第3話

 詠地はしばらく、絵を手に持ちながら、飾る場所を考えてうろうろしていた。

 飾らないという選択肢も浮かんだが、誰の目にも入らないまま時間を過ごさせるのは、あまりに絵にも作者にも申し訳ない気持ちになるのでやめた。

 結局、詠地はその絵をピアノの楽譜を立てるところに、あえて額縁を取って置いた。角度もちょうどいいし、時々しか触らないピアノもちょっと華やかになった。

 あくまでこの場所は仮置きだ、と思っていたが、あまりにもピアノの黒の光沢に絵が映えるので、このままここに置いてしまってもいいかなと詠地は思った。


 風呂に入って、リビングに行って、ワインを開けてネットをいじる。メイクさんに言われているから、毎晩蒸気の出るホットスチーマーを顔に当てている。

 チラリとリビングの隅のピアノを見ると、あの絵がドンと鎮座していた。

 画廊で見たときはライトアップで環境が整えられていたから気づかなかったが、家という庶民的な場所に、あの絵は些か目立った。

 詠地の家は家具もほとんど白で、同業者が時々来ると、「病院みたいじゃん」と口を揃えて言う。


 病院の中に、燦々と光る海。


「……お前、目立つなぁ」


 詠地が蒸気の中で笑う。なんでか、まるで他人だとは思えなかった、あの絵。


 触っていたスマホが震えたので視線を戻す。今日の同業者の男からメールが入っていた。

『今日は俺も楽しかったよ。絵、どこに飾った?』

 同僚の男からすると、「詠地も」楽しかったことに、勝手になっているらしかった。

 詠地はその絵をどこに飾ったのか話すか迷った。

 その絵が今どこに存在するのか、誰にも知って欲しくない気がしたのだ。まるで、絵の海がどこなのか、詠地が知らないように。

 かと言って、秘密と言ったら男は家に上がり込もうとするだろうし、場所を素直に言っても様子を見にくるだろう。

 詠地は返信した。

『なんだか気に入らなかったから、奥にしまっておくことにしたよ。今日はありがとう、おやすみ。』


 嘘っぱちでいいのだ。本当のことを言ったところで、本当と取られない場合が多いし、本当のことほど人の噂になりやすい。

 男はすぐに返信して、『そうか。あの絵癖が強いから、お前の家には似合わないと思ったんだよ。だから言ったろ?今度、お前の家に合いそうなの見繕ってやるから、また一緒に行こうな』と返してきた。


 画廊、というのは、富士山の絵が陳列されている、富裕層のための場所だと、詠地は思っていた。

 あの画廊が面白いかと言われると、詠地ははっきり言ってそうだとは思わなかった。興味を持てた絵は、ここにある、これだけだったから。

 正直、他の絵は覚えていない。確か、紅葉の綺麗な絵だけは他の色より暖かくて、覚えてはいたが、その程度。


 スチーマーの蒸気が温かい。スマホがまた震えた。


『で、いつ行く?画廊。』


 詠地はスマホの電源を切った。その頃にはスチーマーの水が足りなくなっていて、本当はもう少しやったほうがいいとも言われていたが、化粧水を多くつけときゃいいだろうと思ってそうする。



 演技の練習をするのは夜遅く。詠地は基本、映画かドラマの撮影しか仕事をしていない。バラエティーは出ない。


 自室の練習室だけは、このマンションに入るときに口うるさく指定した。全て真っ白で、声が下手に反響しないように、素材は他の部屋と変わらない壁。下の階に響かないよう、床だけには防音を貼った。


 スポーツドリンクをシェイカーに、マグカップにコーヒーを淹れて眠気覚ましに。その二つを持って、詠地は練習室のドアを開ける。部屋の奥に二つを置いて部屋のドアを閉める。

 真っ白なカーテンを開くと、一面の鏡が顔を出す。ここ二年くらいはこの環境で練習している。


 つまり詠地は二十歳で初めて演技をし、二十二歳でこの家を手に入れた。

 台本は次の映画のワンシーン。まだクランクインがずっと先なのに、詠地が練習をするのは、完璧主義だからではない。


 ただ詠地は、この部屋では、自分ではない誰かになれる。

 この世の噂とか人の口の形とか、目線や囁く声を一切関係ないファンタジーな存在に、自分がなれる。

 詠地は演技の練習を、練習だとは思っていなかった。ただ、自分以外の誰かに憑依できる、神聖な時間だと思っていた。



 身に覚えのないメール番号だったが、詠地は一瞬で飛びついた。あの画廊のオーナーからの連絡は、新しい映画の撮影中に入っていた。


『詠地様、以前は画廊の絵を気に入っていただき、有り難う御座います。海の絵を描いた作者ご本人が、来週こちらの画廊に数点、絵の持ち込みをすることになりました。絵を気に入った方がいらっしゃると、本人に伝えましたら、ぜひ会いたいということでした。九月三十一日 午後三時ごろ作者が画廊にいらっしゃいます。もしお時間があればおいでください。 オーナー 秋田より』


 詠地はすぐに、マネージャーの迫に確認を取った。偶然にもその日はオフで、全く予定がない。


 詠地はすぐにオーナーに行く旨を返信した。

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