第3話 帰宅

「ただいま!」と叫んで、私は玄関の扉を開いた。玄関の鍵は開けてあった。お母さんが先に帰って、開けておいたのだろう。でも家の中は停電だから、静まり返って、明かり一つ点っていない。

「お母さん、どこなの?」

 私は玄関を上がると、辺りを懐中電灯で丁寧に照らした。板張りの廊下が奥まで、不気味に伸びていた。家の中は、カタリとも物音一つ聞こえなかった。誰もいないようで、自然と身震いした。家の奥へ声を掛けても、お母さんは出て来なかった。

 私は迷わずドタドタと床を踏み鳴らして、キッチンへ足を運んだ。キッチンも光を照らした限り、お母さんの姿は映らなかった。テーブルの上には、紅茶とお菓子が出してあった。紅茶は、まだ湯気を立てていた。やっぱり、お母さんは帰っているんだ。

「お母さん!」

 私が大声で叫ぶと、誰かの声がした。大人の低い声で、お母さんではなかった。私は、懐中電灯の光を照らして確かめた。白シャツに黒ズボンのお父さんが、キッチンの入り口から、こちらをのぞいて、体を乗り出していた。

「あかり、どこ行っていたんだ。こんな遅くに、一人で出歩いたら危ないだろ!」

 お父さんは、懐中電灯の光に顔をしかめている。声が鋭くなった。

「お父さん、いつ帰ってきたの?」

 私が、すぐに尋ねた。

「さっきだ。人の話は、ちゃんと聞きなさい」

 お父さんは、ちょっと不機嫌に言った。

「ごめんなさい。お母さんと、懐中電灯の電池を買いに行っていたの。それで、はぐれたの」

「そうだったのか。大変だったね」

 お父さんは、優しく言った。怒っているのかと思っていたから、私は正直ほっとした。

「ねえ、お父さん。お母さん、見なかった?」

 私は、懐中電灯の光を揺らした。

「何だ。まだ帰ってないのか?」

 お父さんは驚いたように答えて、真っ暗なキッチンを見回した。

「えっ、帰っているでしょ」

 私は、お父さんの言葉にびっくりした。玄関の鍵も開いていたし、紅茶も用意してあった。お母さんが帰っていることは、間違いないと思っていたからだ。

「よし。あかりは、ここにいなさい。お父さんが捜してくるから」

「お父さん、ちょっと待ってよ」

 お父さんは、私の言うことも聞かずに、暗闇に姿を消した。その代わりに、廊下から誰かのきしむような足音が近づいてきた。私は思わず身構えた。

「ちょっと顔に光を当てないで!」

 お母さんだった。お母さんは、まぶしそうに目を糸のようにして、手で光を遮った。

「あかり、今帰ってきたの? 良かった。迷子にならなくてね」

「お母さん、今までどこにいたの?」

「他に明かりが点く物がないか、探していたの。でもダメね。なかなか見つからなくて」

「あれ。お父さんが、お母さん捜しにいかなかった?」

 お母さんは戸惑った顔をして、私を見つめた。

「あかり、何言っているの。お父さんは、電車が止まって、今日帰れるか分からないのよ」

「えっ、今帰ってきたんじゃないの」

「そんな事ないでしょ」

「えっ、そうだけど。でも」

「おかしな事言わないでね。真っ暗なんだから、お母さん怖いよ」

 お母さんは、強張った声で言った。背筋が冷たくなるのを感じた。

「私だって、怖いよ!」


「ねえ、明日は大丈夫なの?」

 私は聞いた。なかなか停電が直らないから、心配になった。

「朝には、直っているでしょ」

 お母さんは、大丈夫というように答えた。

「そうだといいけど。もし直ってなかったら、どうするの? 学校休むの?」

 私は経験したことのない停電が気になって、学校どころではなかった。

「学校は日中だから、あまり関係ないでしょ。ずる休みしないで行きなさい」

 お母さんが、チクリと言った。私は、しょんぼりした。

「はああ、分かった。でも、学校が真っ暗だったら、きっと休みでしょ」

「そうだけど。そんな事ってある?」

「たぶんないね。でも、もしそうなったら、どうしよう?」

「そうしたら、学校に行かなくていいわよ」

「行っても、授業にならないと思うよ」


 私は冷蔵庫の扉を開いて、中身を物色した。もう内部は温もりかけている。そこにも小さな闇があって、懐中電灯の光が必要だった。卵、マヨネーズ、ソース、牛乳と光を照らしていくと、ちょっと宝探しの気分になった。この中には、怖いものは入っていないだろうか。お母さんは、早く扉を閉めてと私に頼んだ。

「冷蔵庫も使えないの?」

「そうね。少しくらいなら持つけど。すぐにダメになる」

 お母さんが答えた。

「じゃあ。お風呂はどうするの?」

「電気使っているからダメね。今日は沸かせない」

「えー、お風呂も入れないの?」

「そうよ。今、停電直しているから、どの道遅くなるでしょ」

 お母さんは、ため息をついた。私も思わず、ため息が出そうになった。どうしよう。お風呂に入れないなんて、最悪だ。

「トイレは、どうするの?」

「トイレは、大丈夫でしょ。水道なんだから、水は出るでしょ」

 お母さんは、平然と言った。全然大丈夫じゃない。水は流せても、トイレの中は真っ暗だ。

「明かりが点らないでしょ」

「そのくらい我慢しなさい」

 お母さんは冷たく言った。私は暗闇のトイレを想像して、泣きそうになった。

「懐中電灯、持っていく」

「じゃあ、そうしなさい」

「うん、そうする」

 私は、ちょっとふてくされるように返した。

「水は出るんだ」

「そうね。ガスと水道だけでも使えて助かった」

 家の前で荒々しく車が止まった。声がして、玄関の扉をガタガタと誰かが鳴らして開いた。用心深く中へ入ってくる足音がした。私はキッチンの入り口を懐中電灯で明るくした。目をつぶったお父さんが現れ、私は驚いた。

「あれ、お父さんだ!」

「ただいま。どうしたんだ。二人して」

「お父さん、電車が止まってなかったんですか?」

 お母さんは、暗闇からお父さんを照らした光に近づいていった。

「いや、乗せてもらったんだ。たまたまこっちに帰る車があってね。ラッキーだったよ」

「そうなんですか」

「あれ? お父さん、さっき」

 私は、さっきのことを思い出した。が、お父さんは今帰ってきたのだから、暗闇のイタズラと思うしかない。

「どうかしたのか?」

「ううん。何でもない」

「おい、まぶしいから光を顔に当てるのは止してくれ」

「あっ、ごめんなさい」

 私は、懐中電灯の光をお父さんの足元に向けた。それで、ようやくお父さんは、キッチンの入り口から入ってきた。

「しかし、こう暗くちゃ。困ったな」

 お父さんは、元気のない声を出した。真っ暗な部屋の中を見回した。

「そうなんですよ。お父さん、ご飯はどうします?」

「お腹は少し空いているな」

 お父さんは、大きなお腹をさすった。

「じゃあ、すぐ用意しますからね」

「あかり、お父さんに懐中電灯を渡して上げなさい。お父さん、着替えてくるのに必要だから」

「えー。これ無いと、真っ暗だよ」

 私は顔をしかめた。

「ああ、いいよ。うちの中だ。目隠ししてても、大体分かるだろ」

 お父さんはすごい。こんな暗闇でも懐中電灯なしでも平気だという。私には、ちょっと真似できない。

「あかり。さあ、早くしなさい」

 お母さんは怖い声で言った。私は仕方なく、お父さんに懐中電灯を渡した。お父さんは、ちょっとためらって、すぐ済ませてくるよと、懐中電灯を大事そうに受け取った。

 段々と明かりが遠ざかっていくと、自然と私とお母さんは無言になった。ふーとため息が聞こえた。お父さんは、急いで戻ってきた。私に懐中電灯を返した。明かりが戻ると、気分が落ち着いた。さっきまでは暗闇の中で、そわそわしていたのだった。

「あかり、ちょっと照らしてくれる。お父さんの食事の支度するから」

 私は勢いを付けて、懐中電灯の光をお母さんの方へ向けた。食器棚や流しが、暗闇の中に浮かび上がった。

「分かった。どこを照らせばいいの?」

 お母さんは冷蔵庫と流しとコンロの辺りを、次々と指示して、手元が見えるように私に頼んだ。私はお母さんの言った通りに、懐中電灯の光を操って、食事の支度の手伝いをした。お母さんは手際よく、お肉たっぷりの野菜炒めとチャーハンを作り上げた。

 お父さんは、今夜は豪勢だねと微笑んだ。停電だから、冷蔵庫の中の物が傷まないうちに片付けておきたいのよと、お母さんは不満をもらした。

 私は光が二人の邪魔にならないように、できるだけ気を付けて、懐中電灯を動かした。暗い場所では、料理のいい匂いが、一段と強く感じられた。チャーハンの香ばしい香りが、テーブルの上に心地良く漂って、お腹が空いてきた。

 私はお父さんにお願いして、少し野菜炒めとチャーハンを分けてもらった。匂いがいいから、味も良かった。いつもより美味しく感じられた。暗い所で食べるのは、不思議な気分だった。夜空の下で食べるとこんな感じなのだろうかと、ふと思った。

 食事の片付けが終わって、テーブルに着いていると、突然と食器棚やテーブルが動き出した。ぐらぐら揺れて、小さく音を立てた。まだ地震と、お母さんの怯えた声がした。私は慌てた拍子に、懐中電灯の明かりを消してしまった。明かりを点したときには、地震は止まっていた。

 テーブルに懐中電灯の光が戻ると、私はぞっとした。さっきまで、そこに座っていた二人は見えなくなっていた。すると、テーブルの下から声がした。お母さんと、お父さんがテーブルの下で窮屈そうにしゃがんでいた。びっくりしている私に、あかりも早く隠れなさいと、二人が言った。

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