第7話 古い懐中電灯

 学校から帰ってきた私は、靴を脱ぐ間ももどかしく、玄関口の電灯のスイッチを押してみた。パチッと弾むような音を立てても、電灯に明かりは点らなかった。私はそれだけでは満足できず、キッチンに向かう間のスイッチを全て鳴らして回った。パチパチパチパチ妙な音がするから、お母さんがキッチンから、強張った顔をのぞかせていた。片手には、箸を持ったままだった。料理の最中だったらしい。

「あかり、帰ったら言ってよ。パチパチ音がするから、お母さんびっくりした」

「あっ。お母さん、ただいま。まだ停電、直ってないんだ」

 私はがっかりして、ランドセルを下ろすのも忘れて聞いていた。お母さんは暗い顔をして、心配そうに言った。

「そうなの。困ったね。今日も暗い中で、過ごさないといけないのかしら」

「えー、今日も。私、嫌だな。だって、真っ暗で怖いもん」

「お母さんだって怖いよ。昨日、あれだけ大変だったでしょ。あかり、お昼まだでしょ。すぐ用意するから、ランドセル置いてきたら」

「うん、分かった。今日は給食なかったんだ。工場でも電気が使えないんだって。それで、どうしたの? そんなに忙しくして」

「夜、明かりが点らないから、今のうちから準備しているの。暗くなってからじゃ遅いでしょ」

 お母さんはそう言って、慌ただしくキッチンに引っ込んだ。お母さんの様子を見て、私ものんびりしていられないと危機感を覚えた。取りあえず二階に上がって、翌日の学校の準備だけは、最初にしておくことにした。日が暮れてからだと、とても怖くてできない。一通り学校の準備が終わると、私はお母さんのいるキッチンへと下りてきた。

 テーブルの上には、出来立てのオムライスが二皿、仲良く並んでいた。すっかり昼食の準備は整っていた。お母さんは手早く後片付けを終えると、手洗いを済ませた私に尋ねた。

「今日の学校、どうだった?」

 私はタオルで手を拭きながら、お母さんに矢継ぎ早に答えた。

「学校でも電気が点かなかったくらいで、他は何ともなかったよ。でも、みんな停電の話で持ち切りだった。みんなも同じように苦労していたんだね。よく分かったよ」

「そうでしょ、そうでしょ。スーパーも隣町まで行かないといけなかったり、やっていても冷蔵が必要な物は買えなかったりだからね。ほとんどインスタント食品しか置いてなかった」

「えっ、うちもインスタント食品ばかりになるの?」

「保存の利く物は、いいけど。こんな時だから、全部が全部いつもと変わらない、食事ってわけにはいかないね」

 私は、そんなと嘆くような声をもらした。

「食べられるだけでも有り難いんだから、あかりももうしばらく我慢してね」

 お母さんははっきりした口調で、私を励ますように言った。

「じゃあ、これが最後のオムライスになるかもしれないね」

「でも、ご飯はパックのがあるし、卵は日持ちするから、作れなくはないけどね。ああ、ケチャップは開封すると使い切らなきゃダメね」

 これが最後だと考えると、複雑な気持ちで味もよく分からなかった。不安や心配事のあるときや、考え事をしながら食事したときは、口に食べ物を運んでいても、まるで味は記憶に留まらなかった。

 私は食事を終えると、また二階へ上がった。忙しく働くお母さんにならって、夜の準備をした。窓の外はまぶしいくらい輝いているのに、二階の部屋の中は、木陰みたいに薄暗かった。私は欲張って、まだ明るいうちに、できるだけのことをしようと考えていた。普段ならしない、部屋の整理や掃除、要らなくなった物の片付けをした。わざわざこんな時にする必要もなかった。その時は気付かなかった。

 夢中でそうしているうちに、次第に日が傾いてきた。いつの間にか部屋の中も、先ほどよりずいぶんと暗くなっていた。黒い朝顔の花が、咲き始めていた。部屋のあっちこっちにツルを伸ばして、辺りを黒く塗りつぶし始めていた。あと数時間としないうちに、この部屋は暗闇に包まれるだろう。あれこれ始めたせいで、私の準備ははかどらなかった。停電の夜に備えるといっても、一体何をすればいいのか分からなかった。気持ちばかりが空回りして、焦っていたのだった。

 その時には、すっかりべろべろの犬のことは忘れてしまっていた。当然、その犬に尋ねるはずの質問についても同じだ。みんな一体どんな質問を考えたのだろう。

 私は日があるうちに、二階から下りてきた。真っ暗になってからでは、とても階段を下りる勇気がなかった。お母さんは、まだキッチンにいて冷蔵庫の中を片付けていた。冷蔵庫はすっかり室温に戻ってしまった。もう冷蔵庫としては、役に立っていない。

 お母さんは、その日の夕食の準備も済ませてしまった。冷蔵庫の中には、まだずいぶんと食料があったけど、無駄になったと悔やんでいた。

「あかり、準備終わったの?」

 お母さんは、私を見つけて言った。家の中は、暗くなりかけていた。もうしばらくすると、昨日と同じで真っ暗な闇に包まれるだろう。

「準備って、何を準備すればいいの?」

「うー。取りあえず、明日の学校の準備とかね」

「それなら、とっくに終わったよ。でも、今日も停電が続くんでしょ。そっちの準備は、何をすればいいの?」

 お母さんはちょっと考えて、また口を開いた。

「そうね。昨日と同じくらいのことしか思い付かないね」

「懐中電灯は、大丈夫なの。一個じゃ足りないよ」

 私は、ちょっと唇を尖らせた。テーブルに置かれた懐中電灯を手に取って、お母さんに向けた。

「でも、電気屋さんに行ってみたけど。売り切れで取り扱っていないんだって、電池だけは買っておいたけど」

「家のどこかに、古い懐中電灯しまってないの?」

「どこかにあるかもしれないけど、どこか分からないの」

 お母さんは残念そうに表情を崩したから、私は思わず嫌な顔をした。

「二つあれば、全然違うのにね」

「あかり、手が空いているなら少し探してみてよ」

「えー。それって二階の物置でしょ」

「たぶんね。でも、違う場所にあるかもしれない」

「そんなの無理。もう日が沈みかけているじゃない。二階で真っ暗になったら、どうするの?」

「じゃあ、今日も懐中電灯一つで過ごす?」

「嫌よ!」

 私は猛烈に抗議した。二度と昨夜みたいな怖い体験はしたくない。

「じゃあ。懐中電灯持って行っていいから、探してきなさい」

「えー、嫌だよ」

 早くしないと本当に真っ暗になるわよと、急かせるお母さんに、私はしぶしぶ懐中電灯を持たされ、階段へ向かった。

 玄関はすっかり色を失って、暗闇に包まれつつあった。既に懐中電灯を用意していないと不安になった。

 私は階段を上る前に、手近なスイッチに触れてみた。パチッとびっくりするくらいの音がした。何も起こらなかった。いよいよ夕闇が訪れてきた。階段口から見上げる二階は、暗くぼんやりと上った所が見えるだけだった。パタリとも音がしなくて、さっきとは別の世界のように思えた。

「嫌だなー」

 私は懐中電灯の光を、階段に照らしてみた。気休め程度に辺りが明るくなって、一段一段の階段が光って見えた。首筋がぞくぞくする。まだ完全に日暮れを迎えているわけではないのに、どうしてここは、こんなに暗いのだろう。

 私はここでじっと粘っていても、状況が悪くなることを悟って、ゆっくりと階段を上ることにした。階段を踏みしめるたびに、知らない人の足音が響くような気がした。あと少しもう少しと自分の気持ちを奮い立たせながら、私は最後の一段を上り切った。上り切って、階段を振り返ると、上り口がとても遠くに感じられた。そこは、もうすぐ区別できないくらい暗くなるだろう。

 私は急いで、物置部屋に向かった。二階の廊下も暗くなりかけて、懐中電灯の光が頼りになった。黒い向日葵の葉っぱが茂って、大きな花のつぼみをつけ始めていた。懐中電灯の光を、あちこちにぶつけながら、私はどうにか物置部屋の前まで来た。扉は昨日のままで、開けっぱなしになっていた。ごちゃごちゃ物が多いから、光を当てた途端に、暗い所から驚くほど物があふれてきた。これじゃあ、どこかにまぎれていても分からない。時間がないから、とにかく手当たり次第に探して、大きな邪魔な物は、廊下に投げ出した。黒い向日葵の葉っぱが、カサカサ笑うように揺れた。まだ私の背丈の半分くらいにしか育っていなかった。それでも、古い懐中電灯は見つからなかった。

「どこにあるんだろう」

 黒いタンポポが葉っぱを生やし始めていた。もうじきに茎を伸ばして、黒い花を咲かせる。物置部屋の天井から床まで、懐中電灯の光を当ててみても、それらしい物は見当たらなかった。お歳暮で届いた日用品や、滅多に使わない日曜大工の箱、芳香剤の替え、自転車の空気入れと潤滑油、もらい物の食器類、携帯コンロ、ホットプレート、他にも一度も使わない物ばかりが詰め込まれていた。とても探しきれない。

 私は、とうとうあきらめてしまった。私の周りを、すっかり暗闇が取り囲んでいたからだ。黒いタンポポが、綿帽子を飛ばしていた。綿帽子は壁や床に着地すると、すぐに芽を出し葉を広げて、暗闇を作り出していた。どんどん暗闇を濃くしていった。

 これ以上頑張っても、それは見つからない物のように思えた。あきらめたなら、急いで戻ろう。そう決めると私は、慎重に懐中電灯を操って、階段を照らした。黒い紫陽花が茂みを分けた。花や葉っぱが飛び散って消えた。階段下は、さっきよりもっと暗くなっていた。私はおどおどしながら、階段を一歩ずつ足踏みするようにした。もう二度とこんな暗い階段は通りたくないと思いながら、一階へ下りていった。黒い紫陽花が、私をくすぐるように大きな葉っぱを、私の体にこすり付けてきた。黒い葉っぱがカサカサ鳴って、私を暗闇に包んだ。

 階段を下り切ったときには、私は懐中電灯を持って、真っ黒なチューリップ畑に立っていた。玄関口も、振り向いた階段の上もトンネルのように暗かった。私は多少期待を込めて、近くのスイッチを探してみた。パチッと音はしても、明かりは点らなかった。その瞬間、背筋が冷たくなった。またその夜も懐中電灯の明かり一つで過ごさないといけないと思うと、怖くなってきたのだ。

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