第46話 046

玄関に立つと、懐かしい匂いがした。


子供の頃、夏休みにおばあちゃんの家にしばらく行ったあと、自宅に帰って来た時みたいな、

懐かしい違和感。


中途半端に揃えられたパンプスの隣に、革靴を脱いで、フローリングに踏み出した。


瞬間。


「和樹! 帰ってくるならラインくらい入れてよ! 夜ご飯あんたの分ないんだけど」


いつも電話越しに聞いていた声が近付いてきて、廊下の向こう、リビングに繋がるドアが開いた。


「、、、ごめん」


暗い廊下が思っていたより長く見える。

長く見えるのに、逆光の向こうの声と影があまりにもハッキリしすぎていて、思わず目を細めた。


顔も見ずに、声も聞かずに、

俺の名前を呼んだその声に、鳩尾の辺りが一瞬クッと詰まるような気がしたけれど、


「おかえり。今日そっち、会議だったんでしょ? お疲れさま」


スルリと俺の前に歩み寄って、ごく自然に鞄を奪う明里の姿に、一瞬で全てが吹き飛んだ。


「あんたの分の夜ご飯ってゆーか、私も特に何も用意してないんだけどね」

促されるままに、リビングに向かう。

二人で選んだ家具が、そこで俺を待っていた。


「道混んでた? こっちまだめっちゃ寒くない?」

差し出されたハンガーを受け取って、コートを掛ける。

「いや、そんな混んでなかったよ」

「そっか。良かったね」

ん、と、手を差し出されて、ああ、とハンガーを差し出した。

「何かねー、そろそろ和樹、帰って来るような気がしてたんだよねー」

廊下を戻って行きながら明里が言う。

「ん? どして?」

ジャケットを椅子の背に掛けて、その声の方に聞く。

「何だろ。転属もあったし。堂島くんとも飲んでたじゃん? 何か溜まってんだろーなーって」

別のハンガーを持って戻って来た明里が、ジャケットを掛けると、俺のネクタイに手をかけた。


「それとも」


その手に、

ネクタイを緩めるどころか、


「スッキリしたから帰ってこれたの? 色々と


締め上げられた。


「っっっ!」


突然の事に、物理的にも心理的にも、息が詰まる。


「どーせまた新しいオフィスでも愛嬌振りまいてんでしょ? 毎週末、大した用事も無いのに、オフィス長、どーしましょー、オフィス長、もう辞めたいです、って欲求不満の人妻の相手してんでしょーが!!!」


「じでまぜん、、、、」


「ったく。ちょっと顔が良くてちょっと対人スキルあるからって調子こきやがって」


「ごめんだざ。。。」


壁際に追い詰められて、本当に呼吸が詰まる。


「ほんとにバカ」


止まりそうな呼吸の向こうで、明里が俺の目を覗き込んだ。


壁に背を着いて、体重を預けると、明里と俺の目線は丁度重なる。


「、、、何でホントに帰って来ちゃうのかなぁ、、、」



ネクタイを締め上げる力が緩んで、明里が俯いた。


「明里?」


壁に押し付けられていた力が抜けて、自分の重さが足に戻ってくる。

それ以上何も言わずに、明里の手が、器用にネクタイを解いていく。

その無言の時間が、何でかすごく居心地が悪くて、何か言おうと思うのに、こんな時に限って、言葉が何も出て来ない。


手の動きに合わせて揺れる明里の髪から、自分が昔プレゼントした香水のラストノートが沸きたって、鼻先をくすぐった。


「明里?」


もう一度名前を呼んでみる。


「ん?」


外したネクタイを持ったまま、もういつも通りの明里が顔を上げた。


ショートボブに整えられた髪を耳に掛けると、一昨年のクリスマスにねだられたピアスが揺れている。


「会いたかった」


「知ってる」


「明里は?」


「会いたくなかった」


不器用に唇を尖らせる表情が、いちいち可愛い。


「じゃあ帰ろうかな」


お揃いの指輪が光る手からネクタイを奪い取ると、少しもあわてずにネクタイを奪い返しに掛かってくる。

その腕を捉えて、強引に腕の中に閉じ込めた。

ひきょうものー、とか何とか言いながら、明里が暴れる。

絶対に俺からは逃げられないくせに。


「今日さ」

「ん?」

「突然帰ると怪しいって堂島に言われて。それらしい理由ってヤツを車飛ばしながら考えてたんだけど」

「うん。めちゃくちゃ怪しいもん」

「そうかな?」

「そうだよ」

「でも、特に理由なんてないんだよね」

「。。。嘘が下手だね。相変わらず」

「嘘じゃねーし」

「。。。そゆことにしといたげる」

「。。。このやろう」



腕の中の明里が、観念したようにため息を吐いて、力を抜くのが伝わってきた。



「理由があってもなくても、どーでもいいよ」


もぞもぞと顔を上げて、明里が笑う。


「何か知らないけど、あんたはわたしに会いたくなっちゃったんでしょ?」


「ん。まあ」


少し緩めた腕の隙間から明里の両手が伸びてきて、俺の頬を包んだ。



「何しでかしたんだか知らないけど、許してあげる。

 おかえり。わたしのかわいい和樹」

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