第5話 暗闇の花

 キッチンのテーブルの上に手を伸ばして探ると、何かに手が触れた。懐中電灯だった。お父さんが置いたのだろうか。明かりを点して、それがお父さんが持っていったものと同じだと分かって驚いた。二人はキッチンに戻ってきたんだ。でも、二人の姿は見えない。

 懐中電灯を手にして心強くなった私は、もう一度トイレの方へ、二人を捜そうと考えた。が、二人は戻ってきたのだから、そこにはいない気がした。どこかで、私と行き違いになったのだ。こうして暗闇の中で、じっと待ってはいられない。何とかしなくてはと、気持ちばかりが焦ってしまう。私はできるだけ、キッチンから離れないように、近くの部屋を捜すことにした。玄関の方は誰かが来て、困ったことになるのが嫌だった。私は懐中電灯の明かりに励まされ、キッチンを飛び出した。

 キッチンから伸びる真っ暗な廊下は、懐中電灯で光を当てなければ、存在すら分からなかった。嫌だな。こんな所を通るのは、誰だって嫌に決まっている。光を足元から真っ直ぐに伸ばすと、ゾッとするような景色が見えてくる。廊下は変わらず静まり返り、お父さんお母さんの姿は見えなかった。胸がドキドキする。二人をどうしても捜さないといられなかった。

 私は廊下の途中にある、風呂場をのぞいてみた。ここにもいない。当然、明かりも点っていないし、湯船は空っぽだった。風呂場は暗闇の中では、特に不気味で恐ろしかった。あんなに安心して、ゆっくりと湯船につかっていられるのが、ウソみたいだった。

 どこも怪しく照らされ、寒々として暗闇が好んで住み着く場所のように思えた。私は、一分とそこにいられなかった。急いで扉を閉め、廊下に戻った。

 私は二人の寝室へ向かおうか、ちょっと悩んでいた。また行き違いになったら、怖い思いをするだけだ。二階は怖くて、とても一人では上がれない。でも、他に探す当てがないから、私は玄関まで回って、階段の上をのぞくことにした。玄関口は相変わらず、異様な雰囲気が漂っていた。

 懐中電灯の光を当てると、玄関扉のガラスがギラギラと光った。こうして光らせておくと、誰かが来るような気がして恐ろしくなった。

 よく玄関の床を照らしてみると、靴が並べてあった。それが懐中電灯の光を受けて、急に飛び出したみたいに暗闇に映った。靴は四足出ていた。

 お父さんの大きな靴は、黒く光ってちょっと怖かった。大きな虫が、じっと止まっているように見えたからだ。お母さんの革靴とジョギングシューズ、最後に私の運動靴も見えた。そのどれもが、普段とはまるで違って、色や形までもが奇妙な物に見えた。光を当てると、全く動かな物が、動いて見えるように思えた。でも、まだ自分たちの物だからよかった。これが全然知らない人の物だったら、もっと驚いただろう。

 私は玄関から、廊下を曲がって階段口へ立った。壁のプラスチックのスイッチを、パチンと鳴らすと明かりは点らず、黒い葉っぱがすくすくと育って、黒い紫陽花が葉っぱを広げて、天井から逆さまにぶら下がって咲いていた。階段一段一段の上にも、生い茂るほどに黒い紫陽花は並んで、通せん坊するようだった。どうしよう。上がる上がらない。上がる上がらない。押し問答するみたいに、私はつぶやいた。懐中電灯の光を階段の隅々まで当てると、黒い紫陽花は見る見るしおれて、枯れてなくなった。が、光が当たらないと、またすくすく育って黒い紫陽花が花を揺らした。私はできるだけ広い所を照らしながら、一歩一歩慎重に階段を上り始めた。思った以上に、暗闇の階段は恐ろしかった。階段の床や天井に生えた黒い紫陽花は、私が通るとカサカサ揺れて音を立てた。怖くて光を当てると、すぐにしぼんで消えてしまう。階段を上れば上るほど、階段の下が気になった。当然、階段の上も気になった。急に何かが暗闇から飛び出してくるのではないかと、私は心配で足が上がらなかった。黒い紫陽花の茂みを越えて、やっとの思いで階段を上り切っても、そこにもまた暗闇が待ち構えていた。待ち構えていたのは、黒い向日葵の群生だった。大きな花と葉っぱを揺らして、おいでおいでと誘っている。暗闇は、どこまでも尽きない。

「お父さん、お母さん。いないの?」

 二階の廊下へ出て、三つ並んだ部屋に呼びかけた。私の声だけが小さく響いて、黒い向日葵の葉っぱを、かすかに揺らした。懐中電灯で、部屋の扉を探しながら、ゆっくりと二階の狭い廊下を進んだ。黒い向日葵は光を当てていないと、すぐに生えてきて、私の背丈ほどまで伸びた。黒い茂みを分けるように進んだ。じっとしていると、恐怖が追いかけてくるような気がした。

 一番初めに、私の部屋をのぞいてみた。開いた扉から、用心深く中を調べた。そこには黒い朝顔がツルを伸ばしたり縮めたり、花を咲かせたりしぼんだりして暗闇を満たしていた。懐中電灯の光が輪を作って、部屋の様子を少しずつ暗闇に映し出している。光を移すたびに、色々な物が浮き上がって現れた。そのどれもが、私を驚かせようと勢いよく飛び出してきた。黒い朝顔は、光が当たるとパッとしぼんで消えて見えなくなった。が、また光が当たらなくなると、どこからともなく、どんどんツルを伸ばしてきて、真っ黒な葉っぱを茂らせ、黒い花を静かに開いて、部屋を暗闇に包んだ。

 自分の部屋なのに、真っ暗になると全く別の物に見える。学習机やベッド、本棚、そこにある物は、全て慣れ親しんだ物なのに、なぜか他人の部屋をあさっているふうに、不安になった。私の不安を助長するように、黒い朝顔は花を咲かせ、実を結んで、黒い種を床にばらまいた。まいた種から、すぐに双葉を出し、ぐんぐんとツルを伸ばして、暗闇を濃くした。

 黒い朝顔の間から突然、現れた熊のぬいぐるみに、私は叫びそうになった。これだって、私が誕生日に、おねだりして買ってもらった物だ。それが暗闇の中では、恐ろしい怪獣に変身していた。私はあまりの恐ろしさに、たちまちそこを離れたくなった。急いで部屋の中を光でかき回した。かき回された黒い朝顔が、落下傘のように部屋の中を舞った。私は部屋の中に、誰もいないことを確認した。

 残りは、お父さんの書斎と物置だ。私は黒い向日葵の中をかき分け、足早に書斎の前へ行って、その中を確かめた。黒いアヤメの群れの中に、すっと懐中電灯の光が射し込むと、合図したみたいに、辺り一面が静まったように思えた。さっきまで、そこでひそひそ話をしていた、本棚たちが大人しく並んで現れた。書斎には、本棚の他にお父さんの机や椅子が置いてあった。光を向けるまでは、それを覆い隠すように、黒いアヤメがカラスが羽を広げたような花をつけて、細長い茎を床一面から伸ばしていた。私は警戒しながら、その部屋に光を通して、中の様子を探った。まぶしい光に、黒いアヤメは次々に散って、バラバラなって見えなくなった。光が逃げると、たちまち元のように茎を伸ばして、黒い花を満開にさせる。そこにも誰もいない。お父さんの姿は見えなかった。

 黒い向日葵を分けて、最後に扉を開いたのは、黒いタンポポの花畑だ。そこには、たくさんの物が詰め込んであった。物置として使っていたから、いつもは誰も近づかない。テントなんかもそこにしまってあった。ひょっとすると、そこに古い懐中電灯があるかもしれない。そう思って、お父さんとお母さんは、探しに来たのかもしない。物置に誰もいないのは、すぐに分かった。

 物置に光を当てても、物があふれているだけだった。黒いたんぽぱは光を嫌がるように、綿毛を飛ばして消えてなくなった。光がなくなると、またギザギザの葉っぱを伸ばし、黒い花を咲かせ、綿帽子を生やした。そこら中を、真っ黒な綿毛だらけにしている。

私は、ふーとため息をついた。ため息に釣られて、真っ黒な綿毛が飛んだ。ここまで怖い思いをしながら、私はまた逃げるように、黒い向日葵の中を通った。黒い紫陽花の階段を下りてきた。階段を下りる音が、真っ暗で静かな家の中に響いた。

 二階から戻ってくると、玄関口に私を捜すような足音がした。懐中電灯の光を、キッチンの方へ真っ直ぐ伸ばした。黒いチューリップの群れが、さっと道を開けたように、揺れて見えなくなった。私はその光に照らされた廊下を、ドタドタと走り出した。お父さんが手招きして、まぶしそうに立っていた。お父さんの後ろには、お母さんの姿もはっきりと見えた。

「どこ行っていたの?」

 私は、泣き出しそうな声を出した。何日も迷子になって、再開した子供のようにはしゃいだ。二人も私が見えないから、心配で捜し回っていたのだという。

 私は、二階で寝るのは嫌だからねと宣言したとき、お母さんは仕方ないと眉尻を下げた。お父さんは面白がって、「じゃあ、三人で横に並んで寝よう」と提案してくれた。お父さんは喜んで三人分の布団を、リビングに運んできた。暗い中では、大変な作業だった。私は一々付いて行って、明かりを照らして上げた。

「懐中電灯、どうするの? 点けたままで寝ていい?」

 私は、懐中電灯を一時も離さなかった。これを持っていないと不安になった。目をつぶっているのと同じように思えた。

「電池もったいないから、消して欲しけど。いいよ。好きにしなさい」

 お母さんは、仕方ないという顔をした。

「ほんと!」

「でも、あかりが寝たら、こっそり消しますからね」

 お母さんは、ちょっと意地悪に私に答えた。

「えー。だったら目が覚めたら、また点ける」

「好きにしなさい」

 お母さんは、あきらめたように言った。私はそうすると答えて、しばらく懐中電灯の明かりの中で過ごした。


「ねえ。テント張っていい?」

 家の中は真っ暗だから、誰か来るんじゃないかと心配だった。それでテントを張ることを思い付いた。

「家の中でしょ」

 お母さんは苦い顔をした。

「だって、暗くて怖いんだから」

「仕方ないね。でも、出しっぱなしにしないでよ。家、せまいんだからね」

「せまいはしょうがないよ。ぼくの稼ぎじゃ」

「そういう意味じゃありませんよ」

 お母さんは、もうその話は止めましょと言った。お父さんも、そうだねと賛成した。

 私はリビングに並べた布団に入った。リビングの天井に、懐中電灯の光が当てて、明るくした。

 お父さんがカニさんだと言って、手でそこへカニの影絵を映して見せた。大きなカニが、天井をこそこそ歩くようだった。私は、犬だよと答えた。リビングの天井に、小犬が飛び出した。私の手と、お父さんの手とは、ずいぶんと大きさが違っていた。お父さんの手は大きい。でも影の大きさは、懐中電灯から近づけたり、離したりすると大きさが変わった。お母さんは、白鳥だよと言って、滑らかに手を動かした。白鳥の影が天井を優雅に飛び回った。お父さんと私も、負けないようにと、白鳥の影絵を作ったが、お母さんほど上手くはいかなかった。


「お父さん、べろべろの犬知ってる?」

 私が布団の中から、お父さんの顔をのぞいた。ちょっと眠たそうな声が返ってきた。

「べろべろの犬? 何だいそれ、野良犬かい」

「野良犬じゃないよ。田中さんって、おばさんが飼っているんだって」

「その犬が、どうしたんだい?」

 布団がごそごそ動いて、お父さんがこちらを向いた。

「クラスの子がね。探しているんだって。べろべろの犬をね。真っ暗な夜に、田中さんが散歩に連れているんだって。それも停電の夜じゃないと、散歩しないの。懐中電灯一つ持ってね。歩いているんだって、変だよね」

 私は、ちょっと首を傾げた。

「へー、散歩なら明るいうちの方がいいだろ」

「そうなの。それにね。犬は疲れた顔をして、リードを引っ張っているんだって。舌をべろべろ出して、リードを引っ張るから、べろべろの犬って呼ばれているの」

「それって、都市伝説みたいな話だな」

 お父さんが、驚いたようにうなった。

「そうなの。おかしいよね。そんな犬を探すために、わざわざ夜に懐中電灯を持って探しているなんてね。信じられない」

「その犬に会うと、何かいい事あるんだろ」

「さあ、そこまでは教えてくれなかった。ひょっとすると、あるのかもしれないね。ふふふ」

 私は目を閉じても、開いているみたいに、なかなか眠れなかった。外で風がうなるからではなく。外の闇が、それとも家の中の闇が、どんどん私の方へ迫ってきて、降り積もる気がした。闇は雪にように私の周りを囲んでいく。懐中電灯の光を照らして払い除けても、いつの間にかまた周りを取り囲んでいる。怖いものが近寄ろうとしているようだ。私はそこから目をそらすように、布団に潜り込んだ。それでも、すぐには寝付けなかった。いつもと違う場所で寝ているから、落ち着かなかった。早く停電が復旧するか、朝になればいいのにと願うばかりだった。

 夜中、私は喉が渇いて目を覚ました。それとも、夢を見ていたのかもしれない。玄関口に誰かが来て、親しげに話しかける声がした。こんな夜中に、なんだろうと思っていると、懐中電灯の光が見えた。それは子供のイタズラっぽい光で、玄関の前を往来していた。扉越しに、私は心細いような声で尋ねた。

「だあれ?」

「こ、今晩は。あのべろべろの犬、見かけませんでした?」

 声はこもっていた。暗闇の中から、やって来たようだった。

「ううん、それどんな犬なの?」

「白い犬で、べろべろと舌を出しているんだ。べろべろの犬は、しゃべるんだ。一つだけ何でも質問に答えてくれる」

「べろべろの犬は、どこから来るの?」

 私は聞いた。

「暗闇の先から来るよ」

「どこに住んでいるの?」

「べろべろの犬はね。闇の町に、いつもは住んでいるんだって。そして、停電の町が現れると、そこへ散歩に出かけるんだ」

「それは、どんな町なの?」

「変な町だよ。そこは一日中、夜のように真っ暗で、家には明かり一つ灯っていないんだ。停電みたいに、電気も通っていない。だから、その町の人は、いつも懐中電灯を手に持って、暗闇を照らしながら過ごしているんだ」

「作り話でしょ」

「作り話じゃないよ。本当に、べろべろの犬が現れたんだ。影しか見えなかったけど、舌を苦しそうに出していた。リードを引く田中さんも、ちゃんと懐中電灯をあっちこっちへ光らせて、何かを探していたんだ」

 扉の向こうの声は、熱心に私へ説明した。男の子の声で、さっき電池を買いに行ったときに、出会った男の子だと思った。私はその子が話せば話すほど、全くそのべろべろの犬のことが、想像できなくなった。私は仕方なく、分からないと言って帰ってもらった。そんな犬いないよ。

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