第2話 電池を買いに
キッチンに戻ってくると、テーブルの上は綺麗に片付いていた。お母さん、戻ってきたんだ。ここで待っていればよかった。
「お母さん、どこ?」
足音がして振り向くと、いきなり背後にお母さんが立っていた。お母さんは懐中電灯の光に、まぶしそうにした。私は懐中電灯の光を、お母さんの顔から足元へ下げた。
「それ、あかりが持っていたの?」
「そうじゃないけど、キッチンの引き出しにしまっておいたの」
「そう。お母さん、ずいぶんと探したのよ。ちょっと貸しなさい」
お母さんは、私に突き出すように手を伸ばした。
「どうするの?」
私が懐中電灯を渡すと、お母さんは光を点けたり消したりして、じっくりそれを調べた。
「あら、これもう電池があまりない。光が弱くなっている」
「えー。途中で切れたら、どうするの?」
「そうね」
お母さんは、ちょっと考え込んだ。私は、いい事を思い付いたと思った。
「あっ。電池、変えたらいいでしょ」
「このね。懐中電灯の大きい電池、うちに無いの」
お母さんは、私に懐中電灯を返した。がっかりように答えた。
「じゃあ、どうするの?」
「おじさんのお店に行って、買ってくるしかないでしょ」
信じられない。お母さんは、こんな夜遅くに外へ出かけるという。
「私は、どうするの? 懐中電灯は持っていくんでしょ?」
私は心配になって、外出する支度を始めたお母さんに尋ねた。
「でも外真っ暗だからこれないと、お母さんも困るの。少しだから、我慢して待っててね」
「嫌よ。だったら、私も一緒に行く」
私は頑固に言った。お母さんは、それを承知しなかった。
「もう遅いから、はぐれたら危ないでしょ」
「ダメダメ。絶対に一緒に行くからね。無理だよ。一人留守番なんて」
私は、少しも譲らなかった。それはそうだ。懐中電灯なしに、一人真っ暗な家で待っていると考えただけでも、ゾッとする。
お母さんは、しぶしぶ私を一緒に連れていくことにした。支度するのも、靴を履くのも、戸締りするのも、全て懐中電灯の明かりが頼りだった。
私が最初に明かりを照らす係で、私が靴を履くときは、お母さんが代わりに足元を照らしてくれた。
玄関の扉はガチャガチャ言って、いつもより大きな音を立てた。お母さんは私の前に立って、懐中電灯を手に恐ろしい暗闇を照らした。私はお母さんの背中に隠れて、離れないようにくっ付いて歩いた。
お母さんは、あまりくっ付かないで歩きにくいからと注意した。私は、だってはぐれたら困るでしょと言い返した。あんなに怖かった暗闇も、お母さんと一緒なら不思議と平気だった。
外の深い暗闇の中で、お母さんの足音に、私の足音が追いかけて響いた。どこまで行っても、同じ闇が続くようだった。お母さんは要領よく暗い所を照らして、道を確かめてから歩いた。
「お母さん。真っ暗なのに、どっちの道か分かるの? 迷子になったりしない」
私は心配になって、お母さんに聞いた。
「懐中電灯で照らして歩くから、大丈夫よ」
お母さんは振り向かずに、懐中電灯の光を真っ直ぐ前に向けて歩いた。ときどき何かを確かめるように、光を左右に振り動かした。真っ暗な道の角を曲がった。
「まだ行くの?」
私は長い道のりに、すっかり音を上げてしまった。いくら歩いても、なかなかおじさんの店には着かなかった。
「もう少しだから我慢して」
お母さんが、私を励ますように言った。それでも、私は元気が出なかった。暗闇ばかりで、どこまで来たのかも分からない。ただ同じ所を、無駄にぐるぐる回っているような気がした。
「疲れたよ」
私は、ひざをさすって訴えた。
「やっぱり留守番していた方が、よかったじゃない」
お母さんが、意地悪に言った。
「嫌よ!」
私は猛反発した。明かりもないのに、一人で待っているなんてとてもできない。考えただけでも、身震いがする。
十五分ほど歩いて、ようやくおじさんの家電店にたどり着いた。入り口はすっかり閉まって、お店の中も真っ暗だった。
お母さんは呼び鈴を鳴らして、おじさんに事情を話した。すぐにお店に小さな明かりが点って、ガラスの扉が開いた。おじさんも懐中電灯を手に持っていた。おじさんはお母さんの話に、うんうんとうなずきながら、それは大変だったねと、私たちの苦労を労った。
「この懐中電灯、もう電池が切れかかっているんだね。交換して上げましょう」
おじさんは懐中電灯に新しい電池を入れて、予備の電池も用意してくれた。
「これだけで、大丈夫だろう」
おじさんは、紙袋と懐中電灯を渡してくれた。私には、お母さんから離れないように気を付けて帰るんだよと言ってくれた。私はお礼を言って、さよならと手を振った。お母さんは、「さあ、急いで帰ろう」と私の手を引いた。
私は、今度は自分が懐中電灯を持つ番だと主張した。お母さんは、なかなか私の言い分を聞いてくれなかった。
「そんな事して、本当にはぐれたら大変でしょ。あかり、一人で家まで帰れるの?」
「そうだけど。きっと大丈夫よ」
根拠のない自信だった。お母さんが、さっきあんなに簡単におじさんの店まで行けたから、自分でも簡単にできると思っていた。
「分かったから。そんなに腕、引っ張らないで」
お母さんは、強情な私に疲れた声で、気を付けてよと懐中電灯を渡してくれた。そもそも、それがいけなかった。そのまま、お母さんに従って帰っていれば、必ず十五分ほどで家についていた。私はもう三十分近く一人で、暗闇を照らし続けている。お母さんとも離れてしまった。どうすればいいの。
真っ暗な道は懐中電灯で照らしていても、どこがどこだかさっぱり分からない。お母さんは、これでよく道が分かったなあ。お母さんのように、上手くいかない。私は道を間違えたのだと思って、同じ所を行ったり来たりしていた。道なりの人家も明かりは点っていても、消えそうな小さな明かりで、どこも停電しているようだった。これじゃあ、目印にもならない。
私はあちこち照らすから、ときどき奇妙な物が飛び出してきて、何度も怖い思いをした。遠くで犬がほえている。近くで猫が鳴いている。でも、私の家はどこにあるのか、さっぱりだった。
同じクラスの洋一くんに出会ったのは、その時だった。色白で天然パーマの洋一くんは済ました顔で、どうしたのと私に聞いた。私は、急に洋一くんの足元を照らしたから、驚いて懐中電灯の光を前へ向けた。
「どうしたのって、こっちが聞きたい。えっ、どうしてこんな所にいるの?」
私が、こわごわと尋ねた。
「停電したでしょ。懐中電灯の電池を買いに来たんだよ」
「洋一くん、一人で来たの?」
洋一くんは、こくりと頭を一度振った。
「君も一人で?」
洋一くんは、私の背中をのぞくように確かめた。私は、それを隠すように体を傾けた。
「そうじゃないの。お母さんとね」
「そう。お母さんは、どこにいるの?」
ちょっと洋一くんの言い方が意地悪だったから、私は後から来るよとウソをついた。洋一くんは残念そうに、そうと返事した。
「迷子になったんじゃないんだね」
「迷子じゃないよ。お母さんは、すぐ来るからね」
私は言った。
「へー。でも、こっちは。ううん、何でもないよ。だったらいい。気を付けて帰ってね」
「ありがとう。洋一くんもね」
洋一くんは、うんとだけ返事して行ってしまった。洋一くんが行ってしまった後で、洋一くんは懐中電灯を持っていたか気になった。でも、思い過ごしだろう。こんな真っ暗闇で、懐中電灯なしで歩けるはずがない。それに洋一くんの言葉から、私は道を間違えていることを聞き逃さなかった。
「こっちじゃないんだ。やっぱりね。そうじゃないかと思った」
私は慌てて、道を引き返した。来た所も、暗闇ではさっぱり分からなかった。ときどき道に転がっている石も、懐中電灯の光に当たれば、人の顔に見えて私を震えさせた。私はどんどん早足になって歩いているのに、先に行った洋一くんには追い付けなかった。
そのうち、おじさんの家電店にたどり着いていた。おじさんの店は、すっかり戸締りしていた。どこで間違えたのだろう。
私は、今度こそ家へ向かって歩き始めた。急いで歩けば、お母さんが待っているかもしれない。それとも、捜しているかもしれない。私はそういう期待で、疲れた足に鞭打って速めた。暗闇はじっと静まって、懐中電灯の光を照らした後から、私の足音だけがくっ付いてきた。もう迷わないように、確実に辺りを見回して、帰る道を選んだ。
不意に荒々しい数本の光の筋が現れた。誰かが懐中電灯の光を、忙しく動かし、こちらに近づいてくる。と同時に数人の子供たちの声も届いてきた。同じ小学校の生徒が、驚いた顔を見せた。その子たちも、おじさんの店に電池を買いに来たようだった。新しい服を着た、先頭の子が声を上げた。
「お化けじゃないよな!」
知らないクラスの子だった。私と同じクラスの子も交じっている。たいようくんと、たかしもいた。
「違う。お化けじゃないよ。懐中電灯の電池、買いに来たの?」
私は、慌てて否定した。数人の懐中電灯が集まると、辺りがかなり明るくなって心強い。
「そうだけどな」
知らない子が、意地悪そうに答えた。
「それだけじゃねえぞ!」
別の子が乱暴な言い方をした。
「何なの?」
「犬を探しているんだよ」
丸眼鏡のたかしが言った。暗いから顔はよく見えなかった。
「べろべろの犬、知っているだろ?」
「知らない」
私は不機嫌に答えた。私だけ秘密を知らないというのは、のけ者のような気がした。
「白い犬で、田中さんが連れて歩いているんだ。べろべろと舌を出しているから、べろべろの犬って言われているんだ」
たいようくんが、急いで教えてくれた。
「でも、こんな夜中なのに大丈夫なの?」
私が聞いた。
「へへ、大丈夫だよ」
別の子が笑った。
「べろべろの犬は、しゃべるんだ」
たかしが、ちょっと興奮して言った。
「しゃべる? そんな犬、本当にいるの?」
私が答えた。
「さあな」
「もう行くぞ。俺たちは忙しいんだ」
その子たちは、慌ただしく去っていった。こんな夜中でも、平気なのだろうか。
その後、私は十五分歩いて、家のすぐ側に来ていることが分かった。私は急に走り出して、危うく転倒しそうになった。自分の家が、どこだか分かった。
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