服薬
その日の瞼は異様に重かった。胸もひしゃげたように苦しい。詰まるような不快感にようやく自分が息を詰めていたのだと気が付いて、修介は大きく口を開けた。
は、は、は、と吐き出す空気が性急に喉を通り過ぎて、粘膜がひりついた。
酸欠で頭がぼんやりとしている。眠気とは違ったその感覚に、修介は顔をしかめた。
落ち着かない。強張る体を転がすように寝返りをうった。
衣擦れの音が縄のすれる音に重なって、修介の体がぎくりと強張る。
胸の音が騒がしかった。
夢は見ていなかったように思う。直前まで、修介は暗く、静かな場所にいた。そして今も。
室内は黒く沈んだまま、時計の音だけが乱れなかった。
痺れる指先を探るように動かせば、携帯電話を見つける。
寝付く直前まで調べていたのは昨夜の電話の相手のことだった。名前も、性別もわからない相手ではあったが、唯一今何をしているのかはわかる。
昨夜はどんなにニュースサイトを見ても、それらしい話は掲載されていなかった。それとも、縊死など騒ぐほどのことでもないということか。
再び携帯の画面に昨夜の日付とそれらしい単語を打ち込むが、めぼしい情報は得られなかった。
暗闇に視線を戻せば、画面の白い残像が四角く切り取られて部屋に浮かぶ。
視線を追いかけるようについてくるので、小刻みに左右に揺れていた。
電話の相手は未だにどこかでぶら下がってるということだろうか。
その場面を鮮明に想像してしまって、心はさらに萎えた。連日の電話の正体が未だにつかめないでいる。
時計は三時半を少し超えたところだった。
丑三つ時。草木も眠っているようで、外からの音は一つも拾えなかった。
修介の耳に残っているのは一辺倒な宣言である。三度も聞いた。そして、今日も聞くという予感があった。
静寂に耐えきれなかった耳鳴りにさらに心は乱れる。
その時だった。
携帯電話が大声で泣いた。
ディスプレイには決まりきったように知らない番号が表示される。
息を整えるのに三コール。たっぷり焦らして、修介は電話に出た。
「今から死にます」
予言めいたその一言に、修介は息をつめた。 声の主は男性だ。だが、どこか切羽詰まった印象を受ける。電話口から聞こえる呼吸音が短いためかもしれなかった。
「少し話さないか?」
事情は飲み込めている。修介にできることは限られていたが、勝手はわかっていた。
「……は、話し、ですか? どうして?」
短い息を吐きだしながら、相手が戸惑ったような雰囲気を感じる。
「理由を聞きたいんだ」
「……理由?」
声の主が死ぬ理由。電話で自死を告げる理由。それが角塚修介である理由。全てを知れずとも、一つ二つでもその事情を把握したい。
自己都合な延命だった。
相手は逡巡するように黙る。浅い息遣いだけが聞こえていた。
ともすれば、電話が切れたのかとも思うような長い時間が流れて、お互いに押し黙ったまま。暗い部屋の中、互いの呼吸音だけが聞こえる唯一だった。
「あんた、覚えてないんだな」
「……なにを?」
「人を呪わば穴二つだ」
だしぬけにそんな言葉を掛けられた。真意をつかみ損ねたままの修介の問いに、相手は答えなかった。
彼の望む答えがそれであるのかわからぬまま、淡々と独白が始まった。
「あんたに名を尋ねられた。知らない番号をとる自分が一番迂闊だったのは分かってる。でも、これは俺の責任じゃない。お前のせいだ」
短い息を吐いていた声が、意図的に長く細く息を吐きだす。
「後悔してももう遅いぞ。覆水盆に返らずっていうだろ。お前が撒き散らしたもの、お前が全部拭わなきゃこっちも腹の虫がおさまらない。」
そこでぴたりと言葉が止まった。
修介は固唾をのんで見守る。呼吸音の中にも真実が混ざっている気がした。
は、は、はと繰り返される呼吸の中に、時折嘔吐く音が混ざるようになった頃。再び電話口には声が響いた。
「あんたは、あ、あの時……安心した、のかもしれない……けど、お、俺た、ちにとって、は地獄の、始まりだった」
地獄とは何か。この状況のことか。始まりとは。尋ねようにも、相手の声は途切れ途切れで、もう答えられそうにない。
「角塚修介、返す。あんたに」
完成図のないパズルのピースを数個渡されただけだ。
こんな断片から理由など、分かるはずもない。
「これが、始まりじゃ、ないんだ」
途切れ途切れにそう言って、また嘔吐く。電話越しに、水音と激しくせき込む音も拾える。
「後悔先に立たずだったな」
妙にはっきりと、明確に言い切ってそれからぱったりと声は聞こえなくなった。
浅く続いていた呼吸音の間隔がだんだん長く細くなり、埋もれるように消えていった。
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