第93話

 グレッグさんの治療の後、周囲は慌ただしく動いた。「治療は本物だ!」「あの人に知らせないと!」ざわめきの中からそんな声が聞こえてくる。

 程なくして、噂を聞きつけたのか色んな人がやって来た。金持ちから一般の人、スラムの人、年齢や性別も様々だ。

 中には、貴族の使者を名乗る人物が「主人に仕えるように」と、やたら上から目線で言ってきたりもした。そこはフィーの実家の名前でしのがせてもらった。エセキエル王国のアイルーン家はこの辺りでもかなり有名なようで、家名を出すなり、俺が既に士官しているものと勝手に勘違いしてくれたらしく、すんなり引いてくれた。フィー本人がすぐ近くにいたのも大きい。


「シンク。そこでフィーリアの家の名前を出す……というのが、どういう意味だか分かっているのですか?」


 ノーネットにそんなことを聞かれた。勿論分かっている。神聖術Lv9の話が今後広まれば、遅かれ早かれどこかの組織に属すことになるだろう。どうせそうなるのなら、フィーの実家が良い。アイルーン伯は立派な人物だという噂だし、何しろ跡取りはフィーだ。気心が知れているからな。


「そういう意味ではないのですが……まぁ、いいです。フィーリアも、特に異論は無さそうですし。」


 ノーネットはやたらと思わせぶりな様子だ。この話をしていた時に、フィーの顔が赤くなっていたのも気になる。……俺は何か勘違いをしているのだろうか? 気になったので突っ込んでノーネットに尋ねてみたのだが、教えてくれなかった。

 諦めずに食い下がろうとしたところで、次の患者が来てしまった。


「イリダルさん……。」


 ずーっと片隅で俺の治療を見続けていたラキが、入ってきた人物に目を丸くした。


「ラキ、知り合いか?」


「スラムの顔役だよ。元天級の冒険者で、アムリタ詐欺に遭ってスラムに落ちた、って聞いてる。」


 イリダルという人物は筋骨隆々とした体格で、右目が大きな傷で塞がれていた。もうすぐ冬だというのに随分と薄着で、顔の左側から肩に掛けて刺青が見えている。そして、右腕は肩口から先が無かった。


「……普通の治療では治せないケガも治ると聞いてきた。この腕と目は、治せるか?」


「確実に治せるかどうかは確約できませんが、おそらく大丈夫かと思います。報酬は成功時にしか頂きません。試させてもらえませんか?」


 ラグさんが言っていた、「魂の欠損」というのが気になっている。治ると期待してきた人を治せなかった時に、何と声をかけたものか……。


「治療費の借金は、冒険者として稼いだ金で返してもいいのか?」


「はい。犯罪以外の方法でしたら、どのように稼いでもらっても大丈夫ですよ。後から工場へ斡旋することも可能ですので。」


「それだ。その工場についてなんだが、うちのスラムの連中には既に治療しちまっている奴らがいる。……それでも本当に、この労働条件なんだろうな?」


 疑うのも無理はない。何せ工場の労働条件には、週休2日制で1日の労働は8時間を基本とし、それを超過した場合は残業代が発生すること、月の残業は30時間以内とすることが明記されているのだ。給料は一部歩合制であるものの、最低賃金の保証をしている。その最低賃金だけでも、十分に借金を返しながら生活できるよう設定してある。ただ、最低賃金では娯楽をする余裕は一切無いけどね。


「勿論、その条件です。寧ろこちらに利がある条件ですから。」


「利だと?」


「工場の近くには、食事と酒を安価に提供する屋台村を作る予定です。そこの屋台は働き手こそスラムから集めますが、全て工場側が運営します。仕事が終わり、暇な時間があり、金がある。そんな時、近場に安酒を提供する場所があったら……皆、そこで飲み食いするでしょ?」


「確かにな。」


 イリダルは呟き、にやりと笑った。


「多少高い賃金を工場で払っていても、工場の収益に加えて屋台村の収益、そして借金の利率を考えれば、全体としては馬鹿にできません。」


 この話にイリダルだけじゃなく、トビアスも感心したように頷いている。工場で払った賃金は、屋台村でほぼほぼ回収する。そうすると、工場の人件費はほとんどかかっていないようなものなのだ。


「成る程、お互いに損はねぇな。……しかし、あんた個人だけの話をしたら、高い治療費をとって金持ちや貴族相手に治療していた方がよっぽど儲かるだろう? 何でそうしねぇんだ?」


 それじゃカルマ値が溜まらないからだよってのが大きな理由なんだけど、説明できないんだよね。カルマ値を溜めるには、多くの人を治療する必要がある。そうするにはまず、誰でも治療できる体制作りが欠かせないのだ。

 詳しく説明できない……と言いたいところだが、スラムの顔役だというこの人を味方につけられると、今後の展開が非常にやりやすくなりそうだな。……ここはちょっと、事実を話してみるか?


「……あなたは”嘘看破”のスキルをお持ちですか?」


「……以前は持っていなかったが、詐欺に遭ってから死に物狂いで修得したよ。それが何だ?」


「これから話す事を、どうか内密にお願いします。スキルを使って話の真偽を確かめてもらって結構ですので。」


「……あぁ、内容によるがな。」


「まぁ、大丈夫です。余所に話しても話の真偽どころか、幻覚、幻聴をを疑われるだけでしょうから。……どうして俺がこうして広く治療するか、ですけどね。」


 俺は一段と声を落とし、イリダルにしか聞こえないよう話した。


「善良なる光の女神様から、『人々の助けとなれ』と言われたからです。」


「なっ!!」


 驚きを隠さないイリダルに、俺は穏やかな笑顔を浮かべ語りかける。なるべく神使に勘違いされるよう演技をする。


「……その話、本当なのか?」


「あなたが今、スキルで確認した通りですよ。」


「そうか……疑って悪かった。治療を頼んでも良いか?」


「えぇ。元冒険者の方には別口で、装備や道具類を準備するためのローンも用意してますので、良ければご活用ください。」


 実力のある冒険者はダンジョンでの稼ぎが良い。冒険者が冒険に身を投じず安全に稼ぐ、というのも変な話なのだが、一度大けがを負った冒険者は慎重になり、できる範囲を見極めて堅実に稼ぐので、投資先としては人気がある。こっちのローンは俺じゃなく、冒険者ギルドが主体となって行うことになっている。

 本人から了承も得られたことだし、治療を行う。しかし、イリダルの治療を行ったところ、ひとつ重大な問題が発生した! それは刺青だ。左頬から肩にあった刺青が綺麗さっぱり消えてなくなったのだ。どうやら”再生”の魔術的に、刺青は古傷の跡と判定されてしまったようだな。

 事前説明がなかった部分なので、謝罪し、補填する話をしたが、「いや、別に構わねぇけどよ」と言ってもらえたので助かった。うーん、次から事前説明に足そう。


 数日経ち、治療がひと段落した。現在街にいて治療を必要とする人は、だいたい治療し終えたようだ。東屋にオリバーとナタリーを残し、俺は今、オーバンさん、トビアスと3人でスラムの一角にいる。東屋ともそう離れていないので、治療の必要な人が訪れたら連絡を貰えることになっている。

 ラキの治療だが、まだ行っていない。本人が申し出ていないためだ。何度か勧めたのだが、迷っているようだった。働くことになる工場もまだできてないし、仕事のイメージがつかないのも理由のひとつだろう。なので、さっさと工場を建設することにした。明日をも知れないような重病人以外のスラムの人間には、ラキと同じように治療に慎重な者も多い。

 そこで出番となるのが、土術・極級のオーバンさんである。オーバンさんは両手で広げ持った大きな紙を睨みながら、ああでもない、こうでもない、とブツブツ言っている。


「1階部分が工場で、2階部分が居住スペースと食堂か。この線が下水配管……うーむ、まぁ、何とかなるだろう。」


「お願いします。」


 オーバンさんが手にしているのは、俺が引いた工場の図面だ。前世の工場勤務の経験を十分に盛り込んだ、会心の出来だと自負している。

 何回か工場立ち上げ支援で海外に行った経験があるし、日本の工場を建て替える時に議論になった部分を覚えていたので、キーとなるポイントは抑えている。……工場立ち上げ時の俺の主な仕事は、サーバー室の設置やネットワークインフラの構築だったのだが、ぶっちゃけネットワークなんて要望をまとめてメーカーへ丸投げしたら終わりなので、俺は結構暇だったのだ。

 暇にしていた俺は他の会議になるべく顔を出し、議事録を取ったり、会議の邪魔にならない程度に分からない部分を質問していた。システム関係で改善できる部分が無いか探すためのヒアリングだったのだが、今、こうして異世界での工場建設の役に立つとはな。

 工場内で使う諸々の備品は、既に発注済みだ。俺の工場で使う備品ということで、ケガを治療した人達が協力を申し出てくれて、そのツテや噂を聞いたという鍛冶師や木工職人が優先的に仕事をしてくれているようだ。


 オーバンさんが魔術の詠唱に入る。


「天級・アースコントロール!」


 術に反応し、地面が蠢く。地鳴りと共に土や岩が隆起したかと思うと、なめらかで硬い壁の建造物が地中から生えるようにそびえ立つ。あっと言う間に、俺が図面で引いた通りの工場ができあがった。

 アースコントロールはLv10の術で、自由に土を操ることができる。大型の建物でも天級となれば、今やったように一発で建てられるのだ。……流石に城レベルを建てるとなると、極級が必要らしいけど。


「これで完成だ。何か不備があったら言ってくれ。……しかし、本当にいいのか? グレッグの治療費が、これしきのことで。」


「いえいえ、十分過ぎるくらいですよ。工場建設が完了すれば、スラムの人たちも治療に前向きになれるでしょうし。」


 働く場所が存在していないのに、そこで働く契約をしろって言われても困るよね。

 工場建設の土地だが、イリダルが住民達と話をつけて空けてくれた場所だ。イリダルは想定通り俺の事を神使と勘違いしてくれていて、非常に協力的であった。スラムの人間にも「あいつは信用できる」と言ってくれている。詐欺に遭い、スラムに落ちたイリダルは非常に慎重な性格になっていたらしい。そのイリダルに、俺が信用に足ると保証されたことによって、スムーズに土地の明け渡しが行えたのだった。


 工場の建設も終えたところで、スラムから希望者を募って工場の説明会を実施することにした。実際に働く工場の中で、どんな作業があるのかをひとつひとつ説明していく。

 参加者の多くは部位欠損の治療を希望するけが人だが、中には単純に仕事を求めてくる人もいた。

 さて、まずは何を作るかの説明からだ。俺が試作した足袋を全員に渡し、その場で履いてもらった。


「これを履いていると歩きやすく、疲れにくい。また、踏み込みやすいので、戦闘でも有利に戦えるんだ。」


 説明の後は、実際に歩いてもらう。「成る程なぁ」「親指が分かれているだけで、こんなに違うものなのか」と関心の声が上がった。


「見ての通り、作りは簡単だ。だから真似されると早いだろう。そのため、この工場では品質を優先する。」


「品質?」


「壊れにくく、使いやすい製品を作るってことだ。実際にどうやって行くのか、説明する。」


 この説明会に産業スパイが紛れ込んでいても、実際に真似するのは簡単ではないだろう。まず、この工場の工賃は非常に低い。一般市民から働き手を募っても、まず集まらない。今現在、仕事の無いスラムの人間を働かせる想定だから成り立つ賃金体制なのだ。また、これだけの規模の工場を新しく建てられる土地を見つけるのも大変だろう。


「まず、作業工程を細かく分け、1人1人が作業する範囲を狭める。そうすれば、作り方を最初から最後まで修得するよりも、短時間で作業のやり方を覚えることができる。1つの工程に限り、高レベルな作業が早くこなせるようになるんだ。」


 各自が全部の工程を短時間で学び、習熟するのは不可能だ。日本でも、言葉の通じない外国人相手にこの方法で作業習熟させてラインに突っ込んでいる。特定の作業の経験者なんてほとんどいないから、未経験でも早く戦力になるようにする工夫なのだ。


「縫い方のマニュアルも、細かく用意させてもらった。どの場所からどうやって部品を取り出し、どのように縫っていくのか、何に注意すべきか、この作業標準書に全て書いてある。作業につく前は熟読し、この通りに作業してくれ。」


「完全に、この通りにか?」


 指示の細かいマニュアル――作業標準書を見て、そんな質問が出た。


「そうだ。独自のやり方は一切許容しない。改善案が思い浮かんだら、提案書にそれを書いて提出してくれ。作業標準書に反映されたら、その方法を使っていい。反映されるまでは、決してこの作業方法から外れてはいけない。」


 何故、作業方法をがっちり決めるか……なのだが、作業方法が大きく品質に影響を及ぼすからだ。どこからどのように縫っていくか。意外とそれが、完成品のシワだの使い心地だのに影響を及ぼす。作業を続けて慣れていくと、ついつい作業しやすい方法に勝手に変更してしまおうとする。それを防止するのが作業標準書だ。一応、各項目で定めてる作業の目的や理由も、全て作業標準書に書いてある。

 ルールを守ることの重要性が身に染みているであろうトビアスは、俺の説明に神妙な顔で頷いている。……そうだな。最初はトビアスに製造ラインの監督者になってもらって、ルール通りやっているか見てもらおうかな。


「何度も言うが、これは品質を守るためだ。品質が下がれば、この商品に価値はなくなる。使えれば良いというものではない。使い易さ、使い心地こそが大事な商品だ。品質が落ちれば商品は売れないだろう。そうなれば、この工場は閉鎖せざるを得ない。だから、皆の仕事を確保するためにも、品質に対しては厳しく見てほしい。失敗品が流出するくらいなら、いっそ生産しない方がマシだ。」


 この発言にどよめきが起こる。……たぶんこの世界の工場経営者は、多少の失敗は見過ごしても作って売った方が良いと思われているんだろう。ここはしっかりと仕事を始める前に意識の改善を行う必要があるな。

 場合によっては過剰品質とまで言われるジャパンブランドの再現だ。実際に使用するエンドユーザーは一切気にしないであろうシワなんかに対しても、納品先からクレームが来るのだ。ユーザーは洗濯してから着るじゃん! そのくらいのシワ何も問題ないじゃん! って言っても許してもらえない。

 ちなみに、起きた問題の原因が「作業標準書通りに作っていなかったから」という場合なんぞは大変なことになる。作業標準書通りに作ってなかった物は、見た目が良品であっても全て不良扱いにされかねないのだ。

 実際に作るだけの立場から、作って売る立場になるとその品質への過剰な反応も理解できる。たった1個の不良品でも、それまでの信用を一気に失う可能性があるのだ。ましてや命に関わる物なら猶更だ。


 さて、縫製現場の次は検査工程だ。作業台に並ぶ木製の足型に、縫製の終わった製品をはめていく。そして目視と触感による品質確認を行っていく。


「検査項目はこれだ。」


「「「え!?」」」


 一同から疑問の声が上がる。


「シンク、これ……48項目もあるけど?」


「そうだが?」


 何を言っている。これでもだいぶ抑えたんだぞ。本当は140項目にしたかんだが、流石に検査に時間がかかり過ぎてしまうので、泣く泣く削った結果の48項目だ。だいたいそれにしたって当たり前の事しか書いていない。汚れの有る無し、シワの有る無し、縫い目のピッチ、足形にはめた時の各部位のテンション等々。


「……これを片足ずつ、全部検査していったら、時間がいくらあっても足りないのでは?」


「そんなことはないぞ。こうやるんだよ。」


 実際にやって見せる。足袋を手に取り、表面の汚れ、シワをサラッと見る。裏返し、指で縫い目をなぞりながら触感と縫い目のピッチを確認していく。最後に足型にはめて、テンションを触りながら確認していく。これで完了だ。


「……それ、普通にできるようになるのか?」


「色々と同時にやっているから難しそうに見えるだろうが、要は慣れだ。」


 こういう作業は、実際にできると分かればそう難しいものでもない。サラッとやっているようだが、見落としをしない集中力が求められる。完成品検査にはある種の才能が必要だ。同じ作業を淡々とこなしながらも、突如現れた違和感に気付けるかどうか。意外とこれが難しい。繰り返し作業しているといつの間にか惰性になっており、違和感を見逃してしまうことがあるのだ。集まった人間から、適正のある人物を選出しないとな。


 さて次だ。本来なら一番頭の工程となる裁断だ。生地をプレス機で型通りにカットしていく。プレス機は電動でも油圧でもなく、人力である。ここはどうしたって力が必要なので、力のステータスが高い人物を割り当てる予定である。

 働き手となる人達への説明は以上で終わりだ。説明会に集まった人達には、一度帰って十分に考えた上で契約するかどうかを決めてもらうようにした。

 参加者の表情は明るい。ひとつの作業工程が短いことで、とっつきやすく感じてもらえたようだ。あとは前向きに検討してくれることを祈ろう。


「トビアス。ちょっとこの工場について説明するから、ついてきてくれ。」


「え? 今、終わったんじゃないのか?」


「作業者向けのはな。俺は治療もあるから、お前に工場の責任者を任せたいんだよ。だから、責任者として知っていなければならない部分を説明しておきたい。頼めるか?」


 トビアスの親父さんからは、トビアスを好きに使って良い、とお許しをもらっている。新しい製品を作り出す工場の立ち上げは、良い経験になるだろうとのことだ。


「俺が責任者!? ……いいのか? 俺で。」


「この工場は何よりも、ルール通りにやることが大事なんだ。それを良く知るお前だからこそ、任せたい。基本のルールはもうできている。だから、上手くいかなかったらそれはルールを作った俺の責任だ。トビアスに頼みたいのは、ルールを守らせて作業させる、その一点だ。」


「……責任はルールを作った人物にある、か。そうだな。それくらいなら、俺にもできそうだ。やらせてもらうよ。」


 トビアスは少し戸惑いながらも、了承してくれた。

 工場だが、物資の搬入口、裁断工程、縫製工程、検査工程、梱包・出荷工程と、全て上流から下流へ流れるようにレイアウトされている。これは工場建設時にちゃんとその内容を織り込んでおかないと存外に難しい。

 搬入された布をすぐ裁断工程に入れ、そこで仕上がったものを隣の縫製工程へ運ぶ。工程が繋がっていれば、物流動線が短くすっきりする。これが利益率の高い工場を作るポイントだ。物流動線が長いというのはどういうことか? 単純に、2倍の長さがあったとしよう。そうすると本来、1人でできる作業も2倍の時間がかかり、2人必要になってしまう。

 直接生産に参加しない人――間接要員が多い工場というのは、利益率がどうしても悪くなるのだ。


 そして品質を守る上で大事な要素が『先入れ先出し』だ。要はトコロテンのように、最初に入れたものが最初に出てくるよう工夫することだ。これを実現するために、材料を置く全ての場所に傾斜のついた棚を設置している。棚の底面はローラーになっており、棚の入口から入れると出口に向かって自重で滑っていくのだ。自然と出口では、最初に入れたものが先頭となって並んでいるという寸法である。出口にはストッパーとなる突起があるので、こぼれ落ちたりはしない。

 原理はコンビニのドリンク売り場と同じである。店のバックヤードからドリンクを補充するとレーンに沿って滑っていく。客がドリンクを取り出すと、自重で後ろの商品がどんどん前に来る。最初に入れた商品――賞味期限が早いものから客に取ってもらえるというわけだ。

『先入れ先出し』の管理という点で最悪なのが段積みだ。

 本屋の場合は平積みというのだが、新刊コーナーに積まれた本の山を思い浮かべてもらうと分かりやすい。この場合、最初に置いた商品は一番下にある。しかし、客は一番上から取っていく。さらに在庫を補充する時、特に意識しないとそのまま上に積まれてしまう。そうすると、一番下にある商品はずーっと古いままなのだ。

 さて、これは何が最悪なのか? 本屋ならば、次の新刊を置くために商品が定期的に整理されるから問題ないが、布の場合は気づけば数ヶ月前の在庫が放置されたままになっていた……なんて事になりかねない。布は放っておくと変色するのだ。一部だけ変色してしまっては、縫い合わせたときに色がおかしくなってしまう。それでは買い手が付かないので、結局廃棄してしまうことになる。部品の廃棄は単純な損である。そう言った損失を可能な限り出さないようにする工夫が『先入れ先出し』なのだ。


 トビアスに以上のような工場のコンセプト、ルールを守るべき理由などを話していく。トビアスは主席だけあって非常に優秀で、話した内容の要点を良く理解してくれた。

 大事なことをもうひとつ伝えておこう。


「トビアス、安全についてはことさら配慮してほしい。ちょっとでも怪我の原因になりそうな事が見つかったら、すぐに報告してくれ。」


「ちょっとの怪我でもか?」


「あぁ、そうだ。」


「裁断や針仕事なのだから、多少の怪我はやむを得ないと思うのだが?」


「それでも、リスクを最小まで減らせるかどうか考えてもらいたいんだ。針仕事に関しては指ぬきを支給するが、安全に作業できるアイデアがあったら積極的に採用してほしい。」


「どうしてそこまで安全に拘るんだ?」


「理由は簡単だ。危険ってのは損だからだ。例えば、針仕事中に指を刺したとする。治療しないことには、商品を血で汚してしまうだろう? その治療をしている間、作業は止まるんだ。それってすごく損じゃないか?」


「あー……、確かに。」


 トビアスはちょっと期待外れのような顔をした。何だよ、その顔は。


「言っておくが、俺は善人ってわけじゃない。特に利益を追求するうえで、必要なら切り捨てるべき部分も出てくるだろう。しかし……だ。利益を追求していくと自然と、人にやさしい環境作りが欠かせなくなってくるんだよ。」


 某アメリカの大手スマホメーカーのトップにいた故人が、毎日同じ服を着ていたというのは有名な話だ。その理由は、決断の回数を少なくするというもの。どれだけ単純な決断でも、その後の決断の精度を下げる要因になり得るという話がある。多くを決断する立場の人は、重要度の低い決断の回数をより減らす工夫が求められるのだ。

 さて、これが安全とどう繋がるかというと、注意力というのも1日の間にガンガン目減りするのだ。危険な職場だったらどうだろうか? 自分の安全を守るために注意力を消費するあまり、製品の出来にまで気が回らなくなるのである。

 製品の質に注力してもらう……そのために、安全な職場である必要があるのだ。


「利益を追求すると結果、人にやさしい環境作りになる……か。」


 トビアスは俺の顔をまじまじと見ながら「確かにその通りか」と感心した顔をした。何だよ、その顔は? 

 まるで、俺自身はまったく優しくないが利益追求のために仕方なく優しくしている、みたいじゃないか。



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