第5話

 祐海の興味はすぐに終わった。画廊の入り口から端に行くまでに立ち止まったのは、たったの数回だけだ。


「時間、余りましたね」

「そうだね。絵は何枚持って来たの?」

 詠地が空白がないように話題を振ると、「忘れました」と内容の無い返事。

 でも祐海は詠地の隣から外す足取りを見せない。会話を続ける意思はあるということだ。

「ねえ、どうして海しか描かないの?」

 祐海はちょっと口の端を上げて、「海が得意なんですよ」と言う。

「あの海……俺が前に買った、君が書いた絵の海。あれはどこの海なんだ?海外のようにも見えたけど…」

「ああ、あれは……」

 言いかけて、祐海がやめた。

「いえ。知らない方が綺麗に見えるから、言いません」



 オーナーが絵の鑑定を終えたのはそれから少ししてからで、祐海は画廊の奥、前に絵を買った時に詠地が入れられた場所にするりと吸い込まれていった。


 詠地はさっき、祐海が立ち止まって見た、大きな顔の絵の前に戻って見た。


 見れば見るほど、どこに飾るのかとんと見当がつかなくなった。キャンバスは詠地が買ったものとは比にならないくらい大きくて、顔の上半分を描くには、キャンバスの上側に回って描かなければいけないほど大きい。

 色は丁寧に塗られていて、黒い線からはみ出していない。技術はないが、丁寧さは見て取れる。

 画廊の従業員が赤い札を手に、詠地の前へ来た。売り付けられるのか、と一瞬身構えた詠地だが、従業員はその札を、詠地の見ていたでかい顔を置いたイーゼルの木にペタッと貼った。

 あまりにもすんなりと、真顔でそうするもんだから、こんな素っ頓狂な絵でも買い手がつくんだと、詠地は面白く思った。


「その絵、売れたんだ」

 後ろから祐海の声がして振り向く。

「まさかね。売れるとは思ってなかった」

「そうですか?結構高いと思いますよ、その絵」

「どこらへんが?」

「素っ頓狂ぐあいが、マニアには受ける」

 そうか、その、すっとんきょうっていうのが、マニアには美味しいところなのか。詠地は芸術のことなど何も分からないから、ふぅんと返事した。


「あの、詠地さん、でしたよね。名前覚えるの苦手で」

「うん。俺もです」

「どうして、芸術の事に疎そうなのに、僕の絵を買ったの?」

「……さぁ。俺には分からない。でもなんか、絵がかわいそう、だった…って言ったら失礼だね。ごめん」

「かわいそうだった?どんな風にですか?怒らないから聞かせて」

 詠地の顔をじっと見つめる祐海の目は、批判ではなく好奇心に見える。詠地はググッと考えて、やっと出た答えは抽象的だった。


「連れてってください、という感じがしたんだ」


 祐海は「そうですか」とだけ言って、また後ろ姿が画廊の奥に消えそうになる。

 その時詠地は、「これだ、まさに、これだ。」と思った。


「祐海くん!」

 祐海が小さく、ちょっとだけ振り向いた。顔の表情全てはわからない。


「もし良ければ、うちで話さないか?」

「うちで、って。あなたの家ですか?」

「ダメなら公園でもいい。でも公園だと週刊誌に撮られるかもしれない」


 祐海の顔が怪訝そうになる。

 詠地は言葉を選ぶ暇がないのを、即座に感じ取ったので、言うことにした。


「沢山の海を見た方がいい、君は、特に。僕の家に住んで、週末、海を見に行かないか?部屋ならある。病院みたいな部屋だけど、真っ白だけど、君の好きな色に塗っていい」

 祐海の目が一瞬にして輝いた。

「本当に、何色に塗っても?」

 祐海の瞳がきゃっきゃと笑っている。

「何色に塗っても。」

「じゃあ、オーナーからお金もらったら、行きます。下見させて。いいキャンバスだったら、描きます」

 祐海の次の背中は、飛び跳ねるように消えていった。

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