11

「起きたなら、自分の部屋でちゃんと寝なよ」


 ソファに座り、項垂れる憲次の背中に絵里が諭す口調で話しかける。


 声のしたキッチンへ振り向き、ぼんやりと娘を見つめた。


 風呂場へ向かう途中らしく、タオルや寝間着を片手に抱えて水を飲んでいる。


「……ああ、そうするよ」


 憲次は立ち上がり、自身もキッチンへ向かう。


 冷蔵庫を開け、缶ビールを見るも手に取らずに閉める。


 酒で忘れられるものでは無い事は、憲次自身良く分かっていた。


 絵里の横に立ち、コップに水を注いで一気に飲み干す。


 二人は並んだまま、言葉も交わさずリビングの方へ視線を向けている。


「あのさ」


 沈黙を破ったのは、意外にも絵里であった。


「ん?」


「何かあったの?」


「いや、特には。どうした?」


 絵里は明らかに父親の態度に違和感を覚えたが、テレビに目を向けて追及を止めた。


 画面に映るニュースは、憲次が数時間前にいた公園を映している。


 『変死事件の現場にて爆発音』と、テロップが表示されている。


 事件の概要が、ナレーションで説明され始めた。


 海浜公園にて、昨夜緊急防護システムが突如発生。


 公園内はバリケードで完全閉鎖され、避難勧告の音声が周辺に響き渡る異常事態に近隣住民は騒然としていた。


 システム作動数分後には警察も到着し、内部に残された人達の避難等の対応に入り安全はすぐに確認されシステムは解除されたのであった。


 原因は何者かによる大量の爆竹を鳴らした事によるものであり、早朝には変死体も発見された事もあって愉快犯による犯行として警視庁は捜査を開始する方針だ――


 と、淡々と語られた顛末は憲次の知るものとは異なっていた。


『悪質ないたずらですね』


『ええ。しかし緊急防護システムがちゃんと作動する事が判明したのは不幸中の幸いでしたね』


 コメンテーターの的外れな意見を聞きながら、憲次は三雲らが報道規制を敷く事すら可能だという事実に驚いていた。


「ここ、行ってたの?」


 不意に、絵里が声を掛ける。


「ん? ああ……調べものをしに行ったら巻き込まれたんだ」 


「いたずらで良かったね」


「良くは無いぞ。お蔭で酷い目に遭った」


 横で普段通り笑う憲次に、絵里が鋭い視線を向ける。


「これ、いたずらじゃなかったらどうしてた?」


「そうだなぁ……爆発した場所に行って巻き込まれた人はいないか確認して、それから他に爆発物が無いかも確認しないと――」


「そういう事じゃなくて」


 絵里が遮り、続ける。


「いつまで、続ける気なの」


 言葉の意味はすぐに理解した。


 憲次は絵里の横から離れ、リビングへ向かおうと歩き出す。


「悪いけど、まだ仕事を辞めるつもりは無いんだ」


「っ!」


 絵里が何か言おうとしたが、口を噤んで黙った。


 静かな部屋に、妙に明るいCMの音楽だけがテレビから響いている。


「……とにかく、お母さんが悲しむ様なことだけは、やめて」


 それだけを告げ、キッチンから絵里が出ていく。


 憲次は振り返る事も出来ず、ただ棚に飾られた妻の写真を見つめていた。



 翌朝、家に憲次の姿は無かった。


 リビングに向かった絵里の目に、テーブルに置かれた書置きと剥き出しの一万円が映る。


『冷蔵庫、水だけだったぞ。これで何か買ってくるといい』


 それくらい、起こして声を掛けてくれれば――とは思ったが、自分も似た様なものだなと絵里は自嘲気味に笑いながら札を手にした。


 もう一方の手に握っていたスマートフォンが着信音を鳴らす。『香苗』の文字を見て、通話ボタンを押す。


「もしもし」


『お、今日も早いね』


「そっちもね。どうしたの?」


『いや、あたしら集合時間決めてなかったっしょ』


「あ。ほんとだ……」


 思い出し、時計を確認する。


 現在は八時であった。


「どうする?」


『じゃあ十一時とか? それくらいなら朝飯食べて―、準備して―って感じでも大丈夫そうだし』


「何かアバウト……でも、それでいいよ」


『決まり! じゃおやすみー』


「いや、二度寝して遅れないでよ?」


『大丈夫、しっかり起きるからー』


 眠たそうな声に少々不安を覚えつつ、絵里は「じゃあ」と告げ通話を切る。


 テーブルにスマートフォンを置き、キッチンに設置されたカゴからシリアルバーを取り出すも、自身が片手に掴んでいる札に目を移した。


 しばらく考え、バーをカゴに戻しテーブルに札を置いて二階へ向かった。



 展示会まで数時間という中、工藤は五十嵐に寄りラフのまま放置していた作品に手を着けていた。


 木々に様々な色を重ね、表皮を作り出していく。


 私服の上からレインコートを羽織り、絵具が跳ねる等の雑念は排除した上で作品に没頭している。


「おい、時間大丈夫か?」


 岩見が後ろから声を掛け、スマートフォンの画面を工藤の眼前に持ってくる。


 『10:00』と画面に映る数字を見つめ、工藤は「おっと」と声を上げ立ち上がった。


「ここまでかぁ」


 洗面台へ向かい、筆とパレットを洗い始める。


「今日初日だろ? 遅れるなよ」


「分かってますよ。でも筆が乗り始めたんで、つい」


 工藤は名残惜しそうに乾き始めていた絵具を削ぎ落し、パレットを念入りに洗う。


「確かに。いいスタートを切ってるみたいだな」


 岩見は絵を眺め、小さく頷いた。


「でしょ?」


 洗い終えた筆とパレットを手に、工藤が戻る。


 レインコートを脱ぎ、畳みながら絵の確認をしている。


 白いカッターシャツと紺のズボンという出で立ちが、相変わらず憎らしい程爽やかなものだ。と、岩見は笑った。


「今回のは早く描き上げたいんですよ。しっかり考えたんで」


 絵の中心に立つ女性を見据え、工藤は強い意志を込めて告げた。



 海浜公園前駅は平日の朝とは違い、ショッピングモールへ向かう人々で混雑していた。


 家族連れやカップルの楽し気な姿は、普段とは違った雰囲気を街に纏わせている。


 ゆったりとした空気を感じながら、絵里は駅から少し離れた街路樹を囲む形で設置されたベンチに座って改札口を眺めていた。


 買ってきたサンドイッチを頬張り、まともな朝食を久々に摂っている。


 片手で食べつつ、もう一方で膝に乗せた本のページを捲る。


 器用な手さばきでしばらく読み進めていると、前を親子連れが通りすぎていく。


 両親に手を引かれて楽し気に笑う少女の姿を、絵里はただじっと見つめていた。


 意識を前方に取られたまま、横に置いていた缶の紅茶に手を伸ばす。


「あっ、危ないですよ前向いたままじゃ」


 声の主は駆け寄り、絵里の手より先に缶を取る。


 そのまま前に立ち、差し出す。


「どうぞ」


「ありがとう、メガネ君」


 絵里は差し出された缶を受け取り、多々良を見上げた。


 相変わらず、困った様な表情で笑みを浮かべて立っている。



 憲次は時間を持て余し、途方に暮れていた。


 署内で目覚め、すぐさま捜査に向かう生活を長く続け過ぎたのか、最早食事以外に空いた時間を潰す方法が考え付かないのだ。


 こんな体たらくでは、絵里どころか妻に会わす顔も無い――憲次は情けなさから苦笑するしかなかった。


 気を逸らす事も兼ねて、映画でも久々に観てみるかと調べ始めた時であった。


 スマートフォンが震え、遠藤からの着信を知らせる。


「どうした」


『どうもこうもねぇよ、お前のお友達がウチに駆け込んできたぞ』


 青白い顔の『情報屋』の事であった。


 報復を恐れ、本庁へ駆けこみ保護を求めた青年はあっさりと憲次の名を出したという。


「自分は刑事と繋がりがある。情報も持っている、ってよ」


「流石に大人しく家に籠りはしなかったか」


 運良く、対応していた人物が憲次と遠藤の友人だった事で青年はすぐさま組対へ引き取られ事なきを得た。


  現在は遠藤の部下らが、薬物の流通ルート等の情報を『丁寧に』引き出していると、遠藤は続けた。


『今回は良かったが、そう何度も助けられんぞ。お前がまだ這いずり回ってる事、上が知ったらいい訳出来ないからな』


「以後気を付けるよ。これで、こないだの先行捜査の借りはチャラだな」


『いや、まだまだ借りを作ってもらうぞ……捜査に進展があった』


「時間ならある、直接聞くよ。今どこだ?」


 憲次は映画館へ向かっていた足を、すぐさま駅へ翻した。

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