相合傘
ふと気づけば日は暮れて、金色だった夕陽は赤みを帯びていた。ずいぶん長い時間、戦っていたような気がする。
ぼんやりと低く浮かぶ太陽を眺めていると、横でかすかなうめき声がした。
「
「ここは?」
下校途中にある公園だった。俺は噴水を背にしたベンチで、雨森さんの隣に座って、傘を差していた。
「目が覚めたみてえだな」
一つ離れた横のベンチには、
黄色い槍の傘は折れて使い物にならなくなったので、今は予備の折り畳み傘を肩にかけている。
「じゃあ、俺はそろそろ帰るよ。塾があるんでな」
通ってるんだ。
伊崎は歩きだし、はたと足を止め、こちらを振り返る。
「巡坂。雨森をちゃんと家まで送ってやれよ」
「ええっ?」と困惑する雨森さん。
「もちろん」とうなずく俺。
「あたしは、一人で帰れるよ?」
「その傘でか?」
伊崎は雨森さんの足元を指差した。
一応、拾っておいたものの、赤い唐傘は柄だけとなってベンチの隅に立てかけてある。
「それじゃ、雨森のこと頼んだぞ。お前の管轄なんだろ?」
意地悪く、それこそサングラスの似合う笑みを伊崎は浮かべた。
「あの、ええと、もう!」
恥ずかしさやら戸惑いやらがないまぜになり、落ち着かない様子で雨森さんは頭を抱えた。
「ああ、それと」
伊崎は頬をかく。
「やっぱ、そっちの方がいいよ、雨森は」
「また明日」と去っていく伊崎の背中を見ながら、呆然とする雨森さん。
「どういうこと?」
「こういうこと」
顔を横に向けて尋ねる彼女に、俺は手に持っていたマスクをひらひらと見せた。
シルバーアクセサリーの牙が並んだ、凶悪なマスクだ。
「ちょっと、返してよ! ねえ!」
あわてて手を伸ばす雨森さんの後ろにマスクをやる。噴水の中に落としてやろうとかいうつもりではない。
マスクを追い、噴水を見た雨森さんはそこで声を上げた。
「それがないとあたし、は――」
ようやく気づいてくれたようだ。
噴水の水面に映る自分の顔に、もうあの痣がないことを。ついでに、髪も黒くなっている。
「えっ、なんで? どうして?」
彼女は、思わず何回も水面に顔を近づけたり遠ざけたりしている。まるで、夢かどうかを確かめるみたいに。
「ほら、きれいだ。悪いけど、やっぱりこのマスクはあんまり雨森さんに似合わないと思うよ」
しれっと俺は言う。
「雨森さんの体内の
「キっ!?」
「
すかさず付け加えるのも忘れずに。同性ならファーストキスはノーカウントだろう。
「どうも。噂の麗夏だ」
例によって俺の頭上、傘の中から逆さまの麗夏が生えてきた。
「ごちでした」
それはどっちの意味でだ。
俺は麗夏の頭を押し上げ、無理やり傘の中にねじ込む。荒療治だが、この中で一番の重傷者は彼女だ。腹部を貫かれた傷はそう簡単にふさがるもんじゃない。こいつは赤天錆とは違うんだ。
とりあえず、ゆっくり休んでくれ。
「さて、そろそろ帰ろうか。歩ける?」
俺の問いに、おずおずと、雨森さんはうなずいた。
黒さを取り戻した自分の髪を手ぐしですき、彼女はベンチから立ち上がる。
俺も合わせて腰を上げ、差している傘を少し雨森さんの方に傾けた。
「あの……」
「不可抗力だと思ってくれ」
どうしても相合傘になってしまう。しかたないんだよ、これは。
嬉しいけど恥ずかしい。
公園を出て、二人並んで住宅街を歩く。
「あのさ、今日の賭けだけど」
「賭け?」
雨森さんは小首をかしげる。
「俺が伊崎に勝てたら、許してくれるっていうあれ」
「ああ、あったね、そんなの」
すっかり忘れていたらしい。
「俺は伊崎に負けたけど、そのあとに伊崎が苦戦した赤天錆は倒せた。つまり、伊崎に勝ったのと同じじゃないかと思うんだけど――」
自分でも詭弁だと思う。
しどろもどろになりながら視線をさまよわせる俺を見て、雨森さんは吹き出した。
「麗夏ちゃんに手伝ってもらったんだから、ずるじゃない、それ」
おかしそうに彼女は笑う。
「そんなこと言われなくても、とっくに許してるよ」
微笑んだ雨森さんを見て、思わず抱きしめたくなってしまった。
思春期は業が深い。
「雨森さん」
「何?」
心の底から、吐き出すように言う。
「ありがとう」
「ううん、あたしこそしつこい女でごめんね」
怒りからくるのではない彼女の本来の笑みは、入学式の日に目にしたそれよりも、さらに輝いて見えた。
「お互い、絶対、一人前の
俺たちは、あのときの約束をし直す。今度はほどけないように、固結びで。
「ところで雨森さん」
俺がそう言うと、彼女は少しうつむいて、小さく訴えた。
「とりあえず、その呼び方はやめてほしいかな」
「えっ?」
それはつまり、もっと親しげに呼んでくれという意味では――
「もう『雨』はこりごりだから」
そっちかい。
「で、何?」
先を促してくる彼女に、俺は決死の覚悟で切り出す。
「お義父さんに、挨拶をさせてくれないか」
「なんでっ!?」
「相合傘をした責任を取らせてほしい」
「いい、いい! そんな責任ないから!」
首をぶんぶん振る彼女の姿を見て、頬が緩んできた。
それから、二人で少し黙ったまま歩き、雨森さんの家の前に着いた。
「あ、そうだ、これ」
別れ際、俺はポケットからあるものを取り出し、渡す。
雨森さんの着けていた牙マスクだった。
着けるかどうかはともかく、これは彼女のものだ。返しておかないと。
「ありがとう」
雨森さんははにかんでマスクを受け取った。
「部屋に飾っとこうと思うんだ」
……いいさ、人の趣味に口出しするのは野暮ってもんだ。
俺は手を上げる。
「じゃあ、また明日」
雨森さんも同じく手を上げた。
「うん、また明日」
そう言って、俺の手に自分の手を合わせてハイタッチしてくる。
予想外で嬉しい別れの挨拶だった。手を振る雨森さんをときどき振り返りながら、俺は彼女の家をあとにした。
前に長く伸びた自分の影を見ながら、傘を差して帰り道を歩く。
麗夏も静かだ。どうやら眠っているらしい。そうだろう。今日一日で負担をかけすぎた。
上を見ると、青紫色の空にひびが見える。赤い雨は止んだけど、さすがにひびまでは消せなかった。でも、あの笑顔が素敵なクラスメイトの心に入ったひびは、少し癒せただろうか。
それなら、今日はもう満足だ。晴れた日の相合傘ってのも、悪くない。
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