5

 本庁から希望島へ戻り、憲次は太平洋側のエリアへ移動した。 


 到着してすぐに、カプセルホテルで仮眠を取りつつ着替えを済ませる。


 下着やシャツなどは新しいものに変えたが、よれたジャケットはそのままである。


 気にするそぶりもなく、手馴れた動作で軽く伸ばして羽織った。



 希望島の太平洋側のエリアは、天災等の緊急事例から可動式の防護壁の開発・建設に追われ、居住区の開発に遅れが生じていた。


 そこを狙い、安く土地を買い叩いた企業らがこぞって進出しているが、その多くが背後には暴力団が関わっており、一角は歓楽街と化していた。


 不法移民を利用したビジネス、未成年を働かせている風俗店も後を絶たず、警察としても注視すべき区画として認識されている。


 

 その一角に、憲次は立っている。


 昼間と言う事もあり、人はまばらだ。


 汚れた地面を、白いビニール袋が動物のように這っている。


 ネオンの消えた電飾を掲げた店達を見上げながら、しばらく歩いて路地へ入る。


「よう。急に呼び出して悪いな」


「いえ、大丈夫です」


 二十代前半と思われる男性が、憲次に向かって会釈する。


 長身で体格は細く、柳の如き弱々しい印象を与えている。


 不健康そうな青白い顔が、路地の中で妙にはっきりと見えていた。


 知らない人々が見れば、幽霊を見たと思うかもしれないなんて、ふと憲次は思いつつ前に立つ。


 憲次は遠藤から受け取った資料を取り出し、男に手渡す。


「こいつを探してるんだ、呼び出せるか」


 資料を一通り確認して、男は周囲を不安げに見回している。


 憲次も釣られて見回すが、地面を転がるゴミしか見えない。


「そんな警戒すんな。誰も来ねぇよ」


「分かってはいますが……」


「で、どうなんだ」


「呼べますよ。こいつなら今でも売ってますし」


 憲次は安堵した。


 万が一にも逃げられていた場合、重要な情報源を失う事になっていたからだ。


「出来れば今夜にでも話したい。そこのクラブに現れるんだろ」


 憲次が男の後ろを指差す。


 汚れた壁は落書きと黒ずんだ剥がれかけのステッカーだらけで、『FEVER』と記されたものを指している。


 男は後方を確認し、頷く。


「ええ。奴の元締めが経営してるそうですので、ここ以外で仕事はしてないかと」


「なるほど」


 資料にはそこまでの情報は記されていない。


 店ぐるみでの売買となると、当然遠藤は強制捜査に乗り出すであろう。


 憲次はその為に尖兵として、売人との接触を許可されたのだと気づいた。


 『捜査は持ちつ持たれつ』と誰かが言ってた事を、彼は不意に思い出した。


「時間指定も出来ますが、これはあまり信用できないでしょう」


 売人自身が『トんで』いる場合、時間の概念は通用しない。


 男は念を押しつつ、経験があるのか呆れた様に答えた。


「なら二十時で頼む。金はあちらの言う額から十万までは上げていい」


「……分かりました」


「急に悪かったな。頼んだ」


 青年から資料を受け取り、去ろうとするが腕を掴まれ立ち止まる。


「なあ、俺にも手伝わさせて下さいよ。あいつのブツを奪うんでしょ」


「あ?」


「しらばっくれなくていいですよ、薬捌くなんて他の刑事だってやってるんですから。あんたのを手伝わせて下さいよ!」


 先程までの様子とは打って変わって、男は嬉々として身を乗り出してきている。


 憲次はその汚れた視線をまっすぐに見つめ返し、腰付近に手をやる。


「俺とアンタなら大丈夫ですって! だから――」


 発言が終わる前に、憲次が動いた。


 上着に隠れていた、腰のホルダーからリボルバーを取り出す。


 即座に男の額へ突きつけ、氷の様に冷たい視線を向ける。


「お前さ、何か勘違いしてないか? 俺はお前をお友達にしたくて放置してるんじゃない。まだ持ってる情報が使えるからだ」


「ま、待ってくださいよ」


 青白い顔が更に青ざめている。


 憲次は躊躇なく、引き金を引く。

 

 が、空砲すら鳴らない。


「冗談だ。おもちゃだよ」


 その言葉を聞いた青年が脱力し、息を吐きながら地面に座り込む。


「か、勘弁して下さいよ」


 憲次は笑いながら男の前にしゃがむ。


 笑顔を崩す事なく、そのまま男の頭を掴んで引き寄せる。


「でもな、さっきの言葉は本当だ。邪魔になれば俺はお前を仲間に売る。いいか、お前はただの駒だ」


 間近で見て、男はより憲次の目が笑っていない事に気付き、視線を逸らす。


「わ、わかってますよ」


 返事を聞き、頭から手を離して今度こそ本当に笑顔を作る。


「ご協力、感謝するよ」



 三時限目が終わり、生徒らが移動を始める。


 絵里は黒板横に目をやり、時間割に記された『体育』の文字を露骨に嫌そうな表情で見つめ、井出の席へ向かった。


 井出は机に突っ伏し、寝ている。


 来年は一緒に進級できるだろうかと、少々不安を覚えつつ肩を叩いて起こす。


「香苗」


 目を覚まし、顔を上げる。


 ゆっくりと体を起こし、そのまま立ち上がる。


 んー、と覇気の無い声を出しながら伸びをして、机横に掛けていた鞄から体操着を取る。


「おう、移動しよー」


「あ。じゃあ移動しながらでいいから」


 二人は他の生徒より少し遅れて、教室を出ていく。


 絵里は今朝のポストカードを井出に手渡す。


「お、何? ラブレター?」


「そんな訳ないでしょ」


「冷たいなー、それで?」


「あのさ、工藤君って覚えてる?」


「あれでしょ? 小学校の時に絵里がボールぶつけて泣かせた」


「故意じゃないから、あれ」


 誤解を解きつつ、同級生の記憶が悲惨な物で被った事を、絵里は心の中で再度謝罪した。


「で、あいつがどうしたの」


「それ、工藤君の絵なんだよ」


「マジ? 上手っ」


 感嘆の声を上げる井出に絵里は続ける。


「土曜からなんだって、個展。休みの朝練も無いなら一緒にどうかなって」


 その言葉を聞き、井出は面白そうに笑みを見せた。


「いいね! 冷やかしに行こう!」


 ポストカードを目の前に突き出し、井出が声を弾ませる。


「普通に見に行くつもりはないんだ」


「えっ、何かそれだけだとつまんなくない?」


 絵里は首を傾げ、微妙な反応である。


「そうかな、そうは思わないけど」


 んー、と唸った後に、井出が何かに気づいて絵里の方を見やる。


「もしかしてさ、暇になったあたしを気遣ってる?」


 面白がっている笑みを浮かべながら、少しかがんで顔を近づける。


 恥ずかしそうに顔を逸らし、拗ねた様な表情で答える。


「どっちにしろ誘うつもりだったから、そういうのじゃない」


「ま、そういう事にしといてあげよう」


 井出がポストカードの裏を見て、ふと何かに気づいて声を上げる。 


「やっぱ、あいつイガゲーなんだ」


「イガゲー……五十嵐?」


「うん」


 工藤の紹介文に記載された、五十嵐芸術学院の名をまじまじと見つめ、絵里が井出の方を向いて口を開く。


「そういえば、五十嵐でもあったよね」


「ん?」


「事件」



「失踪?」


 店主の言葉に、ラーメンを食べていた手が止まる。


 憲次は、目的地である『FEVER』の真正面にあるラーメン屋にいた。


 赤を基調とした内装が、必要以上にここが中華屋だと主張していた。


 どことなく脂っぽさの残る机と椅子が並ぶ店内は、夜の街でもあるせいか昼は客もまばらだ。


「そうそう、五十嵐って学校あるだろ? あそこで働いてる先生がいなくなったって話だよ」


 禿頭が眩しい店長は額の汗を拭いつつ、餃子を焼いている。


 憲次はラーメンを食べ終えて、質問を続ける。


「それ、いつの話?」


「二日前、かなあ。急に連絡が途絶えて心配で、親御さんが警察に相談したらしいよ。この辺りの若いのと違って、真面目だったんだろうねぇ」


 まだそれほど大きな騒ぎになっていないのか、憲次の耳には届いていなかった。二日前では今頃各交番所の人間が動き出している程度だろう。


「確か海浜公園の近くだよね? あそこ」


「そうそう。あの学校の展示会見た事あるかい? すごくいいんだよ」


 しみじみと語る店主が憲次の前に餃子を置く。憲次は嬉しそうにすぐさま箸を伸ばして一つ取り口へ運び、美味かったのかすぐにもう一つと勢いよく食べ始めた。


「中々色の使いが上手くて、昔俺も描いてたから分かるんだよねぇ」


「何だ、親父さん絵も上手くて餃子も美味い訳? 多才だねぇ」


「いやいや、まだまだよ」


 おだてられ嬉しそうにする店主に、憲次が食べる手を止め質問を再開する。


「話変わるけどさ、あの向かいにあるクラブについて何か知ってる? 興味あるんだよねクラブとかってさ」


 嬉しそうにしていた店主の顔が、何かを思い出し嫌悪に満ちた表情へ変わる。


「さあね、悪いがあの店にゃ近づかないから分からないよ」


 ただのトラブルから来る嫌悪で、この店はシロだと憲次は感じていた。


 声色や、視線をクラブから逸らした挙動からの推察であった。


「そっか、まあ俺には縁も無い世界だし、いいけど」


 店主は少々驚いた表情で憲次を見やる。


 演技ではない、真っ直ぐに感情が伝わる動きを見て、憲次は改めてこの店は事件への関わりは無いと判断した。


「兄ちゃん、この辺りの人じゃなかったの? 俺ぁてっきり金貸しか何かかと」


 憲次は改めて自らの服装を見た。ボロボロのジャケットと無精髭を生やしたままの姿は確かにカタギとは思えないものである。


「残念。たまたま営業で立ち寄った、しがないサラリーマンだよ」


 店主へ笑顔を向けながら、憲次は既に事件へ思考を向けていた。


 教師の失踪と変死事件。


 二つの間には何か繋がりがあるはず――憲次は次の行動へ移るために、目の前の食事を早めに片付けようと箸を伸ばした。

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