第6話 明日が来た
起きる。
明の看病をしていたのだと思い出し、らしくもないことをした。
そのつけは寝姿勢が悪かったことにより骨の軋みだ。
ゴキリゴキリと関節を鳴らし、痛みが肥大しなかったことを確認して、時計を見る。
午前六時を数えていた。自分の睡眠時間を削ってまで、他人を、明の言葉を借りれば娘を、尽くすとは、まるで善人のようだ。
吐き気がする。風邪がうつったか、それはまぁよろしくはない、だが、明のせいにしない。
「行動の責任を他人に押し付けるのはクズだ」
ぼくは善人じゃない。
いい人なんかじゃ、ない。
ベッドを見て、明は眠っていた。
起きたのか、と直感的に判断した。タオルがないことをみて考えは補強された。
夢か現か寝ているときに妙にうるささがあったことが付け加えられる。
寝室を出ていき、狭いキッチンに行く。
きれいに片付けられ、調理器具は整頓され、流しに置きっぱなしになっていた食器は帰る場所に行き、サランラップにくるまれた皿の中には朝食が用意されていた。
契約の一回目を果たしたわけだ。
トーストコーヒーといったぼくの朝食は、ご飯に目玉焼き、味噌汁、焼き魚とグレードが上がった。
朝食を取りながら、ぼくは今日のプランを考えていた。明のせいにはできないが、看病につきっきりでぼくのことを忘れていた。
自殺を考え、面接のアポイントメントはまるでとっていなかった。しかし、都合がいいのか悪いのか、家庭教師のバイトはある。
それが十七時から一時間ほどあるし、大学に提出する書類もある、まだ作成していないから、それを朝のうちに作って提出する、それは午前は潰れる。
午後からどうしようか。
同居人のために買い出しに行くか、とも思ったが、頭を振るって改める。
「電話祭りだな」
今日は土曜日だから会社に人がいるかは異なってくるが、いたらいたで土曜日も仕事という労働条件になってくる。まぁ、聞いてみてだな。
「うまいな」
味噌汁を食べたのは随分と久しぶりだ、進学後実家に帰った数は両手の指が折りきらないくらいに少ない。味噌汁を作る母親がいたことを、狭くなっていた視界に入る。
そもそも誰かの手料理を食べるという機会が殆どなかった。
「あったかいな」
温かい、事実を口に出す。
「おはよう――パパ」
言葉を聞かれたのではないか、とどきりと心臓が跳ねる気がした。
つとめて冷静に。
「おはよう」
パパを訂正する余裕がなかったのを、挨拶を返してから気づく。
不機嫌な顔が浮かぶ。
「ご飯、おいしくない?」
自信なさそうに明は尋ねる。
「その問はずるい」
美味しいよ、と返す。
言葉に明は胸を張るのだと思った。
ぼくの予想に反して明は胸をなでおろした。
「よかった」
気の抜けた笑顔だ。
ぼくは、見とれた。
視線に気がついて、明がまた笑い返した。
見つめられたことに照れる笑いだ。
「らしく、ないな」
調子に乗るのだと思った、という言葉に肩肘張らず明は返す。
「大切な人に喜んでもらいたいのに、自信過剰になれないよ、です、パパ」
言葉の途中で説教っぽくなったと感じたのだろう。かしこまっていった明は縮こまっていた。
ずいぶんと、いう。
「しおらしいな」
もっと図々しいものかと思っていたよ、思っていない言葉をいう。
いじける顔が浮かぶ。随分とかわいらしい。
自称娘は対面の椅子に座った。
背もたれを手の置き場にしてニマニマとしながらぼくの朝食を眺めていた。
「やりにくいな」
食いにくいことこの上ない、ぼくは観察するのは好きだが、見世物のように見られるのには慣れていない。
「パパから見たら、わたしってズーズーしいみたいだしー」
図々しくていいんだよね? と、上目遣いに顔を覗き込まれる。
いたずらしているときに、自分が不意を疲れることを予想していないしありえない、と思っている顔は、少し腹が立つ。
明にとっては父であったとしても、俺にはまだ関係がない関係なのだ。
少女の顎に指を伸ばす。
「ひゃっ」
明の目は猫のように変える。しかし、危機感のない顔だ。
「小うるさい口に、キスでもしてやろうか?」
唇に、指の腹を当てる。
なぞる、柔らかで潤いのある感触が心地よい。
震えがある。
少し冗談が過ぎたかもしれない。
しかし、本当にくるくると動き回る顔だ。
「明も演劇でもやっているのか?」
正直、灯という女性が演劇をやっているにしては表情に乏しいように見えた。
明は表情が豊かで見ていて小気味好い。
確かに、明と灯はよくにている。しかし、親子といわれて納得ができないのは時間の流れがすれ違っている、というより別の要因があるように思える。
仮に、親戚だったり双子というネタバラシがあったとしても不思議ではない。
騙しにかかっているというのは、すぐ思い浮かぶストーリーだ。
しかし、なんのために、という動機がわからない。
最初、ぼくは美人局を予想したが、話の持ってき方が金を要求する方向だったり、男の影というものが見えない。時間にすれば一日にも満たないが、密度の濃い時間の中で、明の人間性というものを掴みかけていた。
「う、うん」
と明はまた縮こまって答えた。
「でも、ママに勝てないよ」
「そうか? 今のぼくからすれば灯さんが大女優になれる未来が想像できない」
明のほうが面白いぞ、と女の子からすれば褒めているか怪しい言葉を投げる。
一瞬止まる。
明が何かを口の中でいったような気がしたが、ぼくは続ける。
「芸事に勝ち負けはないんじゃないか? ぼくなんかは演劇の経験なんて、幼稚園の芝居でタヌキの役回りをしたことしかないけど、狐の役をした子からすればタヌキが羨ましかった、なんて聞いたことがある」
明には明の良さがある、ここは断言する。
「もちろん、ぼくが気づいていない灯さんの良さが明には持っているのかもしれないが」
「ねぇ、パパ」
パパのいうとおりだよ、明は笑う。
その笑顔が、とても打ちひしがれた、乾き、大きな絶望を見たような、顔が印象的だった。
「ママのこともっと知ろ?」
言葉通りに受け取ればキューピッドをしている。
声音を聞けば苦しさをひた隠しにしているように聞こえた。
「観劇デートってこの時代にはあるんだよね?」
未来ではないのか、という問いかけはしない。
自称娘は、ヒラヒラとチケット二枚を見せてぼくに誘いをかけた。
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