第32話 032

鍵を捻る重さが毎日違うなんてこと、あるわけないんだけど、今日はやけに重かった。


玄関にちょこんと置かれた小さなスニーカー。

まだ全然慣れない。


無言でダイニングへの扉を開けると、ほかの部屋からかと思っていたいい匂いが肺にダイレクトに入ってきた。

嗅覚の驚きが先で、一瞬なにが起こっているのか分からなくなる。


「カズキ! お帰りなさい!」


リビングから、髪の毛を後ろで縛ったゆかりが飛び出してきた。


真っ直ぐに走ってきて、ぎゅっと抱きついてくる。


「、、、ただいま」


ぐりぐりとコートの胸元に額を押し付けてから、くんくんと匂いを嗅ぐ。

お前は犬か。。。?


「タバコくさい!」


顔を上げて、俺の目を覗き込んでそう言いながら、鞄を奪うと、寝室に持って行ってしまう。

有無を言わせないマイペースに流されて、俺も寝室へと向かった。

コートも、ジャケットも、ネクタイも、テキパキとハンガーに掛けるゆかりに、さっきまでの後ろ向きな、少し猫背な姿勢が正されていくのが分かる。


「タバコ吸ってきたの? お客さんが吸ってたの?」

ハンガーに掛けたコートの匂いを嗅ぎながら、ゆかりが振り向く。

「外で吸ってきた。いる? ポケットに入ってるよ」

ワイシャツのボタンを外しながら、コートを顎でしゃくって見せた。

「もらうー!」

ごそごそとポケットを探って、お目当ての物を見付けると、ハンガーを全て、クローゼットに押し込んで、足早にキッチンへと去っていく。

やれやれ。

ふぅっと息を吐いて、他の仕事着も脱ぎ捨てた。

ワイシャツを片手に、リビングに戻って、

「俺のジャージどこ?」

換気扇の下で背伸びをしている背中に聞く。

「ソファーに畳んである」

たしかに、ソファーにはグレーのジャージがきちんと畳まれていた。

「髪、タバコくさいからシャワー浴びるけど、もしかして料理とかしちゃった系?」

バスルームへのドアに向かいながら、チラリと背中に投げかける。

「しちゃった系。でも、帰ってくる時間分かんなかったし。もう冷めちゃってるだろうからどうせチンするし、気にしなくていーよ」

振り向かないままゆかりはそう言ったけど、その背中から、なんとも言えないオーラが滲み出ている気がする。

いや、確実に、ダダ漏れている。


くそ。

男ってのは単純なんだよ。


バスルームのドアの向こうに、ワイシャツを放り投げて、ゆかりのポニーテールを軽く引っ張る。


「気にする。何作ったの?」


「ミートソース」


「味見した?」


「してない」


「おいっ」


笑ってゆかりの手からタバコを奪い取る。

あっ、と、こっちを見上げたゆかりにお構いなしで、吸いさしを咥えて一息吸い込んだ。

「早くあっためろよ。俺の気が変わんないうちに」

そう言って追い立てると、

「うそだもん」

と、唇を尖らせた。

「何が?」

俺のトレーナーを着ていても分かる、細い肩を見下ろす。

「昨日」

そのまま俯いて、ボソボソと話すゆかりの、伏せられた長いまつ毛に、妙な優越感が湧いてきた。

「昨日?」

意地が悪いな、と自覚しながらも、何でもないというように、煙を吐き出す。


「昨日、8時ってゆったから。今日はちゃんと8時に帰ってきてくれると思ったんだもん」


壁に掛けられている時計の針は、8時を7分、過ぎたところだった。


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