千五百円の笑顔

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壱・本=鎖

 紺碧のランドセルを重たそうに背負い、無邪気に下校していた頃、古書店には「トイレの神様」がいるのだと可愛い勘違いをしていたことがある。

 

 邪悪な神様が店いっぱいに充満する香ばしいインクの匂いに身を潜め、俺の腹をこっそり殴っている。そうやって腹痛に追い遣り、トイレに誘導しているのだ。そう母に告げ口をしたら笑われたのを今でも鮮明に憶えている。

 

 俺は便所に籠り、脱糞しながら汚れなき少年時代の追憶に耽った。思い出から八年ほど経った今も「トイレの神様」はまだまだ健在で、同級生と来ていることなど歯牙にも掛けず、俺の腹をこっぴどく殴ってきた。とても本など見る気になれない。静寂を保っていた便所に腹鳴がきゅるきゅると谺した。


 大便をしてもなお腹が痛かったが、俺は続く痛みをぐっと堪えて便所を出た。これ以上長く友達を待たせたくなかったのだ。探す必要はなく、友達は近くにいた。


「トイレごときに待たせてすまんな」俺は肩をすくめて軽く謝罪した。


「全然大丈夫。立ち読みしてたらすぐだったよ」晴翔は微笑みながら持っていた本を閉じる。


「よかった…えっと、どこからだったっけ?」


「『ア』の二段からだったはず」俺たちは目的の本棚へゆっくり歩いた。

 

 晴翔とは四カ月くらい前から関わりを持つようになった。進級してクラスが替わり、友達が全くいなくなってしまった俺は孤独感に浸りながら本を読んでいた。すると突然、晴翔は話しかけてきたのだ。


「『孤島の鬼』か…センス良いね」

 

 元から面識があったかのように話しかけられた俺は目を丸くした。晴翔の開放的な性格に最初は動揺したが、話していく内に自然と打ち解けた。本のジャンルの趣向を交わすとお互いミステリ愛読家だということを知った。

 

 情意投合した俺たちは先生に下校を急かされるまで熱く語り合った。そしてその日を境に俺たちは友達になった。各自オススメの本を持ち寄って交換し合ったり、一緒に本の批評をしたり、晴翔の自作推理小説–––新本格派だった–––を試読したりなど。勉学はそっちのけで俺たちは甘美なる本をこよなく愛した。またページを捲るたびにお互いの関係は親密なものになった。


 俺の中では「相棒」と呼んでもいいほど、肝胆相照らす仲となっていた。だが、意外なことに外に遊びに行ったりは今の今までしたことなかったのだ。俺はずっと夢見ていた。友達と古書店に行き、日が暮れるまで本について語り合う夢を。それを現実にするため、四カ月という月日を経て、俺は晴翔を決死の覚悟で誘った。晴翔は俺の誘いに快く乗り––––そして今に至る。

 

 目的の本棚に着いた俺たちは棚に沿って蟹歩きし始めた。ざっと見た限り品揃えはとても充実していた。相場英雄から始まり、青木淳吾、赤川次郎……と多種多様な本がピアノの鍵盤のように詰まっている。中にはSFの絶版本やいかにも妖しげな怪奇雑誌がちらほらと。この店は面白そうだ。そう思いながら一瞥していると晴翔が不意に、


「初見の本棚ってなんかいいよね。その人ならではの小さな世界が広がってるというか……」と俺の顔を覗き込むようにはにかんで言った。

 

「めっちゃ分かる。本の並べ方とか、本のジャンルとかで所有者の性格趣向が赤裸々に露呈してる感じが凄く堪らん。超小規模な国際博覧会?みたいな」


「ね。けど僕は本棚見られるの恥ずかしいかな。本の偏りが半端なくて……人のは見たいけど、自分のは見せないって自己中心的だしワガママだけどさ」


「俺もだよ。ならスマホ見られた方がまだまし」

 

「本棚にもパスワードかけれたらいいのにね」


 深そうに聞こえて、やっぱりくだらない、そんな他愛のない話をしながら俺たちは歩みを進めた。


「あ、凄い」晴翔は目を輝かせてながらある本を手に取った。チラ見すると、それは綾辻行人の「十角館の殺人」だった。


「十角館は館シリーズの中でも突出して傑作ミステリだよな。ラスト一行には凄すぎて笑ったよ」


「クローズドサークルってのが痺れるよね。あと程よい本の厚さだし。読みやすかった記憶があるよ」


「確か家になかったし、買おうかな」俺は晴翔の話を聞いていると、無性に「十角館の殺人」を買いたくなった。共に来たという思い出の品としてもいいかもしれない。


「んーと……二百円だよ。買っちゃえば?」晴翔は本の背に貼ってある値札を見せた。俺はポケットから所持金を取り出す。千円札一枚。即決で買うことにした。


 更に歩みを進め『イ』の段に来た。次は俺が本を手に取った。みんな大好きなあの小説家の。


「あ、伊坂幸太郎の『アヒルと鴨のコインロッカー』だ。それも盛名を馳せた傑作ミステリだよね」


「映画も昔見たな……まさか映像化できるとは思わなかったけど」俺は過去を懐かしんで言った。


 更に更に歩みを進め『エ』の段に来た。俺は「あれもある、これもある」と弾んだ声を漏らしながら本棚を舐めるように見ていると、急に晴翔が立ち止まった。どうしたのだろう、と思い視線の先を黙々と辿ると右手の本に留まった。


 江戸川乱歩著犯罪幻想完全復刻版–––––


 俺は見た瞬間、心内に浮かぶ感激の風船がぷぅーと膨らんだ。数多いる作家の中で、俺が一番敬愛するのは乱歩だった。そんな乱歩の変遷と軌跡が記された書と考えるだけで思わず舌舐めずりをしてしまう。


 ミステリ愛読家なら誰しもが高揚し歓喜する、そう思っていた。だが、晴翔の顔付きは俺の予想を裏切った。苦虫を噛み潰したような顔を張り付けていたのだ。驚きのあまり感激の風船が微かに萎んだ。


「大丈夫か?どうした?」俺は優しく聞いた。


「え…あ…あぁ、大丈夫。問題ないよ」動揺し震えた声をする晴翔。何かあったのだろうか。俺は心配とユーモアを込めて言った。


「うんこか?」時間を少し置いて晴翔はぷっと吹き出し破顔した。静寂だった古書店に笑い声が響く。


「うん、そうかもしれない」いつもの笑顔を取り戻した……が、俺ははたと困惑した。晴翔のいつもの笑顔が分からなくなってしまったのだ。今浮かべている笑顔がいつも通りのはずなのに、何かが違うような気がしてならない。この感覚はあれだ。散髪した友達の元の髪型が分からなくなってしまった感覚と類似している–––そんな訳の分からないことを思案している内に、今度は逆に俺が苦悩の表情を浮かべてしまった。


「大丈夫?うんこ?」さっきの表情の面影は残っておらず、からかうように晴翔は言った。


「そうかもな」俺は思案を捨て去り微笑んだ。腹はもう痛くない。


「……ところでその本何円なの?買いたいな」所持金で足りるのなら俺はすぐ買いたかった。だが、晴翔は首を横に振り、値札を見せた。


「千五百円……復刻版だから流石に高いね」晴翔は肩をすくめる。所持金では買えない金額だった。残念ながら今日は諦めて、また後日出直してこよう。


 俺たちは三十分ほどかけて『ア』から『ワ』まで網羅することができた。友達と話しながら本を鑑賞するのはとても楽しく、充実した時間を過ごせた。だが、脳裏にこびりついた乱歩の本が俺の集中心を欠いた。お金を借りるなどすれば買えないこともなかったのに、お願いの一言がどうしても言えなかった。俺はもどかしい気持ちのまま古書店を後にした。


––––そして事件が起きる

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