第38話 038
アパートの最寄り駅からの道沿いは、桜の花びらでほんのりいつもよりも明るい。
今週中に出て来なかったら週末に電話する、と約束して、堂島とは別れた。
まだ11時前だったけど、急いでしまう自分の足が恨めしい。
いつものコンビニが見えて、急ぐ気持ちと罪悪感を天秤に掛けて、罪悪感の方に軍配が上がった俺は、新しいiQOSと小さなケーキを買うことにした。
「ただいまー」
アパートのドアを開けて、中に声を掛ける。
そんなこと、したことがなかったのに。
革靴を脱いで揃えている間に、
「おかえり!」
足音と声がして、ドアが開く。
こんな時間がある事も、数日前まで知らなかった。
「遅いー」
コートの胸元に擦り付けられる額も。
「ごめん。ちょっと野暮用で」
そう言い訳する自分も。
「ご飯食べて来ちゃったの?」
着替える俺にじゃれつくように、様子を伺う目も。
「ちょっと飲んできたけど、腹は減ってるよ」
そんな俺の言葉に、溢れる笑顔も。
リビングのテーブルには、ラップが掛かったグラタンとスープ。
それを電子レンジに運ぶゆかり。
それから、冷えた缶ビール。
「今日もお疲れ様でした」
プルトップを開けて、乾杯を要求する仕草に、
思わず口元が緩んだ。
「ごめんな、遅くなって」
そう言いながら、隣に座るゆかりの髪を撫でる。
猫だったら、喉を鳴らす音が聴こえてきそうにうっとりした表情で、ゆかりが頭を振った。
「鍵が開く音が、今、一番好き」
目を細めてそんな事を言う。
「ケーキ、買ってきたから、食おう」
テーブルに置いたコンビニの袋ですら、今までに無かった、何か、大切なものに見えてくる。
「あ、そうだ」
電子レンジから電子音が聞こえて、ゆかりが立ち上がった隙に、寝室に置き去りにしてきた紙袋を回収するのも、
えらく新鮮な感覚がした。
「ゆかり」
テーブルに置いた皿から、熱そうにラップを外したゆかりが、座りながら振り返る。
突き出されたふたつの紙袋にキョトンとした顔をして、
「どしたの?」
と、紙袋を避けて、俺の顔を見た。
「お前のiQOSと、あと、スマホ」
「え。。。」
「一応、賃貸だし。iQOSのがいいかなーと思ったのと。
俺、帰る時間決まってないからさ。携帯あった方がいいなって、ちょっと思って。今日みたく遅くなる時もあるから」
言い訳のように早口に言って、ゆかりの顔を伺う。
「。。。。。。」
無表情で、紙袋の中身をしばらく見つめてから、
「かずき、、、、、、」
ゆかりの細い腕が、
俺の身体を抱きしめた。
胸元で、ゆかりの小さな身体が震えている。
俺は、その身体を、両腕に閉じ込めた。
「かずき」
ゆかりが俺の名前を呼ぶ。
「ん?」
腕の中のゆかりのつむじに、唇を押し当てた俺に、
「だいすき」
首を捩って顔を上げて、
ゆかりが笑った。
その笑顔と目が合って、
「俺もだよ」
その小さな唇に、
自分の唇を、
押し当てていた。
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