第18話 流れる噂

 携帯がテーブルの上で何度も振動する。俺は数学の証明問題を中断し、画面を見た。


 こんな夜に電話とは非常識な奴だと思ったが、画面を見た途端考えは変わった。電話をしてきたのは、俺の携帯に登録済みの電話番号からだったのだ。


「……はぁ」


 画面には『実家』の二文字がある。

 俺は一人っ子なので、『実家』と言えば電話をかけてきたのは両親のうちどちらかということになる。

 話をしたくはないが、出なかったら後が面倒そうだ。


「もしもし」


 通話ボタンを押し、声を出す。緊張のせいか、驚くほど低い声が出た。

 しかし、電話の向こう側はもっと低い声だった。


「圭、体調は大丈夫か」


 電話口の向こうには、父さんが居た。


「大丈夫だよ。もう退院したし、父さんが心配するようなことは、何も無い」


「一人暮らしなのを良いことに夜更かしをして、挙げ句倒れるような奴は信用できんな」


 父さんには、俺が倒れた原因についての情報が病院から伝えられている。寝不足で過労。寝不足の理由を俺は口にしなかったので、父さんは俺が夜更かしして遊んでいるのだと思ったらしかった。


「最近は体調が良いから、大丈夫。これは本当だから」


 事実、周防のおかげで俺の体調は寝ていなかった時に比べてすこぶる良い。


「……じゃあ、テストも大丈夫か」


 自らの鼓動が早くなるのを感じた。


「彩華ちゃんには、勝てそうか」


 淡々と。

 淡々と、よくそんなことが言える。


 母親同士が高校時代に親友だったことから、俺と彩華は生まれたときから家族ぐるみの付き合いをしていた。

 自分の息子が負けっぱなしなのが気に食わないのか、俺の成長に繋がるとでも考えているのか、父さんは昔から、よく俺と彩華に勝負をさせた。とにかく比べられて、比べられて、俺は全部負けたのだ。


 それでもなお、こんなことを聞いてくる。「勝てそうか」と。

 畜生。

 そんなの俺だって分からない。

 今まで殆ど勝てた試しが無いんだから。


「……頑張るよ」


 結局、かなり長い間考えて、俺は答えをぼかした。

 勝てそうだなんて、言えない。俺に言えるのは、頑張るということだけだった。それだけは、間違いない。


「そうか。まぁ、それだけだ」


 それだけ言って、父さんは電話を切った。


 多分、心配してくれたのだろう。俺の我儘で遠方の彩華と同じ学校に通わせてもらっていることは、感謝している。育ててもらったことも、勿論感謝している。

 しかし、俺はどうにも父さんが苦手だった。なんだか、俺の手に余る期待を背負わされているようで。


「……はぁ」


 とにかく。気分が上がろうと落ちようと、父さんがどうだろうと、やることだけは決まっている。

 努力は裏切らない。

 ならば、それをするのみだ。止まっている時間などない。一刻一秒が勝負を決めるのだ。きっと。


 ……そう考えると、今日コンビニ前でアイスを食べたのって、やっぱり失敗なんだろうか。でも、あまりあの時間を失敗とは思いたくなかった。たまになら、かえってリフレッシュして効率が上がるかもしれない。

 そんな言い訳をして、再び机に向かう。

 また、長い夜が始まる。




 教室に入ると、妙に視線を感じた。特に女子陣に見られているようで、一瞬モテ期でも来たのかと思ったが、どうもそんな雰囲気でもない。


「譲葉」


 取り敢えず、宿題の提出をチェックしている譲葉に話しかける。


「おはよう、圭くん」


「おはよう」


「いやー、注目の的だね」


 譲葉は周りを少しだけ見て、苦笑した。


「俺の顔に何か付いてるか?」


 そんなはずは無いと知りながらも、取り敢えず言ってみる。


「敢えて付いていると言えば、恋愛の相が見えるよ」


「恋愛?」


 全く心当たりが無い。しかも、俺に彼女が出来たとか失恋したとかいうことが仮

にあったとして、こんなに注目されることは普通無いだろう。


「仲良さそーにアイスを食べていたそうじゃないですか。夜まで練習してる女バスの子たちがね、目撃したらしくて」


「あー……」


 昨日コンビニの前に居たのを見られたのか。考えてみれば、学校の直ぐ近くだし、見られないほうがおかしい。


 しかし、別に周防との関係を周りに誤解されようが、さしたる問題は無さそうだった。肝心のよく話す譲葉は真実を理解してくれているわけだし。


「なんかもう、学校中で噂だよ。そもそもいつも寝ている周防さんが恋をするっていうのも衝撃だし、相手はずっと勉強してる真面目クンだもんね。少女漫画とかでありそうなシチュだよ」


「シチュだかシチューだか知らないが、別にどうでもいい」


 教室に入った時はてっきり何かデマというか、風評被害を受けているんじゃないかと思ったが、そうじゃなくてよかった。


「……どうでもいいって言うけどさ。噂されるのって結構うざったいよ。ちょっと話しただけでからかわれたりとか、さ」


「なんだか実感が籠もった喋り口調だな」


「中学の時とか、ちょっと男子と話すだけで恋人認定だからね。よく考えたら、彩華さんとそういうの、無かったの?」


 確かに、譲葉の言う通り中学生ってそういうところがある。中学校で俺と譲葉が今のように話していたら、からかわれたこと間違いなし。帰り道で一緒にアイスを食べていたら「お前ら結婚するんだろ?」とか言われていただろう。


 しかし。


「彩華とは、そういうの、あんまり無かったな。入学したての頃はちょっとあったけど、しばらくすると皆、俺と彩華の勝負の方に意識がいくからなぁ」


 あの頃は同じクラスだったし、毎日のように小テストの点数を比べていたものだ。まぁ、小テストは互いに満点が多いからあまり勝負にならなかったが。


「やっぱり二人はライバルって感じなんだね。なんかつまらないけど」


「つまらないって言われてもな」


「その点、周防さんとの関係は謎が多くて面白みたっぷりだからね」


 譲葉は俺の背後、教室の奥の方へ目を向ける。恐らく、何時も通りうつ伏せで寝ているであろう周防を見ているのだ。


「否定すると益々面白がられそうだし、特に反応しないことにするか」


「まぁそれが正しいと思うよ」


 譲葉が四十三番の欄にチェックを入れて、宿題の提出状況が明るみになる。提出していないのは、周防だけだ。


「あ」


 表を見ていた譲葉が、短い声を漏らす。


「どうかしたか?」


 チェックになにか不備でもあったのだろうか。

 すると、譲葉は顔を上げ、俺の目をじっと見た。


「いや、否定すると面白がられるっていうのはそうなんだけど。一人、否定した方が良い人が居ない?」


「あ」


 そういえば、全く説明していない奴が居た。

 彩華だ。

 彩華と周防についてちゃんと話をしたのは、初めて空き教室へ行った日が最初で最後である。

 その時でさえ「彼女が出来た時は連絡しろ」とか騒いでいたし、こんな噂が出てアイツはどう思っているだろうか。


「もし噂を信じているとすれば、黙ってたことに怒ってるかもね」


 譲葉は名簿をファイルにしまって、眼鏡をくいと上げる。


「怒る、か?」


 確かに彩華はいつも感情の起伏が激しいやつだが、あまり怒るイメージは湧かなかった。それも俺の噂ごときのことで。


「早くに誤解を解いとくべきじゃない?」


「まぁ、それはそうだな」


 とはいえ、普段彩華は昼ごはんをバスケ部の友達と食べているから、昼休みに会うのも難しい。放課後は空き教室に行くし、彩華も部活動に勤しんでいることだろう。


 そうなると、一番早くても会えるのは夜になるだろうか。


「早く、早くね……」


 誰に言うわけでもなく、一人呟く。

 別段理由は無いが、不思議な不安があった。

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