弐・本>友

 朱を斑に混じえて紫陽花色に染まる夕焼けが町全体を覆う時刻。なのに依然として気温は変わらず、コンクリートからはしゅわしゅわっと熱気が漏れ出す。そんな炎暑の夕方だった。


 晴翔と別れた俺は一人寂しく家路を辿っていた。スマホを開くと母から『そろそろ帰ってきなさい。あとついでに卵買ってきて』とLINEがきていた。買うといえばそうだ、思い出した。乱歩の本に気を取られ過ぎて「十角館の殺人」を買うのを忘れてしまった。今日の思い出の品が卵とは……虚しい。


 深閑たる夜をゆったりとした足取りで歩く。さほど古書店から自宅は遠くなく、急ぎ足でなくても十五分たらずで着ける。なので急ぐことはない。


 この時間帯は部屋に篭って読書している。なので眼界に広がる夕方の景色が妙に新鮮で少しばかり心踊った。水音、虫の音、風の音が静かに聞こえる。


 家々のカーテンの隙間から微量漏れる明かりと、熱気を切り裂くように差す月の明かりを頼りに俺は黙々と歩く。すると橋の近くに無機質な光を発する水銀灯が目に入った。


 自動販売機だった。喉が乾いていたので丁度良いと思い、俺は明かりに近付いた。


 チャリンッ––––––


 俺は自動販売機のすぐそばで何かを蹴った。もしや……と思い地面を探すと、なんと「五百円玉」が落ちていたのだ。滅多に降ってこない幸運に感謝しつつ俺はその「五百円玉」を硬貨投入口に入れようとした。だが、はたと動きを止めた。


 ポケットには千円札、手に持つ硬貨は五百円。俺は今、合計で「千五百円」を所持している。すなわち乱歩の本が買えるということだ。咄嗟に後ろを見る。ここは古書店からさほど離れていない。腕時計を見る。まだ営業時間内だ。俺は神様に感謝しつつ、颯爽と夕を駆けた。



 目的の本はすぐ見つかった。確認のため表紙を見ると「江戸川乱歩著犯罪幻想完全復刻版」としっかり書かれてある。カウンターに持って行こうと思ったが、念には念を、背に貼ってある値札を見た。


「はぁ?」


 俺は驚きのあまり声が漏れた。晴翔と見たときは「1500円」だった値札が、今はなんと「1000円」になっているのだ。この数分間で一体何が……。


 ガチャッ–––––––


 扉が重々しく開かれる音が聞こえる。俺はその時途轍もなく嫌な予感がした。今の来客とは絶対に会ってはいけない。そんな根拠の欠片もない予感がしてならないのだ。俺は恐ろしい予感に従い本を元の場所に戻して、本棚の裏側に着いた。


 コツコツコツと早足で誰かが来る。俺は予感が当たらないことを切実に願った。だが、その願いは隙間から来客の顔を見た瞬間、儚く散った。


 見間違えるはずがない、晴翔だった。晴翔は先程まで俺がいた場所に立ち、乱歩の本を取って、安堵と疲労が混在した一息をついた。そしえ瞬く間にどこかに行ってしまった。


 俺は元の場所に戻り、本棚を見る。沢山の本が並ぶ中、歯っ欠けのようにポッカリと空いた隙間。心を奪われた「江戸川乱歩著犯罪幻想完全復刻版」だけがなくなっていた。この現状を端的に説明するならば、晴翔は乱歩の本が欲しいがために俺を騙したのだ。


 憎悪や悲哀の情より謎の解明の欲が競り勝った。

俺は数多に散りばめられた点を一本の線に繋げるため、必死に考えた。


 何故、俺は「千円」の値札を「千五百円」と勘違いしたのか。考えに考えた末、もっとも辻褄が合う簡単なトリックを思いついた。大掛かりなことは一切しない。晴翔はのだ。


 おそらく本の背に貼り付いていた値札は一枚目(千五百円)が完全に隠れるように二枚目(千円)が重なっていた––––つまり二枚重ねになっていたのだろう。


 晴翔は俺の所持金が千円だけだということをあの時、知っていた。二枚目の値札(千円)を見せれば買うのを断念させることができる。そう考えた晴翔は一枚目(千五百円)を咄嗟に剥がした。見せた後は剥がした値札を再び貼るだけ。これで完遂。


 今はもうないが証拠も先程見た。「千五百円」の値札が異常に皺だらけで黒ずんでいたのだ。多分剥がしてできたものだろう。更に乱歩の本を手に取った時の晴翔の挙動を思い返えば、確かにおかしかった。


 相談してくれればよかったのに、と俺は思った。今日、古書店に誘ったのは俺だ。誘った人なりの気遣いはするつもりだった。だが、晴翔は相談せず易々と騙す方を選んだ。俺は信頼されてなかったのか。


 また、晴翔が江戸川乱歩を愛読しているなんて知らなかった。だが、それは俺が鈍感なだけであって、四カ月前から言葉でなくても態度で伝えてくれている。


 春、晴翔は読書中の俺に何気なく話しかけてくれた。俺と晴翔を繋げた大切な本–––––あれは確か江戸川乱歩の「孤島の鬼」だった。決して忘れるはずがない。


 四カ月に渡り構築してきた俺と晴翔の関係も、俺にいつも見せてきた屈託のないあの笑顔も、黒ずみ皺だらけの値札のように、いとも簡単に剥がれてしまうものなのだろうか。俺には分からない。



 次の日、晴翔と俺は平然と会った。

 晴翔は「千五百円の笑顔」を張り付けていた。

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千五百円の笑顔 o_o @aruha_1129

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