第2話
「では、絵の方をお包みしますので。少々お待ちを…」
オーナーはあの絵を持って、画廊の奥の部屋の、さらに奥の部屋へ歩いて行った。
詠地は自分で絵を購入することが初めての経験だった。
今まで絵画に対して、すごいなと思う事はあっても、お金を出してまで手に入れたい、と思ったのはこれが初めてだからだ。
「お待たせいたしました。こちらが今回ご購入された絵と、これに付随する額縁でございます。ご購入は現金で?それとも、クレジットカードでもお支払いできますが」
「クレジットで。一括でお願いします」
「かしこまりました。ではこちらにサインを。私はカードを切ってまいります」
詠地がサインをして、オーナーがカードを詠地の手に返した。
これで、この絵は自分のものになったのだ。
オーナーから手渡された大きめの袋、ずっしりとした重さに、詠地は不思議な気分になった。
手に入れてはいけないものを手に入れたようにも感じるし、もともと自分のものだったのを返してもらったような感覚もした。
「あの……不躾で悪いのですが、この絵を描いた少年と話はできますか?」
詠地の言葉に、オーナーは苦笑いする。
「申し訳ありません。芸術というのは非常に繊細な分野ですので、絵描き本人が希望しない限り、連絡先や対面は基本無いことです。個展でも開けば作者に会えますが……」
「そうですよね。変なことを聞いてすいません」
「いえいえ。相当、その絵を気に入ってくださったようで。もしこの作者の新しい絵が入ったら、ご連絡いたしましょうか?」
「いいんですか?では、お願いしたいです」
オーナーは、年齢に似合わない最新型のスマホを胸ポケットから出した。メール番号を交換し、絵を手に詠地は画廊を出た。
「おい。本当にあの絵、買ったの?」
「ああ」
「何万したんだよ?」
「そんなに高くなかった。7、8万だよ」
「まぁ、他と比べれば妥当な数字だな。ぼったくられはしなくて、安心した」
「あのオーナーに限っては無いと思うけど」
「俺もそう思うんだ。老舗だし、あれで三代目なんだぜ。俺の爺さんが先代と知り合いで……」
同僚の長い話は、ぶつ切らなければ駅まで続きそうだ。
詠地はそこそこ話を聞くフリをして、時計を見た。「あ、」わざとらしい声を出して、タクシーを拾った。今日はありがとな、とだけ言った。
無駄に広いマンションの最上階は、セキュリティーがしっかりしているが、いかんせん、隠さなければいけないような秘密を詠地は持っていない。
恋人はここ数年居ないし、呼ぶような友達も居ない。
芸能界で一匹狼で、でも売れている。それは詠地のこざっぱりした本音しか言わない性格と、演技力の高さ故だった。本人も、自分に可愛げがない事は十分に自覚していたが、今はそれで問題ないから良しとしている。
家に帰ってマスクを外す。外見を隠すためだ。マスクがゴミ箱の中へ入って蓋が閉まった瞬間、詠地はなんとなくほっとする。
さて、絵だ。詠地は袋の中の箱を取り出し、開けた。
海の絵はすっきりとした、無駄な装飾のない銀縁の中で異彩を放っている。
詠地は絵に顔を近づけた。ガラス一枚で隔てられているそれがなんだか物足りない感じがして、額縁すら取って、絵をそのまんまの姿でテーブルに置いた。
ガラスの無機質なテーブルの上に、ただ海があった。懐かしいような気もする。この海はどこにあるんだろう?この絵を描いた少年は、海外の海を描いたのか。それともこの海は日本にあるのか?
知りたい。この海がどこにあるのかが、知りたくてたまらない。
詠地は絵に触れた、それは一瞬のことだった。
触れた瞬間、身体中がビリビリと痺れて、勝手に指先が絵から離れた。
詠地は自分の体が言うことを聞かなくなる感覚を初めて体験したので、驚いてその絵を急いで、また額縁に戻した。
しばらく詠地は絵を前にただ呆然と立ち尽くした。飾る場所だ、と気づいたのは5分も経った頃だった。
家の中で飾れる場所は沢山あったが、逆に沢山ありすぎてどこに置くか迷う。詠地の部屋たちはどこも真っ白で物がなくて、多分この絵はどの部屋に飾ったとしても、青く浮いてしまう。
寝室に飾るのは一番に考えたが、きっとこの絵に見られては眠られない。
リビングの家具とは合わない。客間に飾るのは、なんか苛立つ。
しばらく思案したが、最適な場所がないことに詠地は自分で苛立った。
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