放課後に赤い雨が降る

 結局五限目の授業はさぼったものの、六限目や帰りのホームルームには出席できた。

 俺の席は、伊崎いさきの後ろ。黒板から一番離れた窓際の方だ。

 なんだかんだでちゃんと机と椅子を運んでくれた伊崎には感謝している。

 ホームルームが終わり、クラスメイトたちがぞろぞろと教室から出て行く。

 青春真っ盛りのこの時期、部活に励む人が多いのかもしれないが、あいにく俺は今のところ帰宅部志望だ。

 さて帰るかと腰を上げたとき、


「帰るのか?」


 前にいた伊崎から尋ねられた。椅子の背もたれの上で腕を組んで、こちらを向いている。

「ああ」と返すと、伊崎は立ち上がってとある人物を呼んだ。


雨森あまもり―!」


 呼ばれた張本人はいそいそと俺の机のところにやってきて、こくりとうなずく。その手には赤い唐傘が握られていた。

 机の横のホルダーから、昼休みに俺を追い詰めた黄色い傘を引き抜き、伊崎は言った。


「じゃあ、一緒に帰るか。俺らはこれから部活なんだ」


 言っている意味がわからなかった。

 放課後に、俺たちは学校を出た。俺と、伊崎と、雨森さん。一日をかけてぐるりと回った校舎の大きな影の中を、傘を差しながら三人で歩く。

 日は少し傾き、金色の光が降りそそぐ。ただ、空にある蜘蛛の巣状のひびだけは変わらず真っ黒に刻まれていた。

 校門を出て、左に曲がる。当然のように雨森さんと伊崎もそれに続いた。


「家の方向が一緒なんだよ」


 聞いてもいないのに伊崎はしゃべりだす。


「部活はしなくていいのか?」


 と聞くと、伊崎はサングラスの縁をつまんだ。


「今が部活中だ」


 は?


「将来、天騎士てんきしを目指すやつのために、学校公認で設けられた、天騎士部ってのがある。主な活動内容は、登下校のルートを巡回し、天錆ソラサビが現れたら退治することだよ」


 伊崎は俺の方をまっすぐ見る。


「今日は、貴様を家まで護衛することも部活の一環だ。まだ病み上がりだろうし、何よりこの方角の通り道は俺たちの管轄だ」


「管轄?」


 俺のおうむ返しに伊崎は首を縦に振った。


「天騎士部員にはそれぞれ担当地区が割り当てられるんだよ。俺たちの家は同じ住宅街にあるから、俺と雨森は一緒の管轄だ」


 そうだったのか。俺が引きこもっている間にも、二人は天騎士部員として天錆と戦ってきたんだろう。本来なら、そこに俺もいるべきなのに。


「負担をかけてしまったようで、申し訳ない」


「誰も責めてねえだろうが。謝んな」


 伊崎は口調こそ荒いが、やっぱりいいやつだった。

 隣り合って歩く俺たちの後ろを、てくてくと無言で雨森さんがついてきている。

 学校を出てから、というか、昼休み以降一度も口をきいていない。


「ところでよお」


 伊崎が話しかける。俺と雨森さん、二人に対しての問いかけだった。


巡坂めぐりざかが俺に勝ったら許す許さないって、結局何の話だったんだ?」


 雨森さんの足が止まった。

 振り返ってから、「何かまずいこと聞いちまったかな」と頭をかく伊崎をよそに、雨森さんはか細い声で話す。


「巡坂くんが、前にあたしを残して逃げたことを許してほしい、って言うから……」


「……まじか?」


 伊崎は俺を睨みつけた。サングラス越しでも、その目つきの鋭さが存分に突き刺さる。


「逃げたことは別にいいの。顔と髪は少し変わっちゃったけど、あたしは天錆サビに勝てたし、巡坂くんを助けられたから」


 でも、と彼女は言う。


「やっぱり、許せるかどうかっていうのは、別の話みたい」


 別の話。確かに、その通りだ。


「だから、学年で一番強い伊崎くんに万が一勝てたら、許してみようかなって思ったんだけど」


 つまり彼女は、最初からほとんど俺を許す気なんてなかったのか。


「やっぱり、だめだったね」


 それは、伊崎に勝てなかった俺のことを言っているのか。それとも、許す気になれない自分のことを言っているのか。


「なんでもしてみせる、って言ったじゃない」


 嘘つき。

 その一言は、引きこもっていたときに親から言われた小言よりも、ずっと効いた。

 魂の一部が削り取られるような気分だ。


「雨森さん、俺は――」


「でもね」


 俺の言葉をさえぎって、彼女はマスクの下に秘めていた思いを吐き出す。


「あたしが本当に怒っているのは、逃げたことよりも、体が変になったことよりも――巡坂くんが、三ヶ月も学校に来なかったことだよ!」


 一度あふれた感情は、雷のような激しい怒りとなってまき散らされる。


「どうして家から出てこなかったの!? あたし、毎朝登校するときに巡坂くん家の前を通って、部屋で女の子と話してる巡坂くんの声を聞いてたんだから!」


 俺、毎朝外から窺われてたの!? しかも麗夏うららかのことまでばれてた。

 カーテンは閉め切っていたから中の様子まではわからなかったろうが、事情を知らない人が部屋にいる俺と麗夏の会話を聞いたらやはり、家から出ず、学校にも行かず、女の子と遊び呆けているだらしないやつだと思うだろう。

 今朝、雨森さんが教室に入ってきたときのことを思い出す。クラス委員の仕事があったのに、ちょっと遅くなったと言っていた。

 あれは、今日は俺がすでに家を出ていたのを知らずに、誰もいない部屋に聞き耳を立てていたから遅くなったんじゃないだろうか。

 ちょっといきすぎな気もするけれど、雨森さんは、俺が登校するのをずっと待ってくれていたのか。


「巡坂、貴様。学校を休んでる間、部屋に女を連れ込んでいたのか? ああ?」


 怒りが伊崎にまで伝播した。無理もない。けど顔近いよ。

 参った。運の悪いことに、他人に麗夏の事情を説明するのは難しいんだ。

 俺は開いた傘布で顔を隠すように、つい傘を傾ける。

 それが悪かった。雨森さんの怒りに、火を注いでしまった。感情を爆発させるあまり、傘を持ち上げるのも忘れ、下げた両腕の拳を握りしめて雨森さんは叫ぶ。


「一緒に天騎士になるって、約束、したじゃない! それも嘘だったの!?」


 嘘じゃない。ただ、言い返す材料が俺の中に見当たらないだけだ。


「顔はこんなんだし、巡坂くんはずっと学校に来ないし、あたし、寂しかったんだ

よ!? 約束も! 夢も! 思い出も! 簡単に忘れられたあたしはどうすればよかったの!?」


 忘れるものか。

 けれど、今の俺が何を言ったところで、雨森さんは納得しない。

 取り繕う隙もないほど、たった三ヶ月で俺たちの絆はほころびていた。


「おい、落ち着け雨森……」


 見かねた伊崎が雨森さんをなだめようとしたとき。

 雨森さんの頬に、真っ赤な血の涙がつうと流れていた。

 いや、血じゃなかった。ぽつ、ぽつと、赤い雫が空から降ってくる。


「クモリ。天錆だ。それも複数の」


 傘布の中から麗夏に言われるまでもない。俺の両腕にびっしりと鳥肌が立っていた。アレルギーだ。


「雨森さん! とにかく傘を頭の上に!」


 いやな予感に突き動かされ、俺はとっさに声を荒げる。雨森さん自身も何かを感じ取ったのだろう、彼女は俺の叫びを聞き入れて、唐傘を差してくれた。

 赤い雫は次第に量と勢いを増していき、雨となる。

 だが、解せないことに、その範囲は狭く、俺たち三人の周囲十五メートル程度に収まっていた。

 傘を傾け、上を見る。空は相変わらずの晴れ。だけど、空に走るひびの中から、血のように真っ赤な雨が降りそそいでいた。

 やがて俺たち三人を囲むように、雨の中、次々と黒い人型の天錆が地面から生えてくる。

 その数、九体。多すぎる。一度に発生する天錆の量としては明らかに異常だった。人型の天錆は輪郭を揺らしながら、じりじりと俺たちとの距離を詰めてきた。

 真っ先に動いたのは伊崎。傘を閉じ、黄色い突撃槍を振り回す。


「りゃあああああ!」


 真っ赤な雨を返り血のように浴びながらも、天錆を突き刺し、散らしていく。

 一体、二体、三体。みるみるうちに天錆は霧散してその数を減らし、四体目の体に傘の槍を突き入れた伊崎は、下ハジキを押した。ぼん、と傘は開き、槍を突き刺されていた天錆は内側から爆裂四散する。

 一方で、雨森さんも戦っていた。

 真っ赤な唐傘は開いたまま高速で回転し、触れた天錆を切り裂いていく。雨森さんの傘の兵装はどうやら丸鋸まるのこのようだった。

 一体二体と天錆を切り刻んでいく彼女の目は、笑っていた。口元はマスクに隠されているものの、憎い敵を討ったときに見せる、暗く歪んだ笑みを浮かべているのがわかる。

 入学式の日、俺とともに戦って、俺を守るために天錆に立ち向かっていく彼女は、こんな顔はしていなかった。

 そもそも今日、雨森さんは笑ってくれただろうか? 入学式のあの日のように、無邪気な笑顔を見せてくれただろうか? いいや、少なくとも俺は見ていない。

 熟成された怒りのせいで、彼女は純粋な笑顔を失くしてしまったんだ。

 いまや彼女は、ねじれた笑い顔で憎しみをぶつけるように天錆と相対している。

 そうか。今日の昼休み、俺は雨森さんに天錆を見せたくないと思って余計なお節介をしたけど、本当は、天錆を前にした彼女を見たくなかっただけなんだ。

 雨森さんが天錆に対してどんな思いを抱いているかは、今の彼女のねじれた笑顔が物語っている。

 俺の三ヶ月は、彼女にこんな顔をさせるためにあったのか? そうじゃないだろ?


「クモリ。もうここは学校とやらではないのだろう? 麗夏はランチタイムをご所望だ」


 俺の差している傘の内側の闇から、一人の少女が躍り出る。今度は今朝と違い、足からきれいに着地した。飢えた本気の目だ。

 すでに手にしている傘の剣を、目にも止まらぬ速さで走らせる。

 剣筋の軌跡が銀色の線を描き、線は幾重にも重なり網となった。

 あっという間に、三体の天錆が細切れになる。

 九体もいた天錆は、いともたやすく全滅させられていた。

 その間、俺はただ傘を差しながら戦況を眺めていただけだ。何も、できなかった。

 一方、急に現れた麗夏に伊崎は食ってかかる。


「なんだ貴様! どこから出てきた!」


 当然の疑問だった。


「あなたもしかして、巡坂くんの部屋にいた……?」


 雨森さんは目線をこっちにやる。

 どういうこと? と目で訴えていた。

 さすがにごまかすのは無理だな。何から話したものか。


「えーっと、そいつは――」


 言って、気づく。赤い雨はまだ降っている。

 さっきの天錆の発生するサインかと思っていたが、違うのか?

 まだ何か、あるんじゃないだろうな。

 その考えに至ったとき、今まで感じたことのない強い悪寒が背筋を駆け巡った。

 冷たい手で背中を撫で回されているような気味の悪い感覚。

 その正体は、下にあった。

 麗夏を加えた四人の中心の地面に足首が二つあった。真っ赤な足首だ。人間のものに近い。

 足首は赤い雨を浴びていくごとに徐々に上へと伸びていき、ふくらはぎや太ももへと連なる二本の足になる。

 呆然とその光景を目の当たりにする俺たちの前で、足から腰が、腰から胴体がと赤い体のパーツは生え揃っていき、一つの人影ができていた。

「それ」を見た瞬間、全身が震え、鳥肌が総立ちする。吐き気を押さえるだけで精いっぱいだ。俺はうずくまる。こんなにひどいアレルギーの反応があっていいのか。

 異形。その一言に尽きる。

 その赤い体は、今まで見た木偶人形のような天錆より一回り小さく、ほぼ人間に近いフォルムだった。だけど決して弱そうには見えない。むしろ、余分な肉体を削り捨て、引き締められている印象を受ける。

 長い腕と足。その先端には刃のごとく鋭い五指。頭部には右目が一つ、左目は縦に五つ並んでいて、口らしきものはない。そしてその赤い天錆は、輪郭がまったくぼやけてなくて、はっきりと己の存在を誇示していた。

 俺以外の全員が、正体を気にするよりも早く、そいつに思い思いの攻撃を加えた。

 伊崎の黄色い槍が肩を穿ち。

 雨森さんの丸鋸が胸を切り裂き。

 麗夏の剣が頭部を貫く。

 だめ押しとばかりに、伊崎が手元の下ハジキを押す。また内側から弾き飛ばすつもりなのだろう。

 しかし、何回押しても傘は開かない。かちっかちっという下ハジキの音だけが、雨の中にむなしく木霊する。

 赤天錆アカサビは肩に刺さった槍の穂先をつかみ、なんでもないようにへし折った。


「なんだと!?」


 驚く伊崎に、赤天錆の手刀が迫る。


「危ない!」


 即座に効き目がないことを悟った麗夏と雨森さんは自分の武器を赤天錆の体から引き抜き、手刀を受け止める。

 麗夏の剣と、高速で回転する唐傘が赤天錆の手と打ち合って、火花が飛び散った。

 赤天錆はうっとうしげに手を振り払い、二つの武器を弾く。

 そして、槍をへし折られたまま立ち尽くしている伊崎の腹を、その刃の五指で切り裂いた。


「伊崎!」


 腹から五筋の血の糸を出しながら、伊崎は倒れ込む。

 その間にも、赤天錆は信じられないことをやってのけた。

 肩に開いた穴はふさがり、裂かれた胸元の切れ目は閉じ、貫かれた頭は元に戻っていく。

 認めたくはない、回復力だった。


「だったらっ!」


 雨森さんは傘から柄を取り外す。そうして閉じた状態の傘布の側面に、取り外した柄を装着。完成したのは、円錐状の頭を持つハンマー。


「これでっ!」


 跳んで体をひねり、遠心力とともにハンマーがうなる。それだけじゃない。円錐の底の部分、閉じた傘布の後方から、ジェット推進力の炎が噴き出す。彗星のような一撃は、赤天錆の頭部を完全に消し飛ばした。


「伊崎くんを安全なところ――少なくとも雨の外へ! それと、プロの天騎士を呼んできて!」


 こっちに向き直り、すっかり真っ赤に染まった髪を振り乱しながら、的確な指示を出す雨森さん。

 しかし、俺は見てしまった。

 雨森さんの後ろで、頭を失ったまま、彼女に手を伸ばす赤天錆の姿を。


「麗夏!」


「言わずもがな!」


 俺が叫ぶと同時に、麗夏が赤天錆のもとへ駆ける。傘の剣を持って、斬りかかる! 長いサイドテールが麗夏の駆ける軌道を描き、蛇のようにたなびいた。

 銀の線が光る。Vの字を描いた斬撃は、赤天錆の両腕を断ち切った。

 しかし、ビデオの逆再生を見ているように、次第に赤天錆は切り飛ばされた頭と両腕を生やしていく。

 なんとも出来の悪い冗談だった。

 再生する原因は言うまでもない。この赤い雨だ。

 俺はいよいよアレルギー症状が限界に達し、膝をついて胸を押さえる。

 かひゅー、かひゅー、と自分の喉から頼りない呼気が漏れた。.涙で景色がぶれる。


「はあっ!」


 涙で滲む視界の中、真っ赤に染まった髪をはためかせながら、雨森さんは戦っていた。

 吼えるように、マスクに付けられた銀色の牙がぎらつく。彼女は傘のハンマーで、再生した赤天錆の横っ面を再びぶち抜いた。

 赤い雨に、赤い天錆。真っ赤な髪がなびき、紅の傘が穿つ。

 踊る、踊る。赤が踊る。赤い舞台で、赤い役者が踊る。それは、血まみれの舞いを思わせた。


「再生させてなるものか!」


 麗夏が追撃を加え、赤天錆の体を粉々に切り刻む。

 もうこれ以上は倒しようがないというとこまできたところで、赤い雨の勢いが増した。それはもはや豪雨だった。差している傘にのしかかる雨粒の衝撃が、滝みたいに重くなる。

 雨を浴びて、赤天錆は何度でも立ち上がる。


「むだ、だと。いうのに」


 赤天錆は拙く声を発した。

 しゃべった!?

 一般的に、天錆は知能を持たないとされている。

 でも、こいつにはそれがあった。


「無駄でも、やるよ! あたしは天騎士になるんだからあ!」


 ハンマーを縦に振り下ろす雨森さん。頭頂から下まで一気に押し潰して貫こうという考えだろう。

 だが、頭に届く前に、赤天錆は唐傘のハンマーをいともたやすくつかんだ。


「えっ」


 そのまま無造作に手を振り回すと、遠心力で雨森さんは吹き飛ばされる。傘は握りつぶされ、地に転がされる雨森さんの手には細長い柄だけが握られていた。赤い水たまりの上に全身を叩きつけられ、倒れる雨森さん。うめき声がたちまち雨音にかき消されていく。


「効かないと、言っている、だろう」


 赤天錆は地べたに這いつくばる雨森さんを見下しながら、空に走る亀裂めがけて指を立てて言った。


「この雨は、天錆の、集合体。ゆえに、私は倒れない」


 この雨一粒一粒が、天錆だっていうのか? ってことはこいつは、今までの天錆とは濃度も、強度も、密度もけた外れかよ。

 道理で倒せないわけだ。おまけに再生するという反則仕様ときた。

 アレルギーのせいか、がちがちと歯の根が合わない。悔しさで歯噛みすることすら、今の俺には許されていなかった。

 絶望に近い情報を聞かされて、それでも麗夏は斬撃の手を緩めなかった。

 頭を斬る。再生する。腕を斬り落とす。再生する。胴を薙ぎ払う。再生する。袈裟懸けに斬り込む。再生する。

 彼女は、決して折れなかった。

 そこへ、意外な助太刀が入る。


「らああああっ!」


 伊崎だ。金髪にはところどころ赤が差している。彼はへし折られた黄色い傘を捨て、代わりに何かを手に赤天錆へと突っ込んでいく。

 その手に握られていたのは閉じられた折り畳み傘の打撃武器、鎚矛(メイス)だった。

 腹から血をしたたらせつつ、伊崎は特攻タックルをかまし、残された全力で赤天錆に鎚矛を叩き込む。


「貴様は無敵かもしらんが、この雨の中から出たらどうなるよ!」


 彼は、この雨の陣の中から赤天錆を押し出そうとしているんだ。


「狙いは、悪くない」


 赤天錆は伊崎を一瞥する。


「だが、力が足りない」


 鎚矛が押し戻される。傷のせいで踏ん張りの効かない伊崎は、突き飛ばされてうつぶせに倒れた。


「はっ!」


 崩れる伊崎の後ろから影が飛び出した。交代するように麗夏が斬りかかっていく。


「そうか」


 赤天錆は麗夏を一瞥いちべつし、彼女の腹を真っ赤な刃の五指で貫いた。


「麗夏!」


 腕を引き抜き、赤天錆は手に付いた血を振り払う。

 俺の目の前で、三人の頼もしい傘使いが次から次へと倒れていく。

 夢なら覚めてくれと切に願った。ベッドから起き、初登校に心を躍らせるあの朝を、もう一度やり直させてくれと。

 こんな悪夢はない。

 俺は三ヶ月も引きこもっておいて、何も力になれちゃいない。

 天騎士になろうと意気込んでおいて、この体たらくだ。

 俺の三ヶ月は。俺の夢は。あの日の雨森さんとの約束を守るため、今までがむしゃらに生きてきたことは。全部、無駄だったのかもしれない。


「へ、へへ……」


 そんな笑い声が、激しい雨の中でも耳に届いた。

 倒れながらも、伊崎が地面を指に爪を立てて、起き上がろうとしている。


「……きみだけでも、避難しろよ」


 俺は荒い呼吸で、つっかえつっかえ言う。

 けがもしているし、戦うよりも、一度この雨の中から出て、助けを呼ぶなりした方がいいはずだ。

 伊崎は苦しそうに笑った。


「俺はこれでもクラス委員長だからよ、クラスメイトほっぽって逃げるなんてできねえんだよ」


 俺は素直な感想を口にする。


「きみ、強いんだな」


「強い?」


 伊崎は不思議そうに聞き返した。


「強かったら、こんなときに寝てねえよ。あほか」


 いいや、それは別の話だ。

 こんな状況だというのに、俺は不謹慎にも伊崎がうらやましい。

 それからなんとかアレルギーの体に鞭打って、おぼつかない足取りで麗夏のもとへ近づいた。


「麗夏、大丈夫か?」


 大丈夫じゃない。そんなことはわかってる。


「腹が減って、げほっ、力が出ないんだろ? 待ってろよ、今すぐ、とっておきのごちそうを用意してやるからな」


 俺は震える手で傘を杖代わりに立ち上がり、ひざを笑わせながら傘を構える。ぶれる傘の銃口の先には、もちろん赤天錆がいる。

 ちくしょう、照準がなかなか定まっちゃくれない。止まれよ、震えてる場合か。雨のせいか、目もかすんできやがる。


「馬鹿野郎! 無茶だ! やめろ!」


 伊崎が叫ぶ。


「何、してるの……?」


 雨森さんの声は震えていた。


「いいから、逃げてよ……! あたしたちは、大丈夫だから……!」


 あのときと同じことを言う彼女に、なぜか腹が立った。

 また、逃げろって?

 今、ここで? ここから家に帰って、また引きこもれと?

 ふつふつと何かが俺の中で込み上げてくる。

 俺は、その感情に任せて引き金を引いた。

 赤天錆は、当然ながら首を少し傾けただけで銃弾をかわす。

 一歩、また一歩と近づいてくる赤天錆は、実際の姿よりも大きく見えた。

 そんなとき、俺の前に立ち、赤天錆との間に立ちはだかる少女の姿があった。

 彼女は血の流れる腹を片手で押さえながらも、もう片方の手で毅然と傘の剣先を赤天錆に向けている。


「麗夏、休んでろ」


「できない」


「お前に死なれたら、俺は学校に行けなくなるんだよ」


 我ながら情けない文句だと思った。


「それでも、だ」


 麗夏は告げる。


「今、この瞬間は、麗夏の命を賭すに値する」


 その言葉が、俺の頭を強く打った。

 俺なんかのために?

 麗夏を挟んで正面にいる赤天錆が口を開いた。


「なぜ、人間の味方を、している? お前も、天錆だろう」


 そう、赤い天錆は告げた。

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