3 内川町の榊家
――気山町の廃寺にあった大楠で起こった迷い神の暴走から数日後のことになる。
土地神が消えて、枯れてしまったあの大楠を取材していた海原テレビの記者榊守は、実家からの訃報連絡を受けていた。榊守の祖母のチヨが亡くなったのである。
連絡を受けたあと、会社に戻り後輩の井川トオルに簡単な引継ぎを行うと、訃報の連絡書類を書き込み、そのまま妻の理彩と実家に帰るために必要な荷物を自宅で拾い、そのまま実家のある四国まで榊の愛車である古いランサーエボを走らせていた。理彩の軽自動車でもよかったが、四国までの距離を考えると普通車の方がいいと考えていた。
東里を出発したときはすでに夕方であり、夕日が照らす中で南へと車を走らせていた。一旦西に車を走らせ東里市をわたる
その高速も一旦降りて、国道の道をひた走る。県境のトンネルを抜けると隣県の岡山県に入る。少し走ったところで終点となり一般国道に戻る。岡山市の近くにある山陽自動車道から四国まで向かう。それでも下道を利用することは変わらず、東里から岡山までは3時間近く掛かるが、ほぼ同じ距離の岡山から四国までは1時間半と高速道路の利便性を痛感してしまう。とはいえ、ランサーエボ独特の強力な馬力とトルクの影響もあり、道中のドライバーの負担は軽い。
岡山を越えて倉敷から瀬戸大橋を走りながら、流れる感度の悪いラジオの音をよそに、榊守は黙ったまま車を走らせていた。時々カーナビから通過地点の情報や、電波ビーコン情報が流れてくるが、榊は何もしゃべらなかった。それは隣に座るといつもこの10年落ちの榊の車に対して、段差じゃ飛び上がる、運転席だけでなく、助手席も外国製スポーツシートの影響で、リクライニングはレバー一つでできないわ、シートは硬いだのとぼやくことが多い妻の理彩は、夫の沈黙したその表情に対して今日は何も問いたりはしなかった。そんな夫は無言でジャンクションを的確な速度で減速をすると、合流に向けアクセルをあおり、3250回転まで持ち上げると一気にクラッチを踏み込み、アクセルを離す。下がり始める回転数を横目にマニュアルシフトのギヤを上げて一番ギクシャクしない回転である2500回転にメーターがさしかかると一気にクラッチをつなぐ。つながったショックはほとんど皆無で何事もないようにつないでいく。
榊は道中ほぼしゃべらなかった。理彩も特に何かを語ろうとする気配はない。理彩自身も今回の件については夫である守の陰に徹する事を貫くつもりなのであろう。同時に榊の運転中はしゃべる事はないわけではないが、ほとんど黙っているほうが道を間違えることがない。理彩からすれば榊の実家に向かうのは榊同様5年ぶりと言う訳ではない。何度か榊の両親は東里に来ることがあったので、対応したりとそれなりの仲ではある。榊自身は仕事でいない場合もあり、これだけはタイミングなんだろうなと感じている。
そんな沈黙の車内で榊は、周辺を気にしながらも少し祖母のことを思い出していた。
榊にとって地元に帰るのは5年ぶりだった。仕事が多忙になったことと結婚したことで、色々と疎遠になってしまったところもある。結婚後も子供がいればもう少し頻度はあったかもしれないが、そんなうれしい話もなく、お互い恋人同士のような時間を楽しみ、東里が理彩の地元であり、どちらかというと理彩の実家でお世話になることも多かった。榊守にとって、四国の地元にはあまり思い出も未練もここ数年ない。いや、帰ろうという意識を何かがさえぎっている感じが多少なりともあるのかもしれない。ここ数年、特に疎外になることが多く感じている。
ただ、心底か脳裏に引っかかる『何か』が榊守の足を向けようとした事もあった。
榊守の左腕にある古傷――最近色々と疑われだしたきっかけにもなっているあの古傷だ。
まだ小学校に入る前で、平成ではなく、昭和だった幼少の時、事故がきっかけで左腕を火傷する事態になった。ただその事故の記憶というのは無く、事故発生時には気絶をしていたのかもしれない。微妙に覚えているのはその頃の実家は古い木造の民家で典型的な農家の家のようなスタイルで、榊守が生まれる前には耕うんの為の牛を飼っていたとは聞いている。事故はその時の実家で起こったと言っていたが火元もなければ、結局どこで自分が事故に巻き込まれたのかもわからなかった。
その事故以来、左腕の火傷の跡はそのまま残った。そしてその症状で、何かと身の回りで奇妙な物が見えるという現象が起こっていた。事故後何度か両親は噂を聞くと榊を連れ出し病院に向かわせ、傷を治そうと奔走していたが、何度か治療を行ってもその傷が治るような事はなかった。やがてそのような事も諦めて、榊は常に長袖を着る事になり、周りの人には長袖に対して質問される事が多くなった。あくまでも火傷ではあるが、その痕は若干濃くなり、更に周りから余計な興味を引くようになると、常に隠す事になった。
そして本題だった事故の原因というのも、榊本人が聞こうとしても、親や周囲の人間からは『憶えがない方が幸せだ』と言われ続けて機会を逃していた。そのことをよく知っていたらしい祖父の英明も榊が高校時代に亡くなり、祖母はその数年後に認知症を患ったため話もできない状況だった。その祖母も今回亡くなったことで、身内らは情報を聞き出すことが、ますます難しくなってしまった。
その榊の祖母である榊チヨはここ10年の間は認知症によりほとんど記憶は混濁していた。榊自身も過去に聴こうと思い聞いたことはあるが、その部分の記憶がきれいになくなっていた。亡くなるまでの2、3年の間は市内にある老人ホームに入所して、元々ガンも患っていたが、認知症の記憶混濁も影響したのか、その部分で苦しむということはなかったのだという。
とはいえ、榊の余計な介入で記憶の一部が変に呼び出されたとしてもそれを受け止められたかと言われれば、それは微妙なのかもしれない。
その部分では佐山の存在も少し理由としてある。普段から東里にいる佐山は榊の情報屋としても動いているが、元々四国にいたときから榊の周りで存在して、事あるごとに動いていた。ほとんど監視役でもあるあの男の前では、余り詳しい事も聞く事ができなかった。
――それだけ俺の過去は何かあったのか?
その疑念は、事あるごとに何度も起こっていた。そしてその疑念が増す度に思ったのは、その恐怖の大きさ。
それは、誰もが隠す榊の幼少時代の記憶、それは時に悪夢のような状況で発生する事が多かった。炎に囲まれ、すべてを燃やし尽くそうとする中、榊は自分のかもわからない血だらけの手を見つめただ震えていた。そこには山伏たちの姿と、佐山、そして死んだ祖父の英明もいた。その目はただただ冷たく、自分の声も届かないそんな状況下の中で、うなだれた自分の目の前にはうつぶせに倒れた山伏姿の人間が横たわっている。それはピクリとも動かず、只項垂れていたが、その苦悶の表情は思い出したくないものだった。
――それが事故の全容でもありきっかけだったのだろうか?などとも思うこともあるが、そのあたりも含めて不明解なところが多過ぎる。
そんな雑念を感じながら榊はひたすら高速を走り続けた。
香川県境を越えて、さらに西へと車を進めていく。数箇所のインターチェンジを越えて目的の内川インターチェンジに近づくと減速を始める。
インターチェンジを降りるとそこは西川市の東側、旧内川町に入っていた。インターチェンジ近くの中心地から離れて、静かな集落へ向かう。高速を走り終えたランサーは速度を落としてはいるが、ステンレスマフラーの影響もあり、低音が響いている。
実家に近づくと人の流れができており、実家の周りでは喪服姿の人が詰めかけていた。
「なにこれ……」人の多さに理彩が不安を感じている。榊はその対応に厳しい表情をしている。
実家に車で入ろうとすると誘導灯を持った人に静止を求められた。警備員らしき人間は場違いな榊の車に怪訝な顔をしながら窓ガラスをコンコンとたたく。榊が窓ガラスを下ろし、顔を見せる。部外者は入れないと警備員が言い出すと、榊がホーンを長く鳴らした。そのホーンに周囲が驚き始めて注目が集まる。しかし榊は鳴らすのをやめなかった。
その音を聞いて家から関係者が現れると、一人ガタイのいい男が榊の車のそばに付く。榊はその姿を確認するとホーンを止めた。
「何のつもりだ」男が榊に話す。
「そこの無能な警備員に腹が立った。さらに言えばあれは警備員じゃなくてお前の部下だろう、杉崎?」
杉崎が苛立つが、榊が杉崎に関せずという感じで返す。
「……爺さんがなくなったのならまずしも、必要か?ここまでの事が」
榊の車だけでなく、実家の周囲には大量の弔問客が訪れていたが、祖母の素顔はここまでの広さではないことは榊も重々承知だった。その言葉には冒涜もあるだろうが、これと全く同じ状況を榊は10年以上前の祖父の葬儀でも見ていたからだ。
「申し訳ないが大叔母様の希望でな。神還師の妻としての振舞いを…」
「そういう事は生きている間にしてやるのが筋だろうが。」
榊の口調が少し強くなる。
杉崎の苛立ちは引き、榊に移っていた。
「名だけ者に対する相応の侮辱にしか思えんな」
「わるいがそれ以上は…」
シフトをニュートラルに戻し、踏んでいたクラッチを外すと榊は身を乗り出す。
「それ以上何だ?」
「守君の言う通りよ。」
榊と杉崎が声のする方を振り向くと、黒の着物を着こんだ一人の老婆が立っていた。彼らが大叔母様というその女性は榊家の分家である柏家の総代である
「大叔母様」杉崎が一礼する。
「お久しぶりです。」榊も振り向いたまま頭を下げる。
「元気そうね」香織がにこりと笑う。
「色々と聞きたい話もあるけど、そのあたりはまたじっくり訊かせてもらうわ。杉崎、時間が押しているから、もう少し手際よくやってちょうだい」
「わかりました」
杉崎は渋々と榊の車から離れる。
「こちらからの無理を聞いていていただいているのよ。迷惑かけないようにしなさい」
杉崎は実家の裏のスペースに車を止めるように指示をかける。榊は車を停めると、理彩とともに荷物を裏口から入れる。香織はそのタイミングを見計らうと榊に近づいて来る。榊は理彩に荷物を入れるようにというと理彩は奥に入った。そのタイミングで香織が切り出す。
「不服なのはわかっているわ。神還師の妻としてというのは殆ど建前で、チヨさんと私は古くからの友達で、榊家の事や英明さんについても個人的に悩みに乗っていた。だから今回の葬儀は殆ど私の希望でさせてもらったわ。あなたのおじい様も、ああやって文句を言われていても尽力してくれたの。それは途絶えた榊家を守ってくれたんだから。」
「どうなんでしょうね、私の知っている限りでは恨んでいた感もありましたが。」
「そうかもしれないわね。あなたはあの人の最期を近いところから見ていた人だものね。」
香織は静かに話している。
「とはいえ、ここまでも葬儀が要りますか?特に神還師の葬り方なんて、祖母自身はその能力自体無かったじゃないですか。」
神還師の葬り方、それは命が尽き今までの土地神との断りや相談に対する礼として守った町を半日かけて練り歩くというものだ。神還師の骸は火葬前の棺に納められた後、それを人の手によって持ち上げるが、近年は台車に乗せることもあれば、霊柩車に乗せて運ぶこともある。
「その理由はまた話すわ、今は早く会ってきなさい」
そのまま香織は戻った。
――祖母のチヨは静かに眠っていた。
榊夫婦は静かに手を合わすと。両親と話をする。
「最終的には老衰だが、前からがんも患っていた。そこに近年煩っていた認知症のおかげで痛みや苦しみは少なかったんだ。それでも90まで生きられて、ひ孫までいたんだ。幸せな方だろうよ。」
榊の父である、榊京介は息子に語る。その息子はただ静かに黙ったままだ。
「……また判らなくなったか」
その言葉に京介が反応する。
「そういえば佐山さんから聞いたが、向こうでなんか手伝っているのか?」
「成り行きだ。」
「東里で問題を起こしているわけではないんだよな」
……不良の高校生じゃあるまいし、榊は少しあきれかえる。
「お前の過去の事なんて知らない方が良い。今更知ったところでただただめんどくさく、お前の人生には邪魔なだけだ」
京介の反応はあっさりとしすぎているが、それがかえって疑念を強くしている事を知っているのだろうかと感じてしまう。
「その割に疑問しか残してくれないな」
相応の嫌みで返すが、京介の反応は薄い。
「そういえば、お前の高校の知り合いに山口って居たか?」
突然京介が切り出す。
「山口?……居たかもしれんな。そんなに全員の名前は知らんが、なぜ?」
「コッチの
「取材って何を?名刺はないのか?」
「さぁな、多分参列すると思うから訊いてみると良いだろう」
あの参列から見つけるのは至難ではないか?よくは知らない状況での話だ。
しかし、その参列の中にも若い人がいるんだなと思ってみていたら、目が合った。
しかもどこかで見た事がある顔だった。
「あ、いた」
そのそばにどこかで見た顔の内の一人が、榊を指さした。
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