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 五十嵐芸術学院の美術室は一階にある。


 長年様々な絵画を生み出したその床は、こぼした絵具の跡だらけであった。


 窓際にはカンバスや画材が置かれた棚がずらりと並んでいる。


 筆や絵具を洗う洗面台は、染みの様に乾いた油絵具がポツポツと飛び散っている。


 多くの生徒が自らの作品を進めていく中、工藤の手は止まっていた。


 カンバスにはジェッソで下地が作られ、その上に木炭でラフを描いている。


 しかし、思い通りには進んでいないらしい。


 木炭で描かれた、髪の長い女性は簡略化された森に囲まれている。


「悪くない下書きだと思うんですけど」


 背の低い少女が、覗き込む形で後ろから近づく。


 大人びた顔立ちと腰まで伸びた髪が、他の生徒とは違う独特な雰囲気を醸して出している。


「春輝か。何か足りないんだよ、これ」


 田頭春輝は工藤の返答を聞いても、あまりピンと来ていない様子で小首を傾げた。


「そうですか? 色が入ればもっと綺麗だと思うのですが」


 そう告げられた後でも、工藤の手は進まない。


「む……」


「ま、そう簡単にはいかないって」


 小夏が絵の横に立ち、眺めながら会話に入る。


「感覚派のお姉ちゃんがそれ言う?」


 少し離れた場所から、夏生がツッコミを入れる。


 痛い所を突かれたのか、夏生が後方を睨む。


 姉妹のやり取りを見ながら春輝が笑っているが、話題の中心である工藤自身は意に介さずただラフを眺めている。 


 外はオレンジに染まりつつあった。



 五十嵐芸術学院の校門を出て、憲次は立ち止まる。


 大きくため息を吐いた後、得た情報を整理していく。


 失踪した教師の名は水島秋乃、二十五歳の新米教師である。


 五十嵐の卒業生で、実習の時点で母校を選ぶほどに愛着を持っていたらしい。


 とても真面目で生徒からの人望も厚い人物らしく、トラブルに巻き込まれているなんて全く考えられないと誰も彼もがそう言った。


 少ない情報を纏める中、一つだけはっきりと分かっている事が頭に浮かぶ。


 憲次より先に出向き、捜査を終えた後に『自分以外の刑事が行方不明の件で訪ねて来るが、お答えしたと伝えればいい』と言って去った奴のせいで、聞き込みは想像以上に難航した事である。


 頭の整理を終えて、既に暗くなってきた空を見上げて再びため息をついた。


 殴り書きに近いメモに目を向ける。


 校内のアーカイブからの情報で、水島の現住所を得ている。


「水島秋乃の部屋に、手がかりはありませんよ」


 地図を確認して歩き出した憲次の背に、三雲が声を掛ける。


「信じられないなら行って確認を。鍵を貸して貰えるかは知りませんが」


 三雲が背に話しかけながら、近づいていく。


「いい加減、諦めて頂けませんか。これは貴方が関わっていい事件じゃない」


 三雲が言い終わるかどうかの所で、憲次が振り返って頭を掴んで引き寄せる。


「諦めるも何も、これは俺の事件だ。この街で起きた事件を解決するのが、俺の仕事だからな」


 獣じみた憲次の視線も意に介さず、三雲は手を払う。


 払われた憲次だが、ただ真っ直ぐ三雲を見ている。


 三雲は迷いの籠った視線を向けた後、すぐに背を向けた。


「俺は、忠告しましたよ」


「ああ。忠告助かるよ」


 憲次の挑発を受けながら、三雲は振り返らず歩き始める。


 しばらく歩いた所で、三雲は肩を掴まれる。


 振り返ると、満面の笑みで憲次が立っていた。


「ま、暗い話はここまでにしてよ、久々なんだからちょっと付き合えよ」


 先程までの人間とは別人みたいに、笑顔で話しかける憲次を怪訝な表情で見つめはしたが、三雲は間を空けて頷いた。



 空は暗くなる一方、工藤の手は未だ進んではいなかった。


 夕方から何度か手直しをしたものの、理想の形には至らなかったのだ。


 木炭を拭ったパンをゴミ箱に投げ入れ、項垂れる。


「うーん」


「唸ってんな」


 声を掛け、男が工藤の背後に立つ。


 背は高くないが、肉体は鍛え上げられているのがシャツの上からでも分かる。


「あ、岩見先輩」


 岩見は不服そうに岩みたいな、ゴツゴツした顔を歪めた。


「先輩は止めろ、もう俺は教師だ」


「実習でしょ? まだ先輩っすよ」


「適当な事言いおって」


 ラフを手に取り、じっくりと眺めて首を傾げる。


「これ、問題なく見えるけど」


「違うんですよ、俺の思い描いてるのと」


 言葉で説明しづらいらしく、工藤は手を動かして何かを表現しようとしている。


 その様子を見て、岩見は呆れた様に笑った。


「相変わらずだな」


「まぁ、秋乃ちゃんと相談して決めた絵ですから、手は抜けません」


 工藤の表情が強張ったのを、岩見は見逃さなかった。


「心配し過ぎだ、すぐ戻って来るさ」


 肩に手を置き、諭す様に揺さぶる。


「ええ」


 短く返答し、工藤はもう一度ラフに手を伸ばす。


 が、やはりうまく進まない。



 HRも終わり、生徒らは支度を済ませ教室を出ていく。


「絵里ー、準備できた?」


 井出が絵里の席の横に立つ。


 絵里自身は席に座り、丁寧に鞄へ教科書を入れている途中であった。


「すぐ終わる……出来たよ」


 立ち上がり、井出を少し見上げる形で顔を上げる。


「よし。じゃあモールでも行くか!」


 もし自分が喜劇の登場人物なら、今すぐここで床にズッコケるのだろうと絵里は思った。


 確かにこの時間に駅前のショッピングモールは学生で溢れているし、二人も良く利用していた。


 が、それは昨日までの『平和』な状態だったからこそである。


「香苗、今朝の話聞いてた?」


 呆れの籠った声で、井出に問う。


「聞いてたよ。でもやっぱ暇じゃん? まだ十五時半だよ?」


 外を指差す。まだ空は薄く黄色に染まりつつある所であった。


「暇なのは分かるけど、帰ろう」


 語尾を強め、諭す様に話す。


 子供みたいにふてくされた表情の井出としばらく対峙していると、勢いよくドアが開かれる。


「井出先輩! モール行きましょう!」


 真野が廊下から大声で叫ぶ。


 再び絵里は、自身がズッコケる姿をイメージした。


 井出は何故か勝ち誇った顔を見せつけている。


「やっぱ期待の後輩は違うねぇ!」


 勢いよく教室を飛び出し、井出が真野に飛びつく。


「でしょー!」


 何故か真野も誇らしげな表情である。


 大喜びの二人を、困惑しながら眺めている絵里に気づき、真野が笑みを向ける。


「二見先輩も来てくれますよね!?」


「えっ」


 期待のまなざしを向けられ、うろたえる絵里の姿を廊下側で多々良が見つめている。


「真野さん、先輩めちゃくちゃ困った顔してるよ」


 諭す様には口で言いつつ、多々良はこの状況を面白がっている様にも見える。


 その姿に気づき、絵里が睨む。


「そんな睨まないで下さいよ……」


「こんにちはメガネ君」


「めちゃくちゃ追い打ちかけてきますね……」


 先輩とのハグを解除し、二人の間に入る。


「メガネは付き添いです。護衛にしては弱そうですけど」


「一言多いなあ」


 二人のやり取りを、後ろから呆れ顔で見ていた青年が前へ出る。


 背は多々良より少し高い程度だが、がっしりとした体つきと厳つい顔立ちが威圧感を与えている。


 その動きに反応し、多々良が「あっ」と声を上げる。


「彼は武田です。この通り鍛えてますし強いんですよ」


 何故か紹介されている本人以上に、多々良が誇らしげにしている。


「大げさなんだよ、そんな持ち上げんなよやりにくい……」


 武田が前を向き、絵里と井出に頭を下げる。


 気恥ずかしそうに体を縮こまらせて挨拶する姿が、妙におかしくて井出は堪らず吹き出した。


「いいね! よろしくー」 


「何がいいのかは分かんないすけど、よろしくお願いします」


「まー、このデブは頼りになる方だとは思うんで。変質者なんて一発ですよ!」


 真野が「シュッシュッ」等と口で言いながらパンチを繰り出している。


「誰がデブじゃ貧乳」


「うるせぇ脂肪の塊」


「違うわ! これは筋肉だわ!」


「は? 嘘つくな!」


 低レベルな争いをやり合う二人の横を通り、井出が絵里の背中に回る。


「さ、SP付きなら大丈夫でしょ? 行こう行こう!」


 強引に背中を押され、絵里はされるがままに扉へ歩いていく。

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