べろべろの犬通るべからず

つばきとよたろう

第1話 停電の夜

 窓の外が暗くなってから、少し大きな音がした。足元が家ごとぐらぐらと揺れ、それが終わるのと同時に、すっと明かりが消えた。地震が起こった。

「何で電気消したの?」

 私は、思わずお母さんに叫んだ。そうではなかった。電気が止まった。停電だった。それにようやく気付いた。私はキッチンの椅子に腰掛けたまま、少しも動くことができない。体だけが妙にそわそわして落ち着かない。

「どうするの?」

「携帯は?」

 お母さんがテーブルの上を、何かごそごそ探している。隣にいる姿は、暗くてほとんど確認できない。

「貸して、私がやる。あれ、電源が入らない。どうして?」

「バッテリーが切れたんじゃない。心配しないで、あかり。お母さん、懐中電灯探してくるからね」

 お母さんは息が詰まるような暗闇の中で、すっと椅子を引いて立ち上がった。姿は見えないけど、足音がキッチンから出て行った。それがどんどん離れていくから、不安になった。私は椅子から立てずに、声を上げた。

「お母さん、どこ?」

「今持ってくるから。あかりは、そこで待っていてね」

 もう廊下の方から、声は聞こえてこない。それでも、お母さんの足音はどんどん先へ進む。

「あっ、そっちじゃない。私、懐中電灯の場所知ってる。キッチンの引き出しにしまったんだ」

 慌てて廊下に叫んでも、お母さんの返事は聞こえてこない。暗闇では、時計の針も読み取れないし、一分が十分にも感じられる。

「お母さん、まだなの?」

 何度、呼んでも応答がない。明かりのある普段なら、家の二階から呼んでも声が返ってくるのに、お母さんどこまで行ったのかな。段々と心配になってきた。

「懐中電灯、こっちにあるのに!」

 お母さんは、気付かないんだ。それとも、懐中電灯が見つからなくて、家の外に買いに行ったのかもしれない。でもそれなら、一言断って行くはず。

「やっぱりおかしい」

 お母さんを捜しにいった方がいいかな。声を掛けながら捜せば、こんな暗闇でも知っている家の中だから捜せないことない。でも待って、やっぱり怖い。家の中でも、暗い場所はお化けが出るというし。

「そうだ!」

 私は勢いよく両手を打って、自分を勇気づけた。懐中電灯を持っていこう。それなら、明かりが点って少しは怖くない。私は手でテーブルの端を触りながら、立ち上がった。引き出しの場所を頭に思い浮かべ、手で探した。思った所に引き出しの取っ手が触れた。

 引き出しの中に、おっかなびっくり手を入れた。指先に何かが触れるたびに、びくびくする。ときどき何かが指先をちくりと刺して、痛かった。それでも我慢して探した。そうしているうちに、懐中電灯らしい物に手が触れた。手に取って振ると、中でカチカチ電池の音がした。私は、すぐにスイッチを点した。カチッとびっくりするくらい音がして、ピカッとまぶしい光が暗闇を照らした。

「お母さん、懐中電灯あったよ。早く戻ってきて」

 家の中はさっきよりも静かになって、お母さんの声もしない。どこ行っちゃったのかな?

 暗闇の中で食器棚が、不気味に照らされていた。どの食器も黒い煙で洗ったみたいに暗く見えた。自分の家の物とは違うみたいだ。じっくり照らしても、上から照らしても、やっぱりどこか違っている。引き出しの中も照らしてみた。ボールペンやセロハンテープ、のり、葉書、細々とした物が集まって、ひっそりと眠っているようだった。

 私は懐中電灯を落とさないように、しっかりと握った。光を傾けるたびに、暗闇からぱっと部屋の物たちが現れ、私を驚かそうとした。暗闇の中では、普段なら動かない物も、機敏に動くように思える。私が気付かないうちに、後ろに回ったり、わきをすり抜けたり、上手くだまして、急に光の中へ飛び込んでくる。私はそのたびに、胸がドキドキして叫びそうになる。椅子やテーブル、食器棚が生きているみたい。でも、懐中電灯の明かりで照らしてやれば、元の位置に戻ってだんまりを決め込んでいる。暗い中では、みんな意地悪になる。

「えへへ」

 私は自分の顔へ懐中電灯の明かりを当てて、怖い顔をしてみた。何も怖がらない。でも、悲鳴を上げて何かが逃げていったら、そっちが怖い。とにかく、こんな事している場合じゃない。早くお母さんを捜さなきゃ。

 私は一度、キッチンで懐中電灯の光を一周させて確かめた。テーブルには、食べかけの夕食が二人分、向かい合わせに並んでいる。お数はコロッケだ。誰か知らない人が、食事したみたいに見える。ちょっと不気味だ。光を戻して、キッチンの扉を照らした。キッチンの扉は開いている。廊下の向こうまで、光が差し込んで見えた。

「お母さん、お母さん」

 お母さんは、まだ帰ってこない。私は尻込みしながらも、ここで待っていても仕方がないと、廊下の先を照らした。懐中電灯の光は、廊下の半分も照らすことができない。廊下はすぐに玄関や二階の階段と、トイレとお父さんお母さんの寝室がある方へ、二手に分かれていた。私は懐中電灯の光を丁寧に操って、廊下を隅々まで照らした。廊下の天井には、役に立たなくなった照明が、静かにつり下がっていた。照明のスイッチを押しても全く光らない。代わりに黒いチューリップが、咲き始めた。

 お母さんは、どこに行ったのだろう。私は、さっき足音のした方を思い返した。たぶん寝室の方へ向かったんだ。

「お母さーん」

 私は大声で叫んだ。返事はない。今度は玄関口へ慎重に光を伸ばして、玄関扉を映したら、奇妙な影が映って怖くなった。そっちには、声も掛けられない。どう見ても、それはお母さんの影じゃない。奇妙な影は家の外にいて、中へ入ろうとしている。お母さんなら、まだ家の中のはずだ。

 私はゆっくりと振り返って、寝室の方へ向きを変えた。懐中電灯の光が、玄関口から寝室の方へ飛び移った。廊下の壁を照らして、できるだけ廊下を明るくしてやろうとした。懐中電灯の光が、左右に揺れるたびに、私の気持ちも恐怖に揺れた。黒いチューリップは光が当たると、消えてなくなった。

「早く電気点いてよ」

 そう何度も願っても、一度も願いはかなわなかった。

 私は真っ暗な廊下を通った。トイレには行かず、応接間に入った。やっとの思いで、お母さんの寝室までたどり着いた。応接間には、黒いアマリリスが咲いていた。寝室の扉は、わずかに開いていた。いつもはその扉は閉まっていたから、ここに誰かが来たのは間違いない。

「お母さん、お母さん、お母さん!」

 寝室の扉の開いた所へ、光を当てながら呼びかける。懐中電灯の光は、扉の隙間に吸い込まれると、急に明かりが辺りを照らすのを遮られ、暗くなっていた。私は、すぐに光を戻した。寝室に入った光は戻ってこなかった。

 これだけ騒いでも、応答がないんだから、お母さんはここにはいない。捜す場所を間違えたんだ。それとも一度ここへ来て、懐中電灯が見つからなかったんだ。私が持っているなんて、まだ知らないのかもしれない。早く戻って教えて上げないと、またはぐれてしまう。

 私は、お母さんの寝室をあきらめて振り返った。懐中電灯の光が、応接間の壁を走った。その途端に、闇の怪物たちが現れた。一瞬光った壁の風景画が、動いたように見えた。本棚の本が一冊、ベージを開いてコウモリみたいに飛び出す錯覚を起こした。それは、どれも暗闇へ急にまぶしい光を当てて起こった、不思議な現象だった。実際には何も起こってないし、何一つ動いていない。暗い中で怖いと感じるから、そう見えるんだ。

 帰りは通ってきた所なのに、懐中電灯の光をよく照らしてみても、まるで別の場所のようだった。足がすくんだ。家の中だから、迷うはずがない。でも、懐中電灯の明かりはせまいために、まるで迷路へ迷い込んだみたいに不安になった。暗闇の隅々に光を当てて確かめないと、怖くて前に進めない。白いレースのカーテンが、お化けのようにゆらりと動いた。

 その日は月夜じゃないから、家の中は本当に真っ暗だった。どうにか廊下の分かれる所まで戻って、心細さに小さな声で叫んだ。

「お母さん!」

 やっぱりまだ探しているんだ。懐中電灯は、私が持っているから見つかるわけないのに。早く教えてあげないと、家中探して見つけられずに、本当に外へ買いに出てしまう。

 私は暗い所が苦手だから、懐中電灯の光をあっちこっちに振って、ほこりを掃くみたいに、家から暗闇を追い出そうとした。でも、すぐに暗闇は元に戻ってしまう。ゆっくり掃いても、早く掃いても同じだ。私はあきらめて、玄関口の方へ踏み出した。裸足の足は、ちょっと冷たい。それで、余計にびくびくする。遅く歩いても、速く歩いても、少しも緊張が取れない。ドキドキしながら立ち止まって、急に天井を照らした。闇の中では、天井は恐ろしく高く思えるのに、光を当てれば、意外なほど低くなった。どこかの洞窟みたい。でも、そんなはずない。

 突然、玄関の扉がガタガタ震えた。誰かが来て、扉の前に立っているように思えた。目を見張って、懐中電灯の光をぐるぐる回しながら、確かめても誰の影も見えない。それは、小さな地震の揺れだった。私の心臓は、また早鐘を打っている。

 お母さんが二階にいるとしたら、私の部屋だ。私が懐中電灯を持っていったと分かったんだ。でも、キッチンの引き出しにしまったことまでは気付かない。階段口まで来たが、二階の物音は、私の耳には届いてこない。

「えー!」

 階段を見上げて、恐ろしい闇が広がっていた。黒い紫陽花が咲いていた。ここ上れないよ。懐中電灯の光だけ階段を上らせても、何の解決にもならない。

「お母さんいるの? 返事してよ」

 私は真っ暗な二階を見つめて、しゃべりかけた。暗闇は静かなままだ。ここじゃないのかな。結局、二階は上がらず、キッチンへ戻ることにした。きっとお母さんも同じだ。戻っているはずだからと、自分に言い聞かせた。玄関の扉をちらりと視界に入れ、素早くその前を走り抜けた。また玄関の扉が、驚かすようにガタガタ鳴った。私は、ぎゃあと悲鳴を上げて、廊下を一目散に走った。キッチンまでは、あと一歩だ。何とか無事に到着したが、暗闇との死闘はまだ終わらない。

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