くこの男は、嘉阮の右大臣であり、宵君とも旧知の仲である。宵君も気の置けない彼との浅からぬ縁に免じ、この男の無礼に目を瞑っているらしい。


「まだ私をそのように呼ぶか……あの頃は、ほら、若気の至りと申すであろう……今や私も妻ある身、もうかの好色漢の渾名あだなで呼ぶのはよしてくれぬか」


「何の、その妻というのも一人や二人ではなかろうに! 白爪殿の親類の娘御から、東の西の南の北の国のお公家の娘御、果ては遊郭上がりの傾国傾城……みぃんな貴殿のお膝に侍っておるわ! 此の辺りの別嬪を、貴殿と暁光御前で全部娶ってしまった! ワシも別嬪の嫁が欲しい!」


宵君は、右大臣が眉間に袖を当て泣き真似をする姿に、随分と賑やかな御仁よ、と青桐たちを振り返った。呆れ返って目を逸らす遠野に苦笑し、紫紺の巾着を握らせる。


「是を持って、明頼の土産でも見てくるといい。これより先は其方の戦場ではない故」


「……しかし、これは上様の……」


「良い、私の弟への土産を頼んでいるのだ。買い物にはそれで十分であろう? あ、私の面は返せ」


上機嫌に笑む宵君に一礼し、遠野は元来た道を引き返した。暫しそれを、さながら子を送り出すような面持ちで見守った後、宵君は右大臣に向きなおり、首を傾げる。


「さて、何故なにゆえ女が私の許へ来るか分かるか?」


「如何に顔が爛れようが、元が秀麗であるからだな。ふん、全く食えぬ男よ、顔の半分失せたくらいでは、貴殿の魔性はびくともせぬのじゃ」


「おや、思いがけずお褒めに与ってしもうた。嬉しいのう。……なれど、そればかりではあるまいよ、右大臣殿」


宵君が顔を寄せれば、それだけ右大臣が後退る。酷く困惑した表情に、宵君は楽しげである。青桐はまた始まった、と溜息を封じながら、どこか微笑ましさも否めないことに気づいて、私もすっかり毒されてしまっているな、と苦笑いを浮かべた。


「其方もその肌で実感してみれば、女の気心が知れるのではないか?」


「ひぇっ」


ふか殿、その辺りで止して差し上げましょう。右大臣殿は鮫殿が男色も嗜まれることをご存じありますまいに……」


「なんだ、鯨。妬いておるのか?」


「またお戯れを」


青桐は助け船を出したつもりであったが、宵君によって右大臣を脅かす文句に上手く利用される始末。右大臣は堪らず宵君の前から飛び退き、急ぎ陛下の許へ! と逃げ去ってしまった。


「はて、私は何ぞ失礼をしたかな」


「……」

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