飛び降り
は、と修介は目を覚ます。悪い夢を見ていたような気がしたのだ。どのような夢かは定かではなかったが、良くないものだということは分かった。心には後悔の念や、憤りに似た何かが渦巻いていた。
今日も体は言うことを聞かず、常夜灯は消えていたし、窓は暗い部屋の中で切り取られたようにぼんやりと明るかった。昨日と違うことと言えば、時計の蛍光盤が指す時間が一時ということである。
修介はしばらくカーテンごしに窓の外を見ていたが、何の変化もないのに飽きたのかふいと目を背けた。
修介の胸の上には携帯電話が乗っている。調べ物の途中で睡魔に負けて寝てしまったのだと思い出して、途切れた思考を繋ぎ合わせた。
昨夜に交通事故で人が亡くなっていないかと色々調べてみたりはしたが、収穫はなかった。だが、昨日のことはきっと事実なのだ。修介の携帯電話には通話履歴が残っていたし、彼の昨日訊いた声も嘘ではないという確信があった。
彼の信条として、まずは己を疑わないというものも作用していたが、昨日気を失うようにして眠りにつき、今朝起きた時に胸に後生大事に携帯電話を手がしびれるくらいに握りしめていたからだった。あの男性の声もクラクションの音も、彼が角塚修介と自分の名を知っていたことも、夢でも幻でもない。現実なのだ。
ならば、なぜ見ず知らずの人物が修介の名や電話番号を知っているのかという疑問にも行きつく。
修介が忘れているだけで知り合いであるのか、それとも修介の全くあずかり知らぬところで接点のある人物なのか。いかようにも解釈、推測はできたが、本人に尋ねるか修介が思い出さない限り、やはり答えはだないものだったろう。
ただ一つ確かなことと言えば、「俺、今から死ぬんだ」というその一言が確かに大きなくびきとなって修介の胸をぐいぐいと押しているということだった。
なぜ、何が、と思考を深めるうち堂々巡りに陥りそうになっているのに気が付いて、修介は一度短く息を吐いた。
体はやはりうまく動かない。金縛りに近いものかとも思った。なぜなら、日中は問題なく過ごせていたし、何なら調子がいいくらいだったからだ。
脳だけが活動していて、体は休眠状態。いや、修介の場合は体が考え込んでいるとでもいうべきか。それほどまでに思考はさえわたっていた。
緩慢に視線だけを時計の方へと向ければ、時刻はもうすぐ二時を少し回る。
もうそんな時間かと、修介が目を閉じたその時だった。
暗く静かな、棺の中のようなその部屋に携帯電話が泣き始める。一瞬おくれてディスプレイが煌々と輝きだし、修介は唖然としながらもその着信をとるしかなかった。
ディスプレイには例によって見知らぬ番号が表示されている。
修介が何か言いだす前に、電話口から声がかかる。
「私、今から死ぬんです」
風に消されそうなか細い震えた声だった。 確かに女性のもので、時々混ざる嗚咽に修介は不気味なものを感じていた。嫌な予感だ。昨日の再現のようにも思えてしまって、自分の体が自由に動くのであれば、きっと身震いをしていたに違いなかった。
「あんた、番号間違っているんじゃ」
「いいえ、あなたです。角塚修介。あなたです」
ぐ、と涙をこらえる音の後ろでは、豪々と風が喚いていた。その音に邪魔をされ、この電話の目的も相手がなぜ自分の名前や電話番号を知っているのかということもいったん脇に置いておくことになる。
「し、死ぬって……冗談だろ? なあ」
「……」
「ど、どっきりなんじゃないのか? 俺を担いで楽しいか? 誰に言われた?」
「……」
轟轟と続く風の音に耳を傷めながら修介は相手の出方を待つ。
小さくカチカチと何かがぶつかる音を先鋒に、同じ言葉が繰り返された。
「私、今から死ぬんです」
また、轟轟と風の音がノイズのように流れ込んだが、修介は耳を離さなかった。
かけるべき言葉は何だろうか。
そもそも、彼女にふさわしい言葉があるかどうか。
耳を割く風の音に交じってまたカチカチと何かぶつかる音が聞こえる。
震えているのだ。
寒さか、恐怖か。それとも、他の感情が。
「おまえだ、角塚修介。返してやる。お前に」
それっきり、風の音しかしなくなった。
修介の携帯電話の充電が切れて、部屋はまた棺桶のように静かになった。
それから数分もしないうち、朝の日が昇って報道番組で女性が高層ビルから飛び降りたのを知った。
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