天晴れな傘
ぎょろりと六つの目で
麗夏も
「天錆……? その子が……?」
ぼろぼろの
「そうだ。私も、こやつも、空から生まれた。『感情の器』から」
感情の器?
赤天錆は言葉を続ける。だんだん地上になじんできたのか、ぶつ切りだった言葉が、なめらかになっている。
「そもそもお前たちは、この空を何だと思っている? 空とは、人間どもの想いが積もって出来た『感情の器』だ。人の心は、空に上がって積もる。そして中身があふれれば器にはひびが入るし、そこに積もっていた想いは地上に落ちてくる。それこそが、お前たちが天錆と呼ぶ、心の残骸だ」
赤天錆は掌を上に向け、空は我がものだと言わんばかりに手を掲げる。掌の先には、黒い裂け目から真っ赤な雨を吐き出し続ける空が広がっていた。
「ちなみに私はな、お前の怒りが引き金となって落ちてきたのだ」
次に赤天錆は、倒れている雨森さんを指差した。
「あ、たし……?」
急に知らされた事実に、愕然とする雨森さん。白かった彼女の髪もセーラー服も、雨に打たれて今や余すところなく赤く染まっている。天錆が体力を奪っているのか、呼吸はどこか弱々しい。
「
六つの目が、嘲るように弧を描く。
「そんな……」
雨森さんのかすれた声は、容赦のない雨音に塗り潰された。
それから、もう雨森さんに興味を失くしたらしく、赤天錆は再び麗夏に向き直る。
「こちらへ戻ってこい、同類。天錆を食わなければ生きていけないようだが、私たちとともにあればいくらでも食わせてやる。これでもう、あんな情けない男を守る必要もあるまい。あのような、何もできない人間などを」
麗夏。考えるまでもないだろ? そいつの条件の方がはるかにいい。
頼む。俺なんか見捨ててくれ。
俺とお前の関係なんて、しょせんギブ&テイク――
「それは無理だ。あいにく、麗夏とクモリの関係はギブ&テイクアウトらしくてな。麗夏はお持ち帰りされている」
え?
「馬鹿め。あの男に何ができる? 何をしてくれた?」
赤天錆の言葉を、麗夏は強い意志の込められた瞳で、真っ向から跳ね返す。
「麗夏は、クモリの『楽しみ』から生まれた。『怒り』から生まれた貴方とは違う。貴方は知らないだろう。温かい人の想いを。負の感情しか知らない貴方にはわからないだろうが、クモリは教えてくれたぞ。麗夏に、楽しいという気持ちを!」
少しもひるまず、屈さず、誇らしげに高らかと言い放つ麗夏を見て、俺の中にじんわりと温かいものが込み上げてくる。
……そうだ。麗夏は、出会ってからいつも俺の話し相手になってくれた。いつも引きこもってばかりの俺の味方でいてくれた。ずっと俺のそばに、いてくれた。
こいつは俺の生きがいそのものなんだ。アレルギーなんて出ないはずだ。
ああ、まったく。何をくだらないことを気にしてたんだか。きっと、この不愉快な雨のせいだな。
確かに、雨森さんは俺が逃げたせいで変わってしまった。俺のせいで、本当の笑顔を見せてくれなくなってしまった。
だからどうした。それとこれとは別の話だ!
恩人が笑顔を捨てたんなら、拾ってやればいい。
自分に意味がないと思うなら、作ってやればいい。
むかつく敵が邪魔をしたら、ぶっ飛ばしてやればいい!
せっかく外に出たんだ! それぐらいやってのけろ!
「……よくわかった。お前のような出来損ないはいらないということがな」
赤天錆はゆっくりと首を振る。
俺は一歩前に進み、麗夏の隣に立った。
「よかったのか? せっかく食い放題のチャンスだったのに」
「今朝話したはずだろう。天錆には味も何もないと。だけど、クモリの希望が詰まった心はとても美味しい」
俺は顔がにやけるのをこらえるのに必死だった。
「お前、大食いキャラはどうした?」
「さあ? そんなものは忘れた。クモリこそ、アレルギーは?」
「忘れたなあ、そんなもん!」
嘘だ。全身の震えを止めるのに必死だし、頭痛や吐き気だって遠慮なく俺を襲ってくる。
それでも、傘の中の少女と雨に濡れながら軽口を叩いたら、自然と嬉しくなった。今朝もこんなやりとりを交わしたはずなのに、ずいぶん懐かしいような気もする。
「おい、まさか、まだ戦う気なのか!? やめろ! ここは俺たちの管轄だ! お前が命を懸けて戦う理由なんてねえんだよ!」
伊崎はそう言うが、理由ならあるさ。きみのクラス委員の理屈と似たようなものだ。
俺は倒れている雨森さんを背にして、立つ。
「今はこの
逃げるのはもう、入学式の日に卒業したんだ。
隣で麗夏も続く。
「そして麗夏の居場所は、キートのそばと決まっている」
麗夏は傘の剣を、俺は傘の銃をそれぞれ構えた。
俺の銃口と麗夏の剣先が、同時に赤天錆に向けられる。
「人間と天錆の共存だと!? 馬鹿馬鹿しい! 吐き気がする!」
誰かが吠えるが、もうお前なんか怖くない。鳥肌一つすら起こしてやるもんか。俺たちは言ってやる。
「そんなたいそうなもんは望んじゃいない。俺はただ、こいつにそばにいてほしいだけだ」
「麗夏はただ、クモリの力になりたいだけ。それに、麗夏は天錆じゃない。クモリの傘だ! 雨でも槍でも防ぐ傘!
赤い雨音にも負けず響きわたる大声で、麗夏は宣言する。
それを受けた赤天錆は、自身の六つの目を歪ませ、俺たちに暗い憤りの視線をぶつけてきた。
「そんな子供じみた理屈が、通るものか!」
「じゃあお前を倒して、証明してやるよ!」
麗夏が駆ける。
剣が踊り、赤天錆の体を斬り飛ばしていく。
斬られたそばから赤天錆の体は再生を始める。
そこへ、俺は迷わず銃弾を撃ち込んだ。
再生した個所を撃ち抜かれ、赤天錆はまたもやその部分を再生させなければならなくなる。
麗夏が斬り込み、俺が援護射撃をする。
これが、俺たちの本来の力だ。俺たちの本当の有様だ。
真っ赤な天錆の雨に打たれながら、俺は震えを抑えて弾丸を撃つ。
俺は今、全身で天錆と戦っているんだ。
破損と再生を繰り返すばかりで、赤天錆は満足に身動きがとれなくなっていた。
お前なんかに、もう何もさせてたまるものか。
こいつは俺のクラスメイトを傷つけた。頼りになる相棒を馬鹿にした。雨森さんの怒りを逆撫でして、利用した。
許す理由はない。
「このっ、ちまちまと猪口才な……!」
動きを封じられたことにしびれを切らしたのだろう。
いまだ再生しきっていない体で、赤天錆は強引に剣と銃弾の嵐を突破して向かってきた。
待っていたのは、その隙だ。
効き目が薄くてもいい。焼け石に水でもいい。攻撃を与え続けることで反撃の機会を奪えば、いつか必ずやけになると思っていた。
「麗夏! 来い!」
剣筋を滑らせながら、麗夏は俺の傘の内側に流れるように帰ってくる。
俺は、まだ穴のふさがっていない赤天錆の腹に、その傘を突き刺した。
下ハジキを押す。
「愚かな! 私の中で傘は開かん! 先ほどお前の仲間が失敗しただろう」
「ああ、でも、今度は麗夏がいるんだぜ」
俺の言葉に応じて、赤天錆に刺さった傘は目いっぱい開かれた。
「ごばあっ!」
体内で爆発が起こったかのような衝撃で、赤天錆の両腕が弾き飛ばされる。さすがにこれは効いたらしく、血走った六つの目を剥いて、その足がぐらついた。
力が足りないなら、手伝ってもらえばいいだけのことだ。
傘の内側では、麗夏が両腕を突っ張っていた。彼女が、無理やり赤天錆の体の中から、傘をこじ開けたんだ。
赤い雨が赤天錆の傷を治す。だが、今のやつの体は、ちょうど傘布と中軸の間に挟まれていて、上半身がすっぽり傘に覆われている形だ。
「残念だったな。もうお前に、雨は降らない」
傘に埋め込められている状態で、赤天錆はわめいた。
「雨が……! 私の源が……!」
吹き飛ばされてちぎれた両腕は、もう再生することはない。
今のお前にあるのは、頭と、胴体と、足だけだ。
「よくも、人間!」
残された足を使って、赤天錆は俺にハイキックをかましてきた。が、すかさず傘の中から現れた麗夏が、真っ赤な足首を斬り捨てる。
麗夏、やっぱりお前は最高だ。
「ふざけた真似を……! だが、私をここで退けたところで、赤い雨はいずれまた降るぞ」
もう、負け惜しみにしか聞こえないがな。
「ああ、そうかもしれないな。だから俺たちは、こうすることに決めたんだよ」
しゅかっ、と、麗夏は剣を一閃させる。
赤天錆の胸に、一筋の線が走った。当然、その傷口も再生しない。
「こんなものがどうしたと――」
「赤天錆。お前、ゴーゴンっていう神話の怪物を知ってるか?」
「……何の話だ?」
別の話では、ないかもしれないな。
「そいつの目を見ると、誰もが恐怖で動けなくなるという恐ろしい魔物だ。その目は魔よけの力を持っているとも言われている。さて、お前の胸には何がある?」
赤天錆は自分の胸の表面を見て、顔にある合計六つの目を見開いた。
無理もない。そこには、先ほど麗夏につけられた切れ目が、七つ目の巨大な眼となって、胸を内側から大きくこじ開けようとしていたのだから。
「お前を倒してもこの雨は止まないかもしれない。だから、高密度の天錆で出来ているお前をエネルギーにして、あの亀裂に光の弾丸を撃ち込むことにする。発射合図は、その目が開き切ったときだ」
これは、雨森さんに助けられてから、麗夏と協力して必死で作り出した奥の手だ。もう二度と、誰かを置き去りにして逃げないために。そして今は、雨森さんたちを助けるために。
赤天錆が膨大な天錆の塊だからこそ、これを最大限に使うことができる。麗夏は、天錆を燃料にするからな。
三日月のようだった胸の切れ目が、ゆっくりと開かれていく。今は半月といったところだ。
「いかれてる! この傘も! お前も! お前たちの関係も!」
必死でもがく赤天錆の遠吠えも無視して、言葉を続ける。
「ああ、ちなみにな。さっきの神話と、とある傘の種類からとって、俺はこの機能をこう名付けたよ。『
赤天錆の胸にある目が、満月になった。
麗夏の剣の切っ先が、俺の傘の銃口と向きをそろえる。二本の傘は共鳴し、まばゆい光を放った。
傘の先端からほとばしる光の柱が空の亀裂まで伸びていき、赤い雨と天錆は蒸発していく。辺りに赤い霧が立ち込めたのも一瞬、すぐさまそれを打ち消すほどの強い光に包まれる。
「っ、があああああああああああ!?」
「言ったよな。お前は、雨森さんの怒りが元になっていると」
もはや頭部だけとなっている赤天錆に、聞く耳があるうちに言っておく。
「だったらそんなもん、俺が晴らしてやる」
消えていく赤天錆を覆い尽くす光は、ずいぶん久しぶりに感じた太陽の日差しのようだった。
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