第8話 お母さんを捜して

 私は一刻も早く、キッチンを確かめたい気持ちで、廊下を急いだ。黒いチューリップの群れが道を開けて、光の側から暗い方へ倒れて消滅した。この暗闇が私の届かないところへ、お母さんを連れ去ってしまいそうで、恐ろしくなった。一度、お母さんが暗闇に隠れてしまえば、簡単には見つからない予感がした。心配だった。

「お母さん!」

 私はキッチンの入り口に着いたとき、力一杯呼んでみた。私の声だけが耳の中で響いて、お母さんの声は返ってこなかった。慌ててキッチンの中へ、懐中電灯の明かりを走らせた。かすかに野菜を煮た匂いが漂っていた。テーブルに、三人分の夕食のお数が、ラップを掛けて並べてあった。

 お母さんは、そこに座っていなかった。ごくりとつばをのみ込んで、テーブルの下から天井まで、探すように光を向けた。怯えた小鳥みたいに、懐中電灯の光が、部屋の中をあちこちにぶつかりながら飛び回った。それでも、光の鳥はお母さんを見つけられなかった。

 こんな真っ暗な中で、お母さんはどこへ行ったのだろう。私は完全に混乱して、部屋中を懐中電灯の光でかき回し始めた。光の鳥はすっかり消え、ただの光の筋に変わってしまった。キッチンの隅々を照らしても、お母さんの姿は発見できなかった。

「お母さん、どこにいるの?」

 私は大声をしぼり出した。期待したことは、何一つ起こらなかった。不安だけが増すだけだった。

「お母さん、お母さん!」

 必死に呼びかけた。声がかすれるほど叫んでみても、暗闇は濃くなる一方で、私の声はお母さんには届かなかった。私は、少しもじっとしていられなかった。泣きだしそうになった。懐中電灯の光を雷のように、滅茶苦茶に振り回した。あっちこっちに光が当たって、部屋中の物が壊れるように迫ってきた。

 不安がどんどん積み重なって、押しつぶされそうだった。私はあれこれ考えを巡らせた。トイレに行ったのかもしれない。それとも、お母さんは古い懐中電灯を探しに行ったのかもしれない。どちらにしても、ここにはじっとしていられない。その事だけは、はっきりと分かった。

 私は散々迷った末に、とうとう我慢できず、お母さんを捜しに行くことに決めた。そう決めると少し気持ちが落ち着いた。が、真っ暗な家の中を捜すとなると、今度は気弱になった。懐中電灯を持っていても、こんな頼りない明かりでは、この暗闇の中は心細すぎる。私が手にした明かりは、これ一つしかなかった。

 キッチンを出て廊下を、びくびくしながら歩く。しっかり懐中電灯の光で照らしていても、廊下の床や壁は、私の瞳にはいつもより気味悪く映った。お化け屋敷か廃墟のようだ。怖くてたまらない。

 これが本当に、自宅の中とは思えない。床で足がペタペタ鳴って、恐怖を誘った。廊下もギーときしんで、家の外で突風が吹き抜ける音がした。私は手にぎゅっと懐中電灯を握って、廊下を真っ直ぐに歩いた。黒いチューリップが、しきりに茎を伸ばし、大きな花を咲かせた。懐中電灯の光に合わせて、花を揺らしていた。揺らした花が光で消えてしまっても、また球根から芽を出した。葉っぱを生やし、茎を伸ばしてつぼみをつけた。黒いチューリプは、私に気付かれないように、ひっそりと花を開いた。

 私は廊下を進んだ先々で電灯のスイッチを見つけると、真っ先に確かめてみた。スイッチはパチンと弾む音を立てるだけで、全く明かりを点さなかった。その代わりに、黒いチューリップの花が咲いて、天井にぶら下がっていた。天井はときどきしか光を当てないから、すぐに黒いチューリップで一杯になった。

「何で点かないんだろう?」

 壁に手を突いて伝って歩くと、少しは気分が楽になった。壁から茎を伸ばした黒いチューリップが、私の手に触れて、ぽきぽき折れて床に落ちた。分かれ道になって壁がなくなると、急に不安が襲ってきた。何かに触れながら歩いていないと、暗闇では家の中でも迷子になるように思えた。

 私はまた手に触れる壁を失って、懐中電灯の明かりを辺りへ広げていた。トイレの扉が、不気味に明かりの中に入ってきた。こんな真っ暗なトイレの個室に、お母さんがいるとは思えない。トイレの前には、黒いコスモスが扉を隠すくらいに群がって、花を満開にさせていた。光を当てると、花が宙を舞って乱れるように散った。すぐに光の当たっていない所から、にょきにょきと茎を伸ばして、黒いコスモスは生えてくる。あっちからもこっちからも、トイレの扉を隠そうと生えてくる。

 私はトイレはあきらめ、今度は応接間と寝室のある方へ光を戻した。その瞬間の出来事だ。ちらりと誰かの影が映って、明かりから逃げるように隠れてしまった。私は当然、それがお母さんだと疑わなかった。この家にはお母さんの他に、誰もいなかったからだ。

 私は足元に注意しながらも、機敏に動いた。お母さんなら見失うわけにはいかない。

 ところが、その影は私がいくら懐中電灯の角度を変えても、暗闇にまぎれてしまって見つからなかった。消えてしまった。私は、急に全身が震えた。お母さんが、一瞬で暗闇に消滅したのだと想像した。

「お母さん、いないの?」

 私のか細い声は、誰にも届かない。もし届いているものがあるとすれば、暗闇の中で身動きしない、壁の風景画や棚の本、停電で動かなくなった古いステレオや、新型のテレビたちだろう。

 私が照らす明かりの中に、それらは私を怖がらせようと、音も立てずに飛び出してきた。私の足音だけが、ドタドタと暗闇に吸い込まれる。黒いアマリリスの花が、応接間を埋め尽くすほどに咲いていた。私が飛び跳ねるたびに、黒いアマリリスの花は逃げるみたいに、隣同士で花と花を寄せ合った。黒い花が重なると、暗い所が一段と暗くなった。どうして、みんな意地悪をするの。とうとう応接間に、お母さんの姿は認められなかった。

 残るは二人の寝室だ。光を当てると、お母さんの部屋は、扉が半分開いたままで、中までは確かめられなかった。

 昨日見たときと、全く同じだった。その時は怖くて、寝室はのぞけなかった。今度はそうも言っていられない。

 私は気持ちを奮い立たせて、半開きの扉から、用心深く懐中電灯の明かりを差し込んだ。お母さんの寝室を調べた。天井に届くくらいの桐のタンスと、古風な鏡台が真っ先に目に入った。それは、どこかホラー映画に出てきそうな趣だった。黒いカーネーションが、無数の花を並べて咲いていた。部屋中を暗闇にしていた。光を当てると、花びらが細波のように揺れて散った。畳の床には、他に何も見えなかった。

 ほっとしたのと、同時に失望した。私は、もう一度お母さんの寝室の隅から隅まで照らした。それを待ち構えたように、誰かの影が懐中電灯の光を遮った。私は驚いて、危うく懐中電灯を落としそうになった。知らない人が家の中に侵入して、歩き回っている。

「お母さん?」と呼びかけても応答がない。お母さんじゃない。私はとうとう耐えられなくなって、寝室を慌てて離れた。離れる間にも、恐怖は膨らむばかりだ。散った黒いカーネーションの花が、お手玉するように、空中に飛び上がって落ちていった。そこからまた花が開いて、暗闇を作った。

「お母さん、いるなら出てきてよ!」

 何か叫んでいないと、恐怖に気持ちが支配されそうだった。

「お母さん、お母さん! どこにいるの?」

 呼んでも叫んでも、お母さんの声は聞こえない。私は黒いアマリリスの花を一気に飛び越えた。アマリリスは風車のように黒い花を回して、私を見送った。すぐに黒いチューリップ畑の中に入った。私が通ると避けるように、黒いチューリップは茎を曲げて花を傾けた。私は暗闇に怯えながら、必死に懐中電灯を握って、キッチンまで戻ってきた。その間も暗闇のものたちは、私を怖がらせ続けた。

「あかり、どうしたの? 顔真っ青よ!」

 私は突然の声に、顔を引きつらせていた。キッチンから、お母さんがのぞいて、私はようやく安心した。

「お母さん、どこにいたの?」

「お母さんも、懐中電灯を探していたのよ。でも、見つからなかった」

「それなら、そう言ってよ。私、ずっとお母さんを捜していたんだから」

 私は不満をぶつけた。お母さんは微笑みながら、優しく私の肩を抱いた。私は泣きだすくらいに、肩をひくつかせた。

「ごめんね。ごめんね。一人で怖かったのね」

「そうじゃないけど。でも、言ってよね。お母さんがいなくなったと思ったんだからね」

 私は、すねたように下唇を出した。左ひざを曲げて、ふくらはぎをかいた。

「いなくなるわけないじゃない。それで、古い懐中電灯は見つかったの?」

「ううん、見つからなかった。それって、本当にあるの?」

 私は首を振って、うな垂れた。

「昔のことだからね。もう捨ててしまったのかもしれないよ。それにね。見つけたとしても、壊れていたら使えないでしょ」

「それは、そうだけど。でも、どうするの? 今夜も懐中電灯、一つで過ごすの?」

「仕方ないでしょ。火を使うのは危ないからね。これで我慢するしかないよ」

「ええ、今日もなの。嫌だな。今日、お父さん早く帰ってくるって?」

 私が聞いた。

「分からない。遅くなったら、向こうに泊まるって言ってた」

「ええ。じゃあ、帰ってこないってこと。嫌だなー」

「仕方ないでしょ。停電なんだから、お父さんも大変なのよ」

 結局、お父さんは何時になっても帰ってこなかった。その日の夕食は、お母さんと二人でとった。私はテーブルの上に、燭台のように光が当たる工夫をした。懐中電灯を横向きに、テーブルに均等に置いた。それで、食事をするには十分だった。。これなら、何とか真っ暗な中でも食べ物が見える。その分、お母さんと向かい合ってはいても、互いの顔は暗くて分からなかった。箸と茶碗が立てる音や、物を食べる音が聞こえるだけでも、少しは安心した。ときどき手が茶碗を変えるところが、懐中電灯の光に映し出され、マジックショーを見ている不思議な気分になった。

 その日の献立は、冷蔵庫が使えないせいもあって、肉も魚もなし、野菜だけの煮物に、お味噌汁とレトルトのご飯を温めた物だった。炊飯器も使えなかったから、ご飯は食べられるだけでもよかった。

 真っ暗の中で、懐中電灯一つの明かりで食べる夕食は、キャンプして食べるような雰囲気だった。でも、不便ばかりでちっともうれしくない。

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